「熱、三十七度六分。兄貴……昨日、おそくまで外にいるからだぞ」

「……すまん」



 熱に浮かされた頭にみなほの声は響く。だから何とか黙ってほしかったんだが、自分で

言うにも頭にきつい。

 でもみなほも俺の体調を分かっているだけに、すぐ声を潜めてくれた。



「もうお母さんが学校に休む連絡入れているから、兄貴はずっと寝てなよ。じゃね」



 体温計を持ってみなほは出て行った。

 階段を降りていく音が遠ざかると、とたんに静かになる。

 聞こえるのは自分の荒い息遣い。

 あとはほとんど耳に入ってこなかった。



(……青島は大丈夫だったかな?)



 ぼんやりとした頭で考えるのは、昨日同じように競技場にいた青島だ。

 なんとなく俺より寒そうにしていた気がするし。俺と青島が休んだら、中村が何かあっ

たんじゃと勘ぐるかもしれない。



(それにしても……)



 昨日の青島の話を聞き終えて、俺の好きになる女の子ってどこか弱い部分あるんだなと

痛感した。

 亜季も中村ほどではなかったけれど、やっぱり傷を抱えていた……。



(なんだかなぁ……)



 徐々に意識がもうろうとしてくる。

 さっき飲んだ薬が効いてきたらしい。



(亜季、かぁ)



