『Love Song』 『第九話:Love Song』
 八月十六日。  その日、神代陽子はカレンダーを見てため息をついていた。次の日が自分の誕生日だか らである。しかし祝ってくれるはずだった相手は二週間前――もうすぐ三週間前になるが 別れてしまっていた。 (祝ってもらえるまで我慢すればよかったかしら)  結局、自分が飽きてしまいフッた男。しかし今の陽子は少し気分が良かった。何故なら 自分の心の空白を埋めるかもしれない人を見つけたからだ。 (ショウ君……今日もいい歌を聞かせてくれるかしら)  正人の心の中を垣間見てから、彼の演奏は更によくなっていた。そして、それよりも良 くなっていたのはショウの歌だった。日に日によくなる彼の声をもっと聞きたいという思 いが陽子の中に生まれる。今まで誰も埋めることが出来なかった彼女の心の空白をショウ の優しい歌声が満たしていった。 「今日もいい日になりそうね」  陽子は嬉しそうに呟いた。  陽子はいつものように正人とショウが歌を歌っている場所へと来ていた。  しかし雰囲気はいつもとは違っている。その場にはここ数日の演奏のために口づてで伝 わった事により観客がかなりの数集まっている。陽子は簡単に数を数えてみた。  その数は、軽く百人以上はいる。 「す……ごい……」  ショウのポテンシャルならばこれくらいの人数を集めることなど訳ないと、陽子は思っ ていた。しかし実際にストリートとは思えないほどの人数が二人を、ショウの歌声を聴き にやってきている事を目の当たりにすると急に陽子は寒気が体を駆け巡る。 (……どこか……ショウ君が遠くに行ってしまいそう)  それが単なる独占欲だと分かっていても、陽子はそう考えてしまう。ショウは誰の物で もない。彼自身が望み、歌い、その調べに人が集まってくる。自分もまだその内の一人な のだ。だからこそ、陽子は決めていた。今日のライブの後、ショウに自分の抱く気持ちを 伝えようと。 (まだ、恋とは言えないかもしれない。でも、この今の気持ちをショウ君に伝えたい)  陽子は決意と共にショウ達がいる場所へと視線を移した。そこには自分達を包み込む人 々に萎縮する事なくいつものように演奏準備を整えている二人がいた。正人はギターを調 律し、ショウは人々の群を眺めている。その視線はとても優しい。陽子の周りにいた女性 数人がその視線に気付いたのか黄色い悲鳴を上げた。  その瞬間だった。  陽子の耳に、ショウが息を吸う音が届く。  そんなはずはないと陽子は辺りを見回して、自分の耳へと吐息の音を届かせた主を探す。 しかし周りにいた女性達も自分と同じように誰かを探していた。それは即ち、自分だけで はなく、彼女らにもショウの息を吸う音が聞こえたということになる。  だが陽子も、おそらく周囲の人々も、どうしてそれがショウの息を吸う音だと思ったの かは分からなかった。  しかし感じたのだ。  それは確かにショウの物だと。 「♪『あれからどれだけの人々が 僕の中を過ぎていっただろう    今 目の前に どれだけの人が佇んでいるのだろう』♪」  ゆっくりと流れ出したギターの音色と共に始まったショウの歌。  ショウの歌声が響き渡ると観客の喧騒が止まった。それはまるで魔法のよう。ショウの 声は一瞬で全ての人の心を掴んでしまった。公園の傍を車が通り過ぎる音など他の音がし ているにも関わらず、ショウの歌声しか耳に入ってこない。他の音など、今この場では雑 音でしかない。 「凄い……」  ショウの周りが心なしか輝いて見える。それは後ろに立つ街灯のせいかも知れない。し かしそう言った無機物さえも、ショウの歌声に支配され、彼を引きたてる存在へと昇華さ れているのかもしれない。そう思えるほど、すでにショウの歌声は洗練されていた。 