空はとても晴れていた。雲ひとつなく晴れていた。遮るものなく眺める空は吸い込まれ

そうで、体が多少浮かぶような錯覚に襲われる。



「……やっぱりここにいたかよ」



 武田の声に俺は顔だけを聞こえてきた方向へと向けた。屋上の扉を開けっ放しのまま来

る武田に閉めるよう忠告して、俺は上体を起こした。武田は素直に扉を閉めて、俺のとこ

ろに寄ってきた。手には弁当箱を持っている。俺も家から持参したおにぎりを袋に入れて

持っていたが。



「それにしても、C組つえーな。残り三種目、逃げ切れるんじゃないのか?」

「そう上手くいくかよ。お前のB組も三位じゃん」



 武田は俺の隣に腰をおろして弁当箱を開ける。俺もおにぎりを口に運んだ。





 体育大会は一年ながらやけに勝利への執念が凄い俺のクラスが最初の100mから一位

を譲らないまま昼食に入った。綱引きだけ出てあとは応援だけに俺はかなり楽をしていた

が、それにしても皆凄かった。

 何しろ、女子は女子でやけに勝利にこだわり、一位になれば優勝したかのごとく喜び、

男子は男子で上位に入るたびに中村へと報告に行って喜ばれると更に頑張ると言う変な循

環になっている。

 男子は中村の笑顔が見たいというただ一つの理由でそこまで頑張れるとは……中村が級

長のほうがいいんじゃないんだろうか? 俺はおまけか。



「……やっぱり、出なかったんだ」

「ん? ああ。ようはクラスマッチな大会に本気出すと疲れるだろう」

「俺にまで本心隠すなよ」



 武田の声に真剣さが混じって、俺はため息をついてから意識を改めた。そうだ。武田に

は嘘はつけない。

 クラス団結の様子をクールに見ているなんて、自分を作るのは、こいつの前では無理だ。



「それにしても、立ち直ったかと思ったけどなぁ」

「……本気出そうとすると、寒気するんだよ」



 俺は隠さずに武田に言った。自分が感じていたこと。体育で走ったときも、本気を出せ

なかったことを。

 俺の中に巣食っている恐怖を。



「あの時も言ったけど、気にすることないんだぜ。怪我したのは、仕方ないんだからよ」

「みんなの期待を裏切ったとかは……もう大分克服できたんだ。級長なんてやってる成果

とは思う。問題は足のほうだな」



 俺は右足首をさする。武田は俺の様子を目を細めて見ていた。



「踏み出すと、また痛みが走る気がする。気の持ちようなんだろうけど」

「だからこそ難しいな」



 武田と俺は同時にため息をついた。

 それはほんの一瞬の油断だった。

 ゴールテープを突き抜けるそのときに、思い切り足を踏み出した。その足が、ほんの少

し大地を踏み損ねたんだ。走り抜けたことで倒れることはなかったけど、終わった後に一

気に足首に熱が生まれる。

 全てが終わった後で俺は動けなくなって先生に肩を貸してもらって何とか歩いていった。



「……んで、お前は中体連の代表を降りたわけだ」



 武田は弁当を食べ終わって背中を硬い屋上の床にゆだねて空を見ている。俺は両手を後

ろにつけて体を支えながら空を見ていた。



 少しだけ苦い過去の記憶。

 ほぼ大会記録に等しいものを出して期待されておきながら、結局怪我で応えられなかっ

た記憶。

 そのときのみんなの顔を、俺は忘れることが出来なかった。



「だからお前はみんなから注目されるようなことはもうしたくないと、あの時言ったな。

正直、あの時じゃしょうがないと思って俺も言わなかった。でも高校に入ってすぐに級長

なんて自分の意思と正反対の事してよ……荒療治だけどお前にはいい治療かなと思ったん

だぜ」

「確かに、気持ちのほうは大分収まったよ。さっき言ったように」



 俺は知らず知らずに自分の右足首に視線を向けていた。

 俺の弱さの象徴。

 俺を何となく皆と同じ物を見ようとすることを妨げていたもの。

 この足にある錯覚の痛みが消えるときこそ、俺は本当に立ち直れるのかと思う。



「ま、焦らず行けばいいか。その分じゃ、来年なら立ち直ってトラック競技に出れるだろ。

そのときは勝負しようぜ」



 武田は起き上がり、立ち上がって背中を向けていた。俺はその背中に「ああ」と小さく

呟く。それだけで武田は通じたのか片腕を上げて手を振った。



 武田が消えた後、俺も立ち上がって校内へと入る。昼食休みはもう少しで終わりからか、

教室で雑談しているやつらがほとんどだ。俺は気づかれないように階段を下りていく。何

か、屋上から出てくるのがばつが悪かった。

 一階まで来たところで、ちょうど前方にある部屋のドアが開く。

 そこから出てきたのは青島だった。



