中村が言っている意味が分からない。

 いや、分かるのだが思考が停止している。フリーズってる。

 なんだって? キス?



「な、中村……」

「中村さん! それは本当ですか〜!!」



 体育館の扉を思い切り押し開けて登場したのは支倉だった。いつぞや発揮した地獄耳が

再び現れたのだろう。どこで着替えたか分からないがジャージ姿で俺達のところへと走っ

てくる。

 急ブレーキをかけて止まると中村と俺の間に入って支倉は叫んだ。



「そそそそそそ……それは! ピンですか! キリですか!?」

「? 何、ピンとかキリとかって」

「ですから! ご褒美はピンかキリかどっちなんですか?」

「うーん。分からないけどとりあえずピンにしておく」

「ぴ、ピン……」



 支倉の脳内でどんな妄想が浮かび上がっているのか、想像するのに苦労しなかった。

 焦点が合わない支倉を押しのけて中村と再び向かい合う。俺も少し気になったんで、訊

いてみた。



「で、キスは本当なのか?」

「言葉のあやだよ」



 そいつは使い方を間違ってると言おうとしたが、翔治を先頭に信と青島が体育館に入っ

てきたことから言うタイミングを失う。まあ支倉がやる気になっているから否定すること

もないか。

 優勝した時に幻想だったと知るのを見るのもまた一興だろう。



「遅れてごめーん。練習はじめよ〜」



 翔治が遅れたくせに先頭きって練習を始めようとする。

 ……まあいいけどさ。

 翔治はトイレででも着替えてきたのかTシャツにハーフパンツ姿。

 信と青島は更衣室に走っていった。とりあえず準備運動でもしてるか。



「高瀬っちはどれくらいバスケできる?」



 翔治と背中合わせになって腕を掴んでもらい、背中に背負われる。翔治が足を屈伸させ

るたびに背中が伸ばされて気持ちよかった。その中で翔治は訊いてきた。



「まあ、人がいなかったら入れられるな」

「なら十分だね」



 今度は交代で、俺が翔治を背負う。「うーん」と唸る翔治を何度か揺さぶって床に下ろ

した。



「ちょっと勝負しようぜ」



 準備運動が終わったと同時に、支倉がボールをつきながら翔治を挑発してきた。



「いいよ〜」



 そのまま二人は俺から離れて対峙する。

 ボールは支倉が持ち、床につきながら一定の距離を取っている。翔治は腰を下げて抜き

にかかろうとする支倉に対抗できるようにしていた。

 ほとんど素人ながら支倉のボールさばきに弱さは無い。流石は元バスケ部。二ヶ月だけ

しか入ってないけど。



「ふっ!」



 息を吸い、吐いてタイミングを計っていた支倉が急にリズムを変えて息を吐くと、翔治

に接近した。翔治は下について上に上がってくるボールに右手を出したが、支倉はリズム

を再び変えてボールがバウンドする頂点に達する前に再び床に叩きつけた。当然、翔治の

手は空を切り、体勢を崩す。

 支倉はその隙に翔治の右側を抜けようと足を踏み出した。



「――!?」



 そこで抜いたと思った翔治が再び支倉の前に現れる。崩れた体勢を一瞬で立て直してき

た。支倉はドリブルしながら何とか翔治の隙を探そうとしてたが、見つからないまま時間

が過ぎる。と、そこで支倉のドリブルのリズムが崩れた。



「とりゃ!」



 あまり気合の無い掛け声を発しながら出された翔治の手は、一瞬気を抜いた支倉の手に

あったボールを弾いていた。



「ぬあ!?」

「よっし!」



 飛んだボールを追いかける翔治。慌てて後を追う支倉。

 だけど翔治の足の速さに全く追いつけず、翔治がボールを取った時には四歩分くらいの

差が開いている。

 でも、更に驚くべきことが起きた。



「いっくよ〜」