「♪『過去に無くした心の欠片 どこかに落とした心の欠片    探す間もない時の中で 僕はいろいろ捨ててきた』♪」  陽子はふと、自分の頬を涙が伝っている事に気付いた。まだ曲の始め、触りだというの に、歌詞は的確に陽子の琴線を弾き、ショウの歌声は弾かれた琴線の振幅を増大させる。  周囲の気配から、すでに陽子と同じように泣いている人がいるようだ。 「♪『僕の幼さのために 大事な物まで見失った    もしも過去に戻れるのなら 時間をあの時に戻せるのなら    僕は喜んで戻るだろうか』♪」  ショウの声は光り輝くシャワーのように観衆へと降り注ぐ。  彼の歌声によって昔にあった出来事を思い出す観衆は、そこから更に癒されていく。 「♪『過ぎ去った時間の中に 確かなものなど何も無い    セピア色の光景は すでに『過去』なんだと 僕は理解した』♪」  その記憶は、けして無理やり引き出されたものではない。昔に経験した少しだけ痛い出 来事。それでもけして忘れないといけない事ではないのだと、その歌声は語る。 「♪『セピア色の彼方に 君の姿を見つけたよ    今とは少し違うその笑顔 それでも君は変わらない    たとえもう出会う事が無くても 君との思い出は変わらないから    アルバムの中に閉まっておくよ』♪」  切ない歌詞。しかし前向きに未来を見るその希望を持った想いがショウの歌声に乗って この場にいる全ての人々の心に届いた。全ての人々が顔に穏やかな微笑を浮かべ、ギター の調べを聴く。そしてその音色がゆっくりになり、最後の一音を奏でるとどこからか拍手 が鳴った。その拍手につられて一人、また一人と手を叩いていく。  一つのきっかけがやがて大きなうねりとなって正人とショウを包み込んだ。  二人は嬉しそうに顔を見合わせると二言三言話すと次の曲にいった。 「皆さん! では次の曲です――」  正人のギターが再び鳴り響いた。  二時間ほどのストリートライブが終わり、観衆は口々に感想を述べながら帰っていった。 聞き耳を立てていた陽子は、彼等彼女等が満足だという感じの言葉を話しているのを聴い て自分のことのように喜んだ。そしてようやく一部の熱狂的なファンから解放された正人 とショウのもとへと向かった。しかしそこには一人、見知らぬ男が立っていた。  陽子は何か大事な話をしているような彼等のところへは行けずにしばらく離れて立つ。  少しして、その男は去って行った。陽子はすぐさま正人達へと駆けより聞いてみる。 「お疲れ様。ねえ、今の人は?」 「……Mミュージックの人だって」  Mミュージックと言えば最近設立されて若手アーティスト育成に力を注いでいる会社だ。 積極的にストリートミュージシャンを発掘していると陽子は雑誌で読んだことがあった。 「凄いじゃない! とうとうメジャーデビュー!? もちろんオッケーしたんでしょ?」  しかし陽子の喜びようとは別に、正人はどこか煮え切らない様子だ。それに陽子が気付 いて問い掛ける。 「どうしたの? 何か、不都合があるの? 目標だったんでしょ、メジャーデビュー」 「そうだったんだけど……な」  正人はしまいかけたギターを手にとり、再び調律を始めた。陽子は自分の問への答えを 聞けなかったので更に問おうとした。だが、正人が奏でた音楽によって言葉を止める。  その音色は今まで聞いたことがない。新しい感じのする曲だった。 「昨日、出来たんだ。ショウが、陽子さんに送るために作った歌。是非、聴いてくれ」 「え?」  後ろを見るとショウが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。ショウに導かれてベンチに 座る。そこから少し離れてショウは立ち、体をゆっくりと旋律に乗せる。 「陽子さん。あなたに会えて、良かった。僕の中にまだ名前も、形もない想いがあるんだ。 それに気づけたのは、それが生まれたのは陽子さんのおかげだと思う。