「青島?」

「あ……高瀬……」



 青島は決まり悪そうに俺を見る。俺は青島が出てきた場所を見て、ボリュームを下げて

訪ねた。



「お前……どっか痛めたのか?」



 青島が出てきたところは保健室だった。青島は何を言っても騙せないと悟ったのか素直

に呟いた。



「足、やっちゃった……」



 青島は少し疲れた様子で俺のほうを向いてきた。その顔に浮かぶのは足の痛みによるも

のではないだろう。両足はしっかりと廊下を踏みしめている。とりあえず普通に歩くには

問題ないんだろう。

 歩くには。



「……走るのは無理だろうな」

「うん。ちょっと頑張りすぎたみたい」



 青島は笑顔を向けてきた。その顔を、俺は直視することが出来ない。

 その顔は俺が知っていた顔だ。

 中学時代、怪我をして代表から落ちざるを得なかったとき、皆に励まされたときにした

笑顔だ。

 心の中の悔しさを抑えて、浮かべた笑顔だ。



「青島」

「……何?」

「無理するな。お前は十分やったよ。100mも200mも一位だ。誰も文句は言わない」



 俺の言葉に青島の笑顔が消える。次に出てくるのは俺への怒りの言葉か、自分への侮蔑

の言葉か。

 青島の口が開かれて、言葉が紡がれる。



「大丈夫よ。無理はしてない。ただ……自分で納得できないだけよ」



 青島はそのまま俺に背を向けて歩いていった。どうやら彼女は俺よりも数倍強いらしい。

その事に安堵しつつ、俺は後を追っていった。もうそろそろ午後の部が始まる。



* * * * *
「とうとう最後の競技か」  俺は点数表を見ながら呟いた。数々の激闘が描かれてきた大会も、男子400mリレー で最後となった。女子のリレーはB組に負け、とうとう同率一位となった。今までの結果 から予想すると、このリレーでB組以外に負けるとは思えない。  結局は、この最後の最後で一騎打ちの様相を呈してきていたのだ。 「女子リレーで負けなきゃなぁ……青島が出てれば負けなかっただろうにさ」  一人の男子が、呟いた。その言葉に体を硬直させる青島を、俺は見逃さなかった。俺が その男子に注意しようと足を踏み出しかけたとき、乾いた音がその場に響く。  誰もが動きを止めて音の発生点を見ている。  誰もが驚愕して、一様に口を開けていた。 「裕美に謝って」  張り手を放った体勢のまま、中村が怒りを隠そうともせずに言う。その顔は誰もが始め て見る怒気に満ちたものだった。 「ご、ごめん!」  張り手をくらった男子もしばらく硬直していたが、青島に向けて慌てて謝る。青島も戸 惑いながら男子を許した。 「……勝てばいいんだろ」  自然と言葉が口に出ていた。  俺の言葉にみんなが注目するのが分かった。俺は少し気後れしたが、言葉を続けた。 「なあ。身勝手だとは分かってるが、俺に走らせてくれないか?」  俺はリレーに出ていたメンバーに向けて言った。その中の一人が一歩踏み出して言って くる。赤間だ。 「確かにお前は一番足が速いけど……それでも確実に勝てる保証はないだろ? なら、バ トンタッチの練習してきた俺達なら、まだ勝てる可能性はあると思うけどな」 「B組に勝ちたいんだろ?」  赤間の言うことは正論だった。でも、何か俺は引けなくて更に続ける。  これからの言葉で赤間たちが許してくれるかは賭けだった。 「B組の最後のランナーは俺の友達だ。あいつに足で勝てるのは……多分、この中じゃ俺 だけだ。いくらスムーズにバトンタッチできても、同じくらいB組も出来たなら、負ける 可能性のほうが高い」  俺の言葉を聞いて赤間は勝率を計算しているようだった。今までのメンバーで行くか、 俺を入れるか。俺を入れるなら誰を抜かすか。  何か、周囲に緊迫感が漂う。そんな中で、いいずらそうに詰まりながら、声が上がった。 「あー、いいかな?」  支倉だった。支倉もリレーのメンバーに入っている。赤間達の後ろからおずおずと手を 上げながら出てきた支倉は一息つくと言葉を発した。 「俺、足ちょっと痛めちゃってさ、さっき走ったとき」 『えっ?』  リレーのメンバー、そして俺。その他クラスの皆が支倉の発言に驚愕の声を上げる。支 倉は決まり悪そうに頭の後ろをかき、歩き出す。 「だから、俺の代わりに高瀬出てくれよ。お前なら多分大丈夫だろ」  支倉は俺の肩を叩いて、歩いていった。そのまま保健室へと向かうんだろう。ちょうど 放送が最終リレーの開始が真近であることを告げる。もう迷っている暇はなかった。 「よーし! 高瀬、頼んだぜ。お前アンカーな!」  赤間は決まったならば迷うことはないと思うのか、もう細かいことは口出ししてこなか った。クラスの皆も俺を含めてリレーの選手達を激励する。  