「今日は体力測定をするぞ」



 と、体育の丸山先生はオレンジジャージに包まれた狸腹の前で腕を組んでいた。何故か

胸の前では組まない先生の独特のスタイルに、俺達の中では笑いの種となっている。

 だが、この人は本気できつい。

 体育のレベルを部活レベルまで引き出そうかというくらいに彼は熱血している。

 今回の体力測定も真面目にやらなければ即、通知表には2がつくだろう。

 丸山先生の後ろにはステージがあるが、そこには四組ほど体前屈用の計りがすでに設置

してある。ステージ上には机があり、どうやら握力計が置いてあるようだ。



「めんどくせーなぁ」



 俺の後ろでクラスの本山がぼやく。俺は言葉にはしなかったが心の中でうなずいた。と

いうか、それしか出来なかった。



「ん? そうかそうか、本山は一番最初にやりたいのか」

「え、いいっすよ!?」

「遠慮するな。みんなに例を示してやれ」



 そう言って先生は本山を引っ張り出した。

 俺は――俺達は「しょうがない奴だ」という空気をその場に生み出す。

 あの先生はとてつもなく地獄耳だということを、まだ本山は理解していなかったらしい。



「まず、ステージ下で反復横飛び。その後は体育用具室に備えてある肺活量測定器で肺活

量を測るぞ。そして壇上では体前屈と握力を測る。最後にステージ端にある計りで垂直飛

びの高さを測るぞ。今日はこれだけ終わったらバレーをやるから、早く終わらせるように」



 その言葉を聞いて俺達は心に決めていた。

 周りの考えなどもう聞かなくても分かる。花見で培った連帯感の賜物だ。



 みんなの思い、それは……絶対、遅くしてバレーなどするものかと言うことだ。



 そもそも、入学当初の俺達にバレーで弾丸スパイクをレシーブさせたのが丸山なのだ。

腕が腫れあがって風呂にも入れなかったのはまだ一月前のことでもない。

 すでに本山は全ての測定を終わらされてぐったりしながら俺の後ろに座る。

 先生はいつも少しにやつかせている顔を更にほころばせ、首に下げている笛を口に含ん

だ。



「じゃあ、一番前から初め!」



 言葉とともにくわえている笛がぴーひょろろと鳴るのは可笑しかったが、今の俺達には

突っ込む余裕も無く、一人目が最初の反復横飛びを始めている。俺達はどのように時間を

ロスさせるかと考えていた。



* * * * *
「小林。右手握力36。左手25。低すぎだぞ。ほうれん草食べろよ」  丸山は生徒が報告するデータを紙に書き込んでいく。俺達はバレーを避けるために何と かしないとと思っていたが、この一連の流れで何が出来るというでもなく、ただ流れに任 せて測定をしていた。  でも、この測定、意外と時間がかかっている。 「もしかしたらこのまま体力測定で終わるかもな」  俺の後ろで支倉直人(はせくらなおと)が囁いてきた。俺は微かに頷いて、肯定の返事 をする。やはり丸山が聞いているかもしれないとなると迂闊なことは言えない。 「次、高瀬」 「はい」  俺は素直に立ち上がり、反復横飛びの場所に立った。三本ある線の真中を挟んで立ち、 準備を整える。ふと、折角やるなら本気でやろうかという考えが脳裏に浮かんだ。そのタ イミングを計っていたかのように先生は言ってきた。 「そうそう。あまりにやる気が見られないスコアだと次の体育はそのスコアを出した奴だ け特別メニューを課すからな。そのつもりでやってくれよ」 『それは先に言ってください』  そんな意見を言いたくても言えない空気が俺達の中に広がった。どうやらどこまでがボ ーダーか分からないが、本気でやるしかないようだ。先生はやると言ったらやる。 「じゃあ、始め!」  笛が吹かれたと同時に俺は足を横に踏み出した。三本線を瞬時に往復し、体育館に小気 味よい音が響く。後ろで俺の横飛びを見ていたクラスの連中が息を飲むのが分かった。 「ストップ!」  笛と共に俺は動きを止める。流石に久しぶりに筋力を使うと息が切れる。俺はふぅ、と 息を吐くと結果を聞いた。 「高瀬雄太。記録五十三回」  おお、とクラス連中がどよめいた。二十秒で五十三回はかなりの記録のはず。  続いて二度目の測定でも同様の数字をたたき出し、俺は肺活量の測定に映った。 「高瀬。肺活量4600」  俺は息を吹き込む所から口を離すと軽く息を吐いた。流石に息を全部搾り出すときつい ものがある。しかし平均が3000後半だから、かなりあるかなとは思う。 「今のところ、高瀬がトップだな」  なんか皆の視線が今までとは違って見えてきた。自意識過剰……というわけじゃなさそ うだ。 (高瀬ってすげぇんだな) (たかが体育測定にムキになって……) (高瀬……ラブだ)  少し聞き捨てならない言葉が混ざっていた気がするが、あえて無視する。案の定、丸山 先生は話していた三人――あの赤間達『中村親衛隊』のうち三人が軽く叩かれた。  結局、あと残っている握力と前屈も済ませて俺は皆のところに戻った。 「やるな高瀬! なら、俺はお前を超えてみせる!!」  意気揚揚と立ち上がったのは支倉だった。ちなみにこいつも『中村親衛隊』だ。あの四 人の中じゃ一番まともだとは思う。何かと俺に対抗してきているが、少なくとも顔は俺よ り上だ。  見てる限り、運動神経もいいし、別に俺と張り合わなくてもいいと思うが……。 「次、支倉」 「おっしゃあ!」  支倉はまるでどこかの相撲レスラーのように胸を何度か叩き、反復横とびのラインに立 った。鬼気迫る感覚に皆も押し黙る。俺も何故か唾を飲み込んだ。 「始め!」  笛と共に支倉が吼えた。 「見ろ! 俺のそこじからぁあああ!!」  その時、伝説が生まれた。