だから、僕は僕が 出来る精一杯の事で、この気持ちを表そうと思う」  ショウのともすれば告白と取れる言葉を、陽子は心静かに聞いていた。実際には顔は緊 張で赤く染まり、心臓の鼓動も早まっているが、それでもどこかもう一人自分がいるかの ような感覚に陽子は囚われていた。 (何となく……分かった気がする)  陽子は、自分がショウに抱いていた気持ちが少しだけ理解できた気がした。ショウもま た何かを探し求めていたのだ。自分と同じく。そして、お互いにその『何か』を見つける 事が出来たのだ。 「聴いてください。『Love Song』」  ショウが呟き、ギターの音色が少しだけ変わる。歌に入る所で。  そして、この日最高の演奏が始まった。 「♪『暗闇の底には何も無かった 全てが剥がされて    残ったのは冷たい感触でしかなかった』♪」  始まりは静かに、穏やかに流れる。ギターの音も最小に抑え、軽く旋律を奏でるだけ。  ショウの歌声もまた、静かに低音部から始まる。それは歌詞と同様に自分が抱いていた 絶望感のような物を表しているのだろう。 「♪『ただ小さくなってそこにいた僕 何も出来なかった僕    でも光射す場所へ出た時 出会えたのが君でした』♪」  少しずつ、本当に少しずつ上がっていく音量。微小な音量の違いを、ショウは見事に表 現する。  光を見つけて、でもすぐに手を出すことに怯え、立ち止まっていた『誰か』を表現する。 「♪『何故なのだろう こんなにも苦しいのは    君の姿を見るたびに 苦しくなるのは何故だろう』♪」  突然生まれた言葉のない、言い表せない感情に翻弄されていた。でもそれはけして不快 ではなく、それどころか心地よい物だった。  この感情は何?  この想いは何?  この溢れんばかりの幸福はなんなのか? 「♪『僕には分からなかった感情 でもようやく答えが出た    探していた答えが 生を望んだ意味が』♪」  ショウは歌いながら思い出す。  自分が生を望んだのは何故か?  最初はただ、生きたかった。理不尽に訪れた自分の死を認めたくなくて、ただそれに抗 うために生きたいと思った。しかし実際に光の世界へと足を踏み入れた時に、空虚な空し さが自分の中にあることを知った。  どうすればこの心が満たされるのか?  そこで見つけたのは『歌う』ということだった。   「♪『太陽が僕を照らす 二つの太陽が僕を照らす    一つは空から もう一つは隣から    二つの光は一つになる 先を照らす光になる』♪」  そして、もう一つ。  陽子と出会った事で生まれた想い。  心の中が暖かい物で満たされ、その気持ちが歌を更に心地よい物にしてくれる。  ショウは知った。  誰かのために歌うということは、想いを乗せて歌うということはこんなにも人々を楽し く、幸福にさせてくれるのだと。 「♪『君よありがとう いてくれてありがとう    喜びを伝えよう 僕が伝えられる 唯一の手段で』♪」  ショウは陽子の瞳から流れる涙を見て思う。  自分の想いは間違ってはいなかった。  この人と出会えてよかった。  一週間だけの時間の中で、最高の出会いをしたのだと。 「♪『声に乗せ 君に届け 心からの Love Song』♪」  ありったけの想いを乗せて最後のフレーズを歌う。ショウの想いのたけを込めた音のシ ャワーが陽子に降り注いだ。ギターが数小節を奏でて終わりを告げる。空気を伝わる振動 が広がり、分散してからしばらくの間、誰も動かなかった。 「ありがとう……」  陽子は流れる涙を吹きながら、か細い声で言った。込み上げる感情によって喉を塞がれ ているかのように。  時計が深夜零時を指して、日付が変わった。  八月十七日。  ショウの時間の、最後の時が近づいていた。


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