 なんとなく亜季の姿が浮かんで、暗くなった。



* * * * *
「ごめん。別れてくれる?」 「……あ、そう」  亜季の言葉に対して、俺は何も言えなかった。ただ、肯定しただけだった。  前日まで何も変わらず一緒に帰ってたはずなのに、どうしていきなり別れを告げられる んだ?  わけが分からない。  だから、何も言えなかった。まるで金縛りにあったかのように。 「じゃあ、また明日ね」  亜季の後姿を見送る。姿が消えても、俺はしばらくその場に立ち続けていた。 「なんなんだよ……」  後からくる後悔をどうしても気にせずにはいられなかった。  次の日、亜季は俺をふった時と変わらない様子で話し掛けてきた。  玄関で靴を履き替えている時に、ふいに亜季の声がする。 「おはようっ!」 「おは――」  俺も思わず普通に答えてしまう前に、俺は口をつぐんだ。言いかけたままに俺は亜季か ら離れる。俺の行動を疑問に思う亜季の気配が伝わってきたけれど、俺はそれを無視して 教室に入った。  どういう顔をして亜季と接すればいいのか分からない。  昨日まで彼氏彼女で、気兼ねなく話せていたのに……今の亜季はとても遠くに見える。  でも亜季はそれに構わず話し掛けてくる。  正直……どういう神経をしているのか分からなかった。 (なんだろ? 亜季にとってはそんなに気にならない存在なんだろうか)  初めて亜季に恋をして、初めて告白して、初めて付き合えた。  少しの間だったけれど……キスもしたし。  そこから簡単に友達に戻れるものなんだろうか? 「分からない」  思わず呟いて、前の席の友達が振り返ってきた。 「なした?」 「……いやー、数学の問題が分からなくてな」 「一時間目は国語だよ?」  そう言って前を向いた友達に気づかれないように、俺はため息をついた。  俺が意図的に亜季と関わらないようにしていたから、それに最初に気づいたのは俺では なかった。 「なあ、小谷ってなんか浮いてない?」  給食中、俺の前で食べていた伊藤が言ってくる。ちょうど全部食べ終えて、出てきそう になるゲップを押さえていた俺は、いきなりの言葉にむせた。  しばらく咳と格闘してから、言葉を返す。 「なんだって? 小谷が?」  一応付き合っていることは隠していたから、苗字で言う。でも、これからは皆の前と亜 季の前で言い分ける必要はないんだよな。それを思うと悲しくなる。  でもそこで悲しんでる暇はないかもしれない。 「なんで?」 「そんなこと言われてもな。ただ、そう見えるんだよ」  伊藤に言われて俺は亜季の方を見る。亜季は四人一組になって給食を食べていた。  特に変わったところは、俺には見えない。 「別に浮いてるってわけじゃなさそうだぞ」 「なんとなく見えるんだよ」  伊藤は憮然とした顔で言ってから黙った。  俺はもう一度、亜季を見たけど何も変わったところは見えなかった。  伊藤が亜季の様子がおかしいみたいなことを言ったから、なんとなく気になっていた。  でもそれから数日見ていても、特におかしいところは見受けられない。  普通に女の子達と話しているし、授業も受けてるし。  何をおかしいと思ったんだろう? 「だから、なんとなくだって言っただろ?」  伊藤に聞くと少しむきになって言い返してきた。  その強さに俺も思わず後ろに下がってしまう。 「お前、なんでそんなに気にするんだよ?」 「何でって……お前がそんなこと言ったからだろ! なんとなく気になるじゃないかよ… …」 「俺はもう知らん。気のせいだったんだろうさ」  そう言って伊藤は怒りながら離れていく。  おそらくもう何を聞いても答えてくれないだろうな。仕方がない。  でも、確かにどうしてそこまで気になるのか自分でも分からなかった。  亜季はここ数日も俺に対して態度を変えずに挨拶してくる。俺も少しずつだけど顔を見 て挨拶を返せるようになってきた。  まだまだ抵抗感があってはっきり言えないけれど。  やっぱり、まだ亜季に未練があるからだろうな。 「高瀬高瀬」  自分の席に座ってそんなことを思ってるうちに後ろからかかる声。  俺は何とか振り向いた。 「どうしたの? 小谷」  亜季が申し訳なさそうな顔をして手を合わせている。学校では亜季も俺を名前では呼ば ない。というか、別れたのに名前で呼ぶのもどうだと思うが。 「ごめん。五限目の数学の宿題さ、やってきたノート家に忘れたんだ。ちょっと回答見せ てもらっていい?」 「いいよ」  俺は頷いて、鞄の中からノートを取り出して亜季に渡す。それを受け取ってもう一度申 し訳なさそうな顔をしてから、亜季は自分の机に戻っていった。 (亜季も宿題忘れることあるんだな)  亜季は宿題をまずやってくる。俺も何度か忘れてきた宿題を見せてもらっていた。  だからこそ、何か違和感があった。 (……まあ亜季も人の子ってことだよな)  違和感は逢ったけれど、そう思って特に気にしなかった。  亜季の周りの変化に気づいたのはその後からだった。 「……小谷」 「あ、おはよ〜」  玄関で亜季と顔をあわせる。  いつもなら先に亜季から声がかかるが、そのタイミングで来なかったんで今回は俺が先 に声をかけた。 「? なに?」  こうして見ていると普段と何も変わらない亜季だ。  俺が気にするような違和感はどこにもない。  それが、逆に心に引っかかる。 「なあ亜季。何か最近変わったことないか?」  周りに誰もいないことを確認してから名前で尋ねる。  俺の言葉の真剣さが伝わったのか、亜季は身体を振るわせた。  でも……すぐに笑みを浮かべる。 「なーに言ってるの。何もないよ。さ、早く教室行こう〜」  そのまま亜季は先に行ってしまった。俺はゆっくりと靴を履き替えてから歩き出す。  と、そこでクラスの女子が一人、俺を見てにやついているのが見えた。  ……亜季を呼び捨てにしてるところ見られただろうか? 「高瀬君。小谷さんと仲いいよね」 「? そんなの、今更だろ?」  今は十月だし、亜季と俺が仲いいのは五月辺りから見てきたはずだ。  今更改めて言われることないだろう。 「なにか小谷さん言ってなかった?」 「……やっぱり何かあるのか?」  俺はその娘に詰め寄る。  もし亜季が何かに困っているなら、助けたい。  彼氏彼女ではなくなったけれど、普通の友達よりも近い位置に俺はいるはずだ。  でもその娘は何がおかしいのか、笑ったまま何も言わない。  流石に不自然さを感じて、俺は距離を取った。 「何も言ってないなら、ないんじゃなーい?」  その時、俺の中によぎったのは、怖さだった。  得体の知れないものに出会ったような感覚。  目の前にいるクラスメイトが、まるで自分とは全然違う生き物のように思えた。  硬直した俺に構わずに去っていく彼女を、俺は見るしかなかった。  教室に戻って席に座ると、俺は注意深く亜季の行動を見つめる。  そうすると今まで見えていなかったものが見えた。 (何かおかしいと思ったら……)  俺は伊藤が何に不自然さを感じていたのかを、今更ながら理解した。  亜季と周りの女子の空気が違う。  普段通り接しているように見えて、微妙にずれている。  亜季が何かを話しかけても反応しないこともある。  彼女一人でいることも多くなってきた。 (……亜季)  でも、それが分かったからって俺に何が出来るんだ?  亜季がトラブッてるのは女子とだけだ。俺が関わってもこじれるだけだろう。  ……亜季が学校にこなくなったのは、それから数日後のことだった。
