『Love Song』
『第七話:協奏曲』
それは一瞬にして崩れ去った。
最愛の人を奪い去った。
何故……何故……何故……!!
失われた、幸福な記憶……。
* * * * *
暁は楽しそうに正人へと言った。顔を輝かせて。
「一緒に歌おうよ。今、とても楽しかったよ!」
「……え」
正人はいきなり喜びを表した暁に動揺する。しかし暁が楽しんでいるのだというのは明
確で、それならば断る理由は無かった。
「よし。じゃあ、今と同じ歌を歌おう」
「うん!」
二人は呼吸を合わせた。
一……二の……
「三!」
同時に紡がれた言葉。奏でる音は違ったが、旋律は同じく、すらすらと流れていく。
その瞬間、正人の中にも感動が生まれた。今までに味わったことが無い、全く未知の喜
び。それは一瞬にして正人の体の中に広まった。
(なんだ……これ……!!?)
正人は激しく動揺しながら、しかし音楽は止めない。体の内から来る感動を正人は押さ
える事が出来なかった。歌い終えて、暁は最初の時のように目を白黒させ、感動を表して
いる。そして正人もまた、暁の言おうとしたことが少しだけ分かった気がした。
「楽しかったな……」
「うん! また歌おう!」
暁が言ったことで正人もやる気になり、次に何を歌うか考えた。しかしそこに看護婦が
やってくる。
「病室内で歌わないで下さい」
優しい口調ながらも、厳しさが含まれていることは正人にも分かった。しかし暁は気軽
にその看護婦へと言葉を返していた。
「え〜。でもでも、秋子さん……」
「でももへちまも無いわよ、暁君」
その言い方がやけに古臭いことに正人は思わず笑ってしまう。看護婦も自分の失態に気
付いたからか苦笑いをした。
「もう、しょうがないわね。でも駄目なものは駄目よ」
「はーい」
暁は少しつまらなさそうに言ったが、看護婦は暁を信頼しているのかそこから続きを言
わずに去って行った。正人と暁は再び顔を合わせ、笑いあった。それは暁が記憶を無くし
てから初めて、心から笑いあった瞬間だった。
「今度は中庭ででも歌おう」
「うん! 毎日ね!」
正人は嬉しかった。暁がまた無邪気な笑顔を向けてくれることが。そしてなにより、自
分の中で歌に対する意識が少し変わったのだ。
(歌って、いい物だな……)
自分の中に生まれてくる暖かな物。今まで歌にさほど興味を示していなかった正人が初
めて歌と本格的に触れ合った瞬間だった。
それから正人と暁は病室を抜け出して中庭にあるベンチに座り、歌を歌った。最初は暁
と初めて歌った歌を。そして時が経つと共に様々な歌を歌った。暁が病室のベットの上で
見ていたテレビでかかる曲。正人も歌うようになってからは歌番組を毎回チェックして、
自分達が歌ったら気持ちよさそうな曲を選び、CDを借りてMDに録音するとMDプレイ
ヤーと共に病院に持っていって暁に聴かせた。
『明日までにある程度歌えるようにな』
『うん!』
正人のある意味無理な要求にも暁は従い、正人がMDを渡して次の日には最後まで歌え
るようになった。暁にとっては退屈な病院での唯一の暇つぶし。そして、新しく見つけた
生きがいでもあった。
「楽しいね」
「ああ。このまま二人で歌手デビューしようか」
「あはは! 僕達上手いよね。出来るかもね!」
正人はさほど本気で言ったのではなかったが、暁は正人よりもより真面目に言っていた。
その言葉に正人は、自分達なら本当にデビュー出来るのではと錯覚する。
(……本当に……暁となら……)
一人では無理でも、二人ならば、新しい道を歩けるのではないか?
過去を失った暁の新しい道を何とか見つけてあげたいと思っていた正人だったが、いつ
しか自分のほうが新しい可能性を見出し始めている事に気付いていた。
歌。
自分の声で、もっといろいろな人を喜ばせることが出来るのではないか?
