俺は中村を止めようと思ったが、彼女は紙をダンボールから取り出して座席表を作り始

めた。ボールペンを取り出してすらすらと書き始める。俺は中村の人の良さに呆れていた

が、先生はやけに熱っぽい口調で中村を誉める。



「中村! やってくれるか! お前を副級長にして良かった!」

「わたし、字を書くのが好きなんでこれくらいいいですよ。どうせ今日はもう帰るだけだ

ったので」

「ああ、任せたぞ……それで、高瀬は?」



 俺を見る先生と中村。

 二人の視線が俺に作業を強制させる。

 しょうがないので俺は切り札をターンした。最後まで取っておくのが切り札だ。



「字の温かみと言うならば、先生が全員分書けばいいのでは?」

「君らはクラスの代表だから、先生と立場は近い!」



 ……こら。

 場に出された切り札は風に飛ばされて消え去ってしまった。

 先生の論法は明らかに間違っていたが、このまま言ってても埒があかない。というか話

が先に進まない。

 まあいいか、字を書くくらい。



「そうかそうか。よろしく頼むぞ高瀬も」

「いやなにもいってないんですけどまあいいや……」



 俺は諦めて中村の隣に座って座席表を作り始めた。先生は「後で飲み物でも差し入れす

る」と言い残して部屋から出て行った。当たり前だよと心の中で呟きて、俺はため息をつ

きつつ名前を記入していく。



 赤間、相田、麻野、伊藤、伊済、上田、上野……



 つらつらと書いていく中で、中村との間に何の話も無い。

 折角なら何か話しながらのほうが時間は楽しく流れるだろう。俺は手は緩めずに中村の

ほうを向いた。



「なかむ――」



 そこで、彼女の書きかけの座席表を見た。



「……お前、すっごい字上手いな」

「ん? そうかな。確かに字を書くの好きだから、日記つけたりしてるけど、そこまで上

手くないよ〜」



 中村は照れくさそうに言ったが、彼女の文字は実際に凄かった。

 いつか、学校祭のポスターの字を書くのに使ったレタリングの本に書かれているような

字体。もちろん、そこまであらたまってはいないが、通常で書くような文字のレベルをは

るかに超えていた。はっきり言って、ここまで字が上手い人を俺は見た事が無い。



「いや、上手いから。むちゃくちゃ上手いからさ」

「そんなに誉められると照れるよ〜」



 彼女は上機嫌になってかペンのスピードを速めた。それでも文字は全く崩れず、流れる

ように名前を記入していく。

 いつしか彼女は俺の三倍以上はあるペースで名前を書いていた。

 これだけ上手く書かれたら、俺も真面目に書かないと……と思ってはいても、もともと

普通のレベルである俺の文字。眠気が来ると解読出来るのは俺だけになる文字だ。彼女の

書く文字とは月とテナガザルほどの差がある。

 差し入れを挟んで、作業が終わった頃には大体二倍ほど彼女の書いた表が多かった。



「先生に出来たって言って帰ろう」

「……そうだな」



 何故か、思い切りへこんだ。



* * * * *
 中村と途中まで同じ道を帰り、自分の家に着いた頃には午後四時だった。  入学式が終わったのが午後二時だから二時間は学校に余分にいたことになる (何故か無意味に疲れた……)  帰り道で中村に聞いたところ、彼女は特に書くことについて習い事をしているわけじゃ ないらしい。それでもあそこまで綺麗な字を書けるのは小学校一年から今まで九年間日記 を書き続けているらしい。一日ももらさずに。  継続は力か…… 「ただいま」  初日から組の仕事のパートナーの実力に圧倒されて、疲れた俺の声に反応したのは二つ の声だった。 「おかえり〜」 「おかえり〜」  ひとつは間違いなく妹の。  そしてもう一つはその声を声真似したもの。誰かは見なくても分かった。  玄関にある靴は見覚えのあるものだったし、中学時代から何度も聴いていた。  俺は階段を登って妹の部屋をノックした。 「開けるぞ」  返事を待たずにドアを開けると備え付けのテレビに向かってプレステのコントローラー を手に盛り上がっている二人。しかもやってるソフトが1500円で買える「テニス」だ。 恐ろしいほどまでに操作性が悪いあのゲームでよく燃えられるもんだ。 「こら武田。帰ってからずっといたな」 「ん? あったり前よ。折角早く帰れるんだからみなほちゃんと一緒にいたいじゃん」 「恥ずかしい事言うな!」  妹の怒声と同時にゲームキャラのスマッシュが決まった。どうやら妹の勝利のようだ。  武田は「負けた〜」とコントローラーを投げ出して床に寝る。 「これで108連敗だ」 「そんな煩悩の数だけ対戦してんじゃない」  本当、武田は外見と違って性格が変わってる。  外見だけならかなり美形に位置するだろう。短く刈り込んだ髪に、実際にテニスを部活 でやっていたために少し焼けた肌。整った顔立ちは普通ならば今日の中村のように女子に 騒がれるはずだ。  しかし実際は彼の性格からくる雰囲気がそこまでのブレイクを妨げている。  ま、外見とギャップあるほうがもてるという話も聞いているが、武田の場合は中身が濃 いから結局もてていない。 「兄貴は遅かったね。美女と居残り仕事って聞いたよ?」 「もうそんな情報が流れてるのかよ……」  妹のみなほは童顔ぎみな顔を更にほころばせて言ってきた。