 ボールを持ち、足を踏み出して止まった状態から反転した翔治は一気にトップスピード

に乗って止まりきれない支倉の横を抜き去っていった。

 あまりのことに支倉はたたらを踏んで転ぶ。

 結局、翔治はそのままレイアップシュートを決めた。



「俺の勝ちだね〜」

「……凄いな、お前」



 思わず俺は言っていた。全速力で走っていても即座に止まれて、静止状態から一気にト

ップスピードに持っていける脚力。

 感嘆するしかなかった。



「お、勝負終わったか」

「じゃあ、残り時間で練習しちゃいましょ」



 青島と信が着替えて出てきて翔治に声をかける。翔治は笑顔で二人に対して礼を言って

いた。



「……ぬあ〜」

「相手が悪かったな。支倉」



 腰をさすりながら近づいてきた支倉に労いの言葉をかけてやる。支倉はうなずいてから

言葉を返してきた。



「頭もいいし運動も出来る。いやみだな……」

「そうならないのがあいつだよ」



 俺は思わず笑っていた。



* * * * *
 朝練習した後って言うのは意外と眠い。  結局、一時間目は半分は寝ていた。古典の高田先生の声は人を眠りに誘う。  あまりに心地よいのでいつも生徒の三分の一は確実に寝ていた。いつもは三分の二に入 っていた俺だが、今日は取り込まれてしまったらしい。 「……よく寝てたね」  中村の声に気づいたときは、すでに古典は終わっていた。俺はたれかかっていたよだれ を手でぬぐい、トイレに立つ。 「なんか宿題出た?」 「何も出てないよ」  中村の言葉に満足して、俺はトイレへと向かった。  特に用を足したいわけじゃなかったが、汚れた手も拭かないといけないし、眠っていた せいでだるくなった体もほぐしたかった。  トイレで手を洗い、出てきたところでちょうど見知った顔が目に飛び込んできた。 「……どうも」 「おはよう」  ぎこちない挨拶を交わして、その女子――三上はるかだったか――は女子トイレに入っ ていった。学校祭の時に屋上で告白されて、いろいろと言われてからなるべく目をあわさ ないようにしていたけど、とうとう合ってしまった。  というか、むしろ向こうから合わせてきたような……。 「なんでだろ?」  不思議に思いながらも、俺は教室に戻った。  放課後になって思い思いの放課後を過ごす。俺は当然に帰ろうと思っていたのだが、い つのまにか屋上に呼ばれていた。 「一月ぶりくらいかな?」 「そうだな」  目の前にはあの三上はるかがいる。  なんかこう、凄まじいことを言われた記憶が蘇る。 「高瀬君。まだ、彼女作ってないの?」 「そんなほいほい作れるかよ」  俺も相手が辛らつに言ってきた気持ちも分かるからあまり邪険には出来ないんだが、や っぱり口調はきつくなってしまう。  三上は俺の言葉に何故か笑って言った。 「ならさ、一週間だけ彼氏になってくれない? 体育大会が終わるまで」 「……は?」  意味が分からない。  俺は三上とは付き合う気はないというのに期限付きとは。  そりゃ中村と支倉が期限付きで付き合って、支倉が振られるのを見てるけど、あれはそ れを見極めるための期間だった。今回は見込みは無い。 「いいじゃない。あの中村さんもそうやったんでしょ?」 「何で知ってるんだ?」 「そりゃ、学年ナンバーワンの娘が男と街を歩いていれば噂になるわよ。それで調べてみ たら、期間付きの付き合いだったって分かったのよ」  三上の話を聞いて最初に思ったのは支倉が哀れだなぁということだった。  あいつとしては中村と付き合うために必死で頑張ったに違いない。そして周りではそれ を調べ上げられて、振られたことを知られ、きっと何人かの男子にはほくそ笑えまれたに 違いない。 「……なんで泣いてるの?」 「目にごみが入っただけだ」  何故か感極まってしまって俺は軽く涙を流した。うん、まあ本当に風に流されてきたご みが入ったんだけどな。 「まあそんなことよりも私と付き合って」 「無理」  そのまま俺は屋上の扉をくぐって階下に降りていった。  後ろで三上の叫び声が聞こえていたが、気にしなかった。