「お兄ちゃん! いつか、テレビに出ようね!」
「……ああ!」
正人の答えは、少しだけ力が増していた。
暁が記憶を無くしてから一年。
遂に外出許可が下りた。病院の外の世界を知らない暁には不安の色が見えたが、それで
も喜んでいた。例によって出迎えは正人一人。平日なので普段は正人も学校の時間だった
が、学校には特別に休みを許してもらったのだ。その日の夕食は家族全員で食べる予定だ。
「楽しみだなぁ」
「そんなに楽しみか?」
正人も暁が家に帰ってくるのは嬉しいのだが、それを素直に表現するのはどこか気恥ず
かしく、冷静を装った。しかし暁はストレートに感情を表してくる。
「うん! だって記憶なくすまで住んでたんでしょ? なら、やっと家に帰れるって事だ
もん。嬉しくないわけないよ!」
「……そうか」
正人はあまりに微笑ましく、楽しい気持ちになった。今日の夜には久しぶりに家族全員
そろっての食事が出来る。それを思うと更に正人は顔に笑みを浮かべた。
しばらく道を行き、公園の傍を通りかかったとき、暁が疲れを訴えた。病院の中以外を
歩いたことがなく、事故の影響からか車道を通る車に少し過剰な反応を示していたために
精神的に疲れたのだろう。正人は暁と共に公園に入り、ベンチに腰掛けさせた。
「何か飲み物買って来てやるよ」
正人はベンチに暁を残したまま飲み物を買いに自動販売機を探しに出た。その間、暁は
鼻歌を歌いながら周りを見回す。平日の昼間だけあって人はいない。しかし周囲には音が
溢れていた。
「気持ちいいなぁ……」
そう呟いてふと前を見た暁の目に、一匹の猫が飛び込んできた。病院のテレビの中で暁
は大分知識を得ていた。もちろん猫という動物もいるのだと理解していた。しかし実物を
病院内で見れるはずもなかったため、突如現れた本物に対して興味を示した。
「猫〜」
猫をこの手に抱きたいと暁は立ち上がって猫に向かう。しかし猫は少しずつ後ずさりし
て暁から離れていく。
「待って! 逃げないで……」
猫を驚かせないようにゆっくり近づく暁。しかしその努力も空しく猫は駆け出していた。
「あ!!」
暁は急いで猫を追う。そして公園の入り口まで来た、その瞬間だった。
「危ない!!」
響く悲鳴に近い声。
正人の声。
次に響くは強烈なブレーキ音。必死に止まろうとしていたトラックの努力を無視するよ
うに、暁へとトラックは対してスピードを落とさないまま突っ込む。
一年前の交通事故の日。
その日と同じように、暁の体は中を舞った。
トラックが止まり、時が止まった空間にはアスファルトに黒い傷痕を残して止まるトラ
ックと、血に塗れて道路に倒れている暁。そして手にポカリスエットを持って呆然と立ち
尽くしている正人。
その場で、動く者はいなかった。
「あ、あき……ら……」
正人の手にした飲み物が、手の力が緩まり道路に落ちる。それを合図にするかのように
時が動き出す。
凄まじい音を聞きつけた人々が近寄り、そして口々に悲鳴を上げる。それからすぐに聞
こえる救急車のサイレン。
その間も、正人は一歩たりとも動けなかった。
(何で、そこに寝ているの? 暁、ねえ、起きてよ……)
徐々に集まってくる人によって、正人が落としたポカリスエットは蹴られて遠くへと行
ってしまった。いつしかそれは野次馬にまぎれ、見つけることは出来くなる。
どれくらいの時間が過ぎたのか分からなかったが、いつの間にか正人は救急車に乗って
いた。
物言わぬ、暁と共に。
「……ン、ん〜ん、ん〜……」
正人の口から、鼻歌が流れていた。暁と共に初めて歌った歌が。それは病院に着くまで
救急車の中に小さく響いていた。
病院に着くと同時に、暁の心臓は停止した。
* * * * *
「……それで、弟さんは……」
陽子は正人が一息ついたところで言葉を挟んだ。正人がどうショウを見ていたのかが、
ようやく分かり、陽子が正人に抱いていた違和感の正体が分かった。そしてもう言葉を話