* * * * *
「へえ。男子も体力測定だったんだ〜」  中村は今日は弁当ではなく購買で買った焼きそばパンを食べながら呟いた。俺は冷凍食 品を適当に解凍したハンバーグやらあらびきウィンナーやらを適当に爪楊枝で刺しながら 口に運ぶ。 「高瀬、凄かったんだってね! 結局全種目トップだったんでしょ?」 「んー。そうみたい」  青島がやけに感心して俺を見つめてくる。確かに、俺自身もびっくりだ。特にスポーツ をやっているわけではなかったが、他の種目も俺はクラスの中では一番だったらしい。ま、 基礎体力があるってだけで運動神経があると等しいわけじゃないから、微妙といえば微妙 だが。 「なら合唱部入りなよ〜」 「なんで基礎体力があると合唱部なんだ?」 「だって合唱部は体力が資本だよ。高瀬君、肺活量もあるなら、歌うのに最適だよ〜」  俺はしばらく考えて――といっても答えは決まっていたのだが、あまりに早く言うと中 村も悲しそうな顔をするだろうと思ったので、あえて遅くした。 「いや、止めておくよ。歌は聴くほうが好きだ」 「へぇ〜。高瀬君はどんなの聴くの?」 「気に入ったのなら何でも。最近は『御堂聡子』を良く聴いているよ」 「……ねぇ」 「『御堂聡子』かぁ。いいよね〜。あの人の声、凄く澄んでて好きだよ!」 「……あのさ」 「中村の声って『御堂聡子』の声に似てるって。今度カラオケで行く機会あったら歌って よ」 「いいよ〜。もちろん高瀬君も歌ってね」 「女性の歌は無理だな」 「ストップ!」  俺と中村の会話に割り込んだのは青島だった。俺と中村が不思議そうに見ていると、青 島は指差して口を開く。 「ところで、これはどうしたの?」  指先をたどっていくと、俺と中村に挟まれる状態で支倉が昼食を食べていた。その顔は 生気がなく、明らかに沈んでいる。いつも一緒にいる赤間達は何故か今日は一緒にいない。 そう言えば丸山先生に呼ばれていった気がする。 「んで、どうしたの? 支倉?」 「きっとな――」 「言うな! 高瀬ぇ!」  俺が事の顛末を話そうとした瞬間、生気を取り戻した支倉は俺の口をふさいだ。かなり の大声にクラスに残っている連中が支倉を見て、男達は微かに笑い出す。それが恥ずかし いのか再び席に座った。 「どうしたの? 支倉君」 「いやあの実はですね……」 「反復横とびで足を滑らせてこけたんだよ」  支倉は俺を見たまま凍りついた。 「先生が開始の合図をした瞬間、左右どっちに飛ぶかを迷ったのか足が左右に開いたんだ よ。それで股割き状態になって支えきれず前に」  中村と青島は俺の話を聞いてから、ゆっくりと支倉を見た。支倉は視線を避けるように 残りの昼食を食べると去っていく。その後姿は哀愁を感じさせた。  そのまま教室を出て行く。 「みんなもそこまで笑うことないのに……」  中村がそう呟いたのを俺は聞き逃さなかった。この言葉を支倉も聞いていれば立ち直る だろうに。と、思ったらいきなりドアを開けて支倉が帰ってきた。 「中村さんがそう言ってくれるだけで、ぼかぁ幸せです!!」 「ウィットにとんだアメリカンジョークだよ?」  その言葉に支倉が凍りついた。というか、俺と青島も。  クラス全体が凍りついた。いくらなんでもいつの時代の言葉なんだろうか、中村よ。 「あれ? 面白くなかったかなぁ。ジョークなのに」 「どっちなんですか! どっちがジョークなんですか!!」 「もちろん」  中村は支倉に笑顔を向ける。その笑顔はまさに極上といった所で、支倉は顔が赤くなっ ていた。 「最初のほう」 「うわぁああああん!」  支倉は再び教室を出て行った。今度は全力疾走なだけに中村が何を言っても聞こえない だろう。俺は哀れな支倉を見送ってから中村を見る。中村は手帳をどこからか取り出して ペンでさらさらと何かを書いていた。 「ジョークは連続で一回が限度、と」 「場の空気を読むってのも忘れずに書けよ」 「うん。ありがとう」  中村は先ほど支倉に向けたものと似た笑顔を向けてきた。俺もおそらく顔が赤くなって いるだろう。それにしても、本当、どこまで本気なのか分からない。 「私達も体力測定だったよ。握力測って手が痛い」  中村は手帳をしまうと手をぷらぷらと振り、痛がる。俺は支倉のことは置いておいて、 話を進めた。 「へえ。中村はどれだけなんだ?」 「んー? 右手で二十」 「……それは女子ではどうなんだい、青島殿」  俺が話を振ると青島は神妙な顔をして返してきた。 「もう少し鍛えたほうがいいと思いますわ、高瀬殿」  変なテンションだったが、乗ってくれる青島もいい奴だ。 「でもでも、体力測定で人間が決まるわけじゃないからいいよね!」 『それは支倉に言ってやれ!』  俺と青島は二人で同時に中村へと突っ込んでいた。  結局、支倉が立ち直るには一週間ほどかかったのだった。


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