俺はその中で、一人歩いていく支倉の後姿を見ていた。 (サンキュな、支倉)  俺は心の中で深く頭を下げていた。  ウォーミングアップしながら俺は第五走者が並ぶ場所へと歩いていった。誰もがさっき まで出ていなかった俺に対して不思議そうに視線を投げかけてくる。その中で一人だけは 俺がいることが当然と言わんばかりに顔をにやつかせながら見てきた。 「出てきたな」 「まあ、どっかの馬鹿が譲ってくれたからな」  支倉にはあとで十分礼をしよう、本当に。  武田は俺の内心を悟ったかのように、肩を叩いてから離れていった。見ると第一走者が もうスタートラインに付いている。あと少しで、レースが始まる。 (……勝ってやろうじゃないか)  徐々に高まってくる緊張感が心地よい。中学の中体連で経験した感覚だ。体の奥から湧 き上がってくる気持ちを暑い吐息と共に吐き出す。  と、そこで声が聞こえた。 「高瀬君頑張れ〜」 「高瀬! 負けないでよ!」 「お前が負けたら俺が代わった意味ないぞ!」  皆が第一走者のところで応援を始めようとしている中で、中村と青島、そして支倉が応 援に駆けつけていた。自然と支倉の足元を見るとやはり包帯は巻いていない。  それに気づかないふりをして、俺は三人に声をかけた。 「ああ。全力でやるよ!」  俺の声と同時にピストルの音が鳴った。  第一走者が走り出す。俺は一気に気を引きしめて徐々に近づいてくるバトンの行方を追 っていた。  第一走者から第二走者へとバトンが渡る。C組は一位。B組は二位だ。次に渡るときも 同じ。そして第四走者に渡ったときについにB組が逆転していた。三位以下はかなり差が 開いてる。この分だと確実にCとB組の一騎打ちだ。 「やっぱり俺達だな」 「そうだな」  武田が俺に近づいて言う。俺は完全にバトンに集中していた。練習無しのぶつけ本番。 一瞬でも遅れれば武田には勝てないだろう。  武田が徐々に走り出す。俺も遅れて走り出す。俺を追い抜かすB組の第四走者。俺に近 づいてくる赤間。  武田にバトンが渡り、スタートダッシュをかけた瞬間、俺の掌にバトンが渡った。 「頼むぞ! 高瀬!」 (任された!!)  練習なしのぶつけ本番。  バトンはスムーズに手に収まり、俺は前を走る武田に向けて走り出した。  風が心地よかった。  前に進む俺を妨害するかのように押し寄せてくる風の壁。  足が速く動けば動くほどに圧力が増してくる。  でも、俺は風の壁を突き抜けて走っていく。  目の前には武田。そして流れていくか風。  約一年ぶりに感じる風は、俺を邪魔はしなかった。 「たかせぇ!!」 「いっけ〜!!」  外から聞こえる声援も、俺自身の息遣いも後ろに流れる。  もう目の前しか見えず、自分の吐く息の音しか聞こえない。 (俺は、走れてる!)  一瞬だった。  俺の少し先に新たな背中が現れる。それは少し幼かったけれども、確かに俺自身だった。 今の俺よりも少しだけ前を、武田よりも少しだけ前を走る『俺』  前を走る『俺』の顔が俺を振り向く。その顔に浮かぶのは――何の感情なんだろう?  ただその顔を見た瞬間、俺の中に何か力が湧いてきた。  足を踏み出し、加速がかかる。  足や体が悲鳴をあげたが、俺は警告を無視して足を進める。  足首から来る痛み。それを幻想だと振り払う。 「うおおお!!」  目の前にいる自分にだけは負けたくなかった。過去の俺には負けたくなかった。  武田に負けるよりも、クラスの皆の期待に応えることが出来ないことよりも、何よりも 自分に負けるのは納得いかなかった。 「いっけえ!!」  外から聞こえる中村の声。  その声と同時に、俺と『俺』の姿が重なる。その瞬間に、俺の体はゴールテープを切っ ていた。 『優勝、一年C組!』  放送部が優勝クラスを放送する。それと同時にクラスの皆が歓喜し、叫んだ。心臓の高 鳴りを抑えられないまま、俺はその場に座り込む。その横に武田も座り込んだ。 「やっぱり勝てなかったなぁ……お前、足は?」 「痛くないよ」  足首の痛みはなかった。走っている最中に感じた痛みは、やはり幻だったようだ。  俺を縛り付けていたものはどうやら無事に消えたらしい。 「よかったな」 「……ありがと」  武田が差し出してきた手を握り返す。こんなところで青春ドラマを演じている自分がや けに気恥ずかしい。と、そこにクラスの皆が殺到してきた。 「みんな! 高瀬を胴上げだ!!」  支倉が叫び、俺の体が引き上げられる。俺の意思とは無関係に体は中を舞っていた。心 地よい浮遊感の中で、そんな青春ドラマもいいなとも思っていた。


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