そう言うみなほも学校では 可愛いほうに入るのだろうが言葉遣いさえ直せばと思う。無論、口には出さないが。 「いいじゃないか。みなほちゃんには俺がいるって」 「だから恥ずかしい事言うな!」  夫婦漫才を尻目に、俺は部屋を出た。二人の騒ぎ声を聞きながら隣の自分の部屋へと入 る。そしてすぐにベッドに横になった。疲れがどっと出たのか眠気が襲ってくる。でも眠 れはしなかった。ぼんやりとしていると中村の顔が浮かんだ。 (可愛かったなぁ……)  しかも外見と性格のギャップもなかなかいい。ツボはつかんでるな。  これから九月までは級長と副級長として一緒に仕事をしていくのだ。  知らずに胸が高鳴る。 (だからって甘い展開を期待しているわけじゃないんだけどな)  さすがにまだ恋愛感情が芽生えるほど俺も惚れやすい性格じゃない。  今寝たら絶対に夜に眠れなくなる。  鞄の中から貰ってきた自分で書いた座席表を取り出して眺めた。  見ているとよくもまあ知らない奴ばかりそろったものだと思う。  俺の学校から高校に入ったのは二十名弱。  一学年が二百四十名だから少ないほうではある。  でもまさか、六クラスあって一人も同じ中学出身の友人がいないなんて想像できたかよ、 いや出来るわけが無い。 (早く覚えないと……)  中村と係になった経緯もある。早いところ名前を覚えてクラスに溶け込むのも大事だろ うと思う。そして、折角こんなものを作らされたのだから、覚えないのは癪だった。  でもすぐにそんな感情は消えて、めんどくさくなって俺は紙をベッドの下に落とした。 (一週間もすれば覚えるだろ)  俺はそのまままどろみに身を任せた。  もう明日の事を考えながら…… 「兄貴〜! 兄貴!!」  みなほが呼ぶ声に俺は目が覚めた。時刻を見ると午後五時。あれから一時間くらいしか 経ってない。やっぱり夜じゃないと寝るのは無理か。 「兄貴! 電話だぞ!! 小谷さんから!!」 「……亜季から?」  俺は何でだろうという意外さと、来るんだろうなという予想との間のなんとなく不思議 な気分でベッドから立ち上がった。部屋を出て眠気を覚ますためゆっくりと階段を下りる。  降りた先には、みなほが受話器を片手に仁王立ちしていた。 「とっとときなよ〜」 「武田は帰ったのか?」 「うん。さっきね。はい」  みなほは受話器を差し出し、俺が受け取ると居間に戻ってドラマを見ることを再開した。 今、再放送しているホラードラマだ。ビデオから女が出てくるとかこないとか……。 「もしもし」 『やっほー、久しぶり〜雄太!』  亜季は相変わらずの明るい声で俺を呼んだ。でも電話口ではやってほしくない。 「電話口で大きな声を出すな」 『ごめんごめん! どう? 新しい学校は』 「同じ学校のやつらが誰もクラスにいないよ」  俺は軽く言葉を返す。亜季のほうも軽い口調で更に言葉を返してきた。叩けば鳴る鐘み たいに。 『私のほうなんて誰も知ってる人いないんだから〜。大丈夫だ! すぐ友達できるって!』 「ん〜そうだな」  俺は亜季の明るい声に心の中で安堵していた。  中学の頃、あれだけふさぎ込んでいた彼女の面影は少なくとも今は無い。  新しい土地で、新しい高校で何とかやっていけるだろう。彼女にとっては誰も知る人が いない環境こそ必要だったんだから。 『ところで、高校でもう可愛い娘見つけた?』 「別に。まだ一日目だぞ」 『だって雄太って手、早いでしょ? 私の時だって同じ組になって一月経ったか経たなか ったじゃない?』 「そんな過去のこと忘れた」 『中学三年の時だよ〜』  ほぼ一年前の事をまるで昨日のことのように言う亜季。  お前が俺をフッたってのに、俺の心の傷をえぐるようなことを言うとは。  ……別にぜんぜん傷ついてないけど。 「お前な――」 『あはは。ごめんごめん。雄太にはほろ苦い初恋の話だったね』 「その通り! ……ま、元気そうで良かったよ」  俺の言葉に電話先の亜季が息を飲むのが分かった。俺が優しい言葉をかけるのがそこま で意外だったのか? そこまで殊勝な女とは思ってなかったが……。 『嬉しい事言ってくれるね。ありがとう。私は大丈夫だよ』 「そうか」 『でも……もし駄目になりそうだったら、電話していい?』  先ほどまでとは変わって、弱弱しく言葉を紡ぐ亜季。これが本当の彼女の姿だと言うこ とは俺だけが知っている。だから俺は、素直に答えた。 「ああ。いつでもかけてきな。携帯の番号教えるから今度からそこにかけてくれ」 『ありがとね!』  俺は高校に入ってから買ってもらった携帯電話の番号を亜季に教え、いくつか言葉を交 わして電話を切った。終わった瞬間にみなほが口をはさんでくる。 「まだ初恋の人を諦められないの? 兄貴」 「うるさい。お前は武田とべたべたしてろ」 「べ――恥ずかしい事言うな!」  極度に恥ずかしがる妹を尻目に俺は自分の部屋に戻った。  そうだ。亜季は誰も自分を知る人がいない土地に行って一人で新しい生活を始めたのだ。 中学までの自分を払拭して、新しい自分になるために。  変わろうとしている亜季に対してクラスメイトの名前を覚えるのも面倒だと言ってる自 分が恥ずかしくなる。  俺は座席表をじっと眺めた。 (明日から、頑張ろうか!)  気合を入れて、俺は夕食時間までずっと表を見ていた。


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