* * * * *
 目の前にある亜季の家。  門を通り抜けて家のドアチャイムを鳴らすのにも緊張する。  でも流石に一週間も学校にきてない亜季を心配しない理由なんて無い……はずだ。  ゆっくりと指をドアチャイムに押し当てる。  電子音が鳴ってから少し。柔らかな声が俺を迎えてくれた。 『はい。どちら様ですか?』 「亜季さんの同級生の高瀬と言います。学校で配られたプリント、持って来ました」  少しの間、困惑する気配が伝わってくる。でも、玄関のドアを開けたのは亜季だった。 一週間前に見た亜季とほとんど変わらない。  ちょっとだけ、元気が無いくらいだ。 「ありがと。届けてくれて。あがってく?」 「……いいかい?」  亜季は笑顔で俺を家に迎え入れる。今の俺には亜季のかげりが見えていた。  彼女の後をついて二階に上り、部屋に入る。  大きな熊のぬいぐるみがベッドに鎮座していたり好きな歌手のポスターが貼ってたり。  そういえばみなほ以外の異性の部屋って入ったの初めてだ。 「そこらへんに座ってて。今、ウーロン茶でも持ってくるよ」  亜季は俺の返答を聞かずに部屋を出て行く。  言われた通りにじゅうたんが引かれた床に座る。  そして、訊くことを心の中で反芻した。  亜季が戻ってきて俺の前にウーロン茶が入ったコップを差し出してきた時、俺は受け取 りつつ言った。 「何があった?」  いろいろ考えたけれど、シンプルに行くしかないという結論だった。  亜季は顔を少しゆがめたけれど、すぐに笑顔になる。  好きだった笑顔だ。 「……まあ簡単に言えばいじめかな」  やっぱり、と心の中で呟く俺がいる。  でも、その事実を知ったことの怒りよりも、亜季が俺にすんなりと言ってくれることの 嬉しさが強い。  不謹慎だと、自分を叩く。 「どした?」 「いや、なんでもない……で、原因は?」 「さあ」  すんなり「さあ」と答える亜季に俺はいつの間にか口が開いていた。 「だって、何もしてこないんだもん」  それから亜季は何があったのかを話し始めた。  亜季の話によると、結局何が発端となったのか分からないようだった。  いつの間にか事態は進行していて、亜季は孤立していたらしい。  それも表面上はそんなに大げさではなく、当り障りの無い日常の接触は出来るらしい。  でも、給食の時や実験の時などに亜季の言葉に女子はほとんど反応せずに、話が流れて いくらしい。  巧妙に先生にも隠されているため、亜季はその異変を言うきっかけがなかった。 「で、もう嫌になっちゃったわけ。まあ勉強は続けるし、二年になったらクラス変わるか ら、また普通に出て行けるようにはなるでしょ」  亜季は、つまりは登校拒否というものをしているのに明るく振舞う。  そんな様子を見ていると、やけに悲しくなってくる。  自然と視線が下を向いてしまって、亜季が不思議そうに尋ねてきた。 「泣いてるの? 雄太」 「……そんなわけあるか」  言葉が上手く言えない。  揺れる視界と出そうになる嗚咽。  自分でも否定できないほど、俺は泣いていた。  彼氏彼女の関係まで行った女の子。  今でも、大好きな女の子が困っているのに、俺は何もしてあげられない。  俺に笑顔を向けて心配させまいとしている亜季が、遠く見えた。 「雄太。何を勘違いしているか分からないけど」  気づくと、亜季の顔がそばにあった。  反射的に顔を引こうとしたけれど腕によって阻まれる。 「雄太、自分がわたしの力になれないとか思ってない? そうだとしたら、そんなことは ないよ」 「……でも、お前――」 「雄太はね、いつも通り振舞ってくれていればいいの。わたしの傍で」  さっきと同じ亜季の笑顔。でも、見え方が違う。 「結構明るく振舞ってるけれど、やっぱりショックだったから登校拒否なんてすることに したんだよ。でもこうやって明るく振舞えるのは雄太の前だから。弱いところを見せられ ない、とかじゃなくて、本当に心の底から笑えるんだよ。雄太が居るから」  亜季の頬は少し赤くなっている。聞いてる俺の顔も赤くなっているだろう。こんなにも 熱くなってるし。でも、それでも亜季は言葉を続けてくる。 「立ち直るのは、やっぱり自分自身の力だから、わたしは笑うんだよ。そうさせてくれる のは雄太が傍にいるから。わたしを大切だと……思ってくれてるんでしょ?」  声に出さずに頷くと、亜季は満足そうに首を動かす。 「なら、わたしはそれで十分なの。雄太はいつも通りしていてほしい。いつも通り……わ たしの友達でいてくれれば、他にいらない」  俺は何度も頷いた。亜季の言うことをようやく理解したから。  この瞬間、俺は亜季と『親友』になった――
* * * * *
 目が覚めると、熱は平熱より少し高いくらいまで下がっているようだった。  身体をゆっくり起こすと、まだだるいけれど動かせる。  汗を吸って重くなったパジャマを脱ぎ捨てて下着を代えてから、下をジャージに穿き替 えて、上はTシャツを着た。何となく肩を回しながら身体の調子を確かめる。 「……うん。まあまあか」  起きてみると部屋は暗かった。  電気を一番小さい光量にしてから時計を見ると、午後七時を回ってる。  ちょうど腹が鳴った。 「そう、なんだよな」  亜季はあの後、いろいろ登校してなかった時のことを噂されるのが嫌で、高校は別のと ころに行ってしまった。  でも、彼女は確かに立ち直った。自分で立ち直る道を探していた。  中村も酷いショックを受けて、傷つきたくないから人と触れ合うことを拒絶して。  それでも自分で立ち直ろうとしてる。俺に対しても、青島に対しても。  きっと支倉や翔治や信へもそのはずだ。  なら、俺達が出来ることは…… 「そのままでいることだ」  自分に言い聞かせるように言ってから、俺は腹が減ったという欲求に逆らわずに下に降 りていった。  立ち直るのは自分自身で、周りの人はその手助けしか出来ないんだから……。  なら、俺達は中村を信じて、友達でいよう。  そう、決めた。


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