* * * * *
 ……と、気にしなかったからか、次の日に俺が見たのは弁当箱を持って昼休みに俺の教 室にわざわざ来る三上だった。 「お弁当作ってきたの。食べてよ」 「……なんで?」  本当になんで? 俺は昨日の行動を思い返してみる。  三上がまず期限付きで付き合ってみないかと言ってきた。  だから俺は断った。そこで話は終わりだったはず。  何が間違っているかといえば、三上があの話の終え方で引き下がるわけではないという ことを、俺が分かっていなかったんだろう。 「高瀬君。いつの間に彼女が出来たの?」  中村が普通に言ってくる言葉を否定しようと視線を向けた。  そこで、何か違和感を感じる。  いつものように笑顔を向けてくれているのだが、何かその笑みに、こう……例えるなら ば雷がまとわりついているように見えるんだ。  何かぴりぴりした気配を感じる。  な、なんで!? 「じゃあ私たちは邪魔だから、離れて食べよう」 「え、ええ……」 「中村さん! お供します!」  中村が席を立つと共に青島と支倉が離れていった。空いた席に三上が座り、電光石火の 勢いで弁当箱を開く。  中には半分ご飯。半分にはタコの形のウィンナーにゆで卵を輪切りにしたもの。そして ポテトサラダだった。 「朝五時起きで作ったの。まあ無理にとは言わないけれどなるべく食べて欲しい気がしな いでもないけどね」 「……どっちだよ」  断りたかったがここで食べないとまた何か大変なことが起こりそうで、とりあえずポテ トサラダに渡された箸を伸ばした。  とりあえず食べて誉めておけば納得するだろう。  口の中に運んで、喉の中に吸い込まれた時、絶句した。 「どう?」  不安そうに尋ねてくる三上に正直に答えた。 「美味い」  確かに三上は勝手に弁当を作ってきて、何か中村にも怒りを向けられてしまった。はっ きりいって三上は邪魔だが、思いはすれ違ってても俺のために作ってきてくれたのは事実 なんだ。流石にそんな弁当を食べずに、あと嘘をついてまでつっかえすことはできない。  だから俺は本当のことを言った。  確かに、三上の弁当は美味いのだ。 「よかったぁ」  弁当に視線を落としていた俺は三上の声に顔を上げる。そこには俺の言葉に安堵したの か顔を緩めている三上。  ……結構可愛いところもあるんだな。  そう思うと心臓が鼓動を早める。俺はとっさに視線を外した。  そこにちょうどいた中村と視線があう。 (お楽しみだねぇ)  口元が声を共につけず動いていた。読唇術など出来ないが、普通の人手も読み取れるく らい大げさに口を動かせば分かる。 (なんだ? なんであんなに中村は怒ってるんだ?)  考えられることは一つだけ。  まさか……嫉妬してる?  中村が俺に? (……少し気持ちいいかも) 「高瀬君、そんな幸福そうな顔するほど美味しいの?」 「え!?」  三上の言葉に俺は慌てる。確かにタイミング的にはそう見えてしまうだろう。でもここ で慌てて否定しても逆効果になるかもしれない。  と、迷っているうちに時間は過ぎて弁解するタイミングを逸してしまった。 「じゃあ食べさせてあげる!」 「きっぱりと断る!」  俺は流石に立ち上がって三上から逃げる。すると後ろから三上が弁当箱を持って追いか けてきた。片手には箸も持っており、弁当箱のウィンナーに箸を伸ばしている。 「食べてもらうまで諦めないわ! 体育大会が終わる日まで!」 「そんなにかよ!?」  そのまま俺達は教室から出て、デットヒートを昼休みが終わるまで繰り広げた。


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