させたくないと思ったのだ。実際に正人の語る口調は徐々に、本当に微々たる物だが、暗
くなっている。おそらく自分でも自覚はしていないだろう。
「ああ。ちょうど一年経って、あいつは死んだ」
正人は視線を移した。そこには少し酒に酔ったサラリーマン風の男二人と一緒に歌って
いるショウがいる。サラリーマンのろれつの回らず、音程のずれた音に対してもショウは
親身になって歩み寄ろうとしていた。そして徐々に音階が重なる。
「本当、ショウは暁そっくりだ。神様が暁の生まれ変わりをよこしてくれたんじゃないか
と本当に思ったよ」
ショウとサラリーマン達は楽しげに笑っていた。その様子を見て正人も微笑む。
「暁も、きっとたくさんの人に笑顔を上げられたんじゃないかと思う。俺が……一人にし
て置かなければ」
「……そんなこと、今、悔やんでも仕方がないわ」
「だから、辛いんだ。もう後悔しても意味がないし、だからといってせずにはいられない」
陽子は初めて正人に会った時を思い出した。その時、正人はこう言っていたのだ。
『また同じ事を繰り返すところだったよ』
正人は、その時から自分を責め続けていたのだ。でも、いつしか時がその痛みを和らげ
てくれたから、そして暁と似ている男が目の前に現れたから油断してしまったのだろう。
陽子には今の正人が眩しく見えた。正人の目には希望の光がある。自分が過去になくし
てしまったものが、再び戻ってきたかのように。
それは、心を満たす何かを捜し求めている陽子にとって、嫉妬を覚える物だった。
「……うらやましいな」
「ん? 何か言った?」
「何でもない」
陽子は立ち上がり、背伸びをした。最後まで伸びきると正人の方へと向き直り、言う。
「なら、まだやってないことがあるんじゃないの?」
「やっていないこと?」
正人は不思議そうに首を傾げたが、すぐに陽子の言いたい事は理解した。そして苦笑す
る。陽子もつられて笑っていた。
「聴きたいな。あなた達の演奏を」
陽子の言葉に後押しされるかのように正人はベンチから立ち上がり、歩き出した。ショ
ウは近づいてくる正人を見て手を振って逆に駆け寄る。
「正人〜」
「ショウ。一緒に歌おう!」
ショウはそう言う正人に笑顔を返した。その言葉を待ち望んでいたかのように。そして
ショウの口から言葉が流れ出した。
「♪『待ち行く人の波が流れていた ただ僕はそこに佇んでいた
明日への予感を感じさせずに 今いる場所を確信できずに』♪」
ショウが歌いだしたのは未来を思う歌だった。先の見えない未来にも絶望しないように
正人が作った歌。正人の気持ちを汲んでショウが選んだというわけではないだろうが、今
時点ではちょうどいい曲だった。
「♪『何を追っているのだろう 周りに目もくれずに
未来なんて見えないものを 追って 躓いて また起き上がって探して』♪」
正人も続きのフレーズを歌う。そして……。
「♪『僕の歩いてきた道には何があったか
皆を後ろに置いたまま 前にすすんだ僕に
何が残っているのだろうか 何を残していると言えるのか』♪」
正人とショウの声が重なり合う。正人が主旋律を歌い、ショウがハモる。それは心地よ
いハーモニーとなって周囲に響く。
「綺麗ね……」
陽子も呟いて二人を見ていた。
今の正人は幸福に包まれている。ショウもまた実に楽しそうに正人の歌に合わせて音を
重ねていく。まるで十年来の友のように、二人の意識は一つになる。
「♪『僕の耳に聞こえてくる 明日から向かってくる言葉が
「明日はここにある 君の進む道の先にある」
暑さに身を焼き朽ち果てても 寒さに身を凍えさせても
たとえ見えなくてもある 今の先にきっとある』♪」
正人は歌いながら思っていた。自分はもう、悲しみに押しつぶされることはないと。
(この歌と同じだ。俺はもう、昔の傷を恐れることはない。乗り越えて生きていける。ご
めんな、暁……でも、お兄ちゃんは進むよ)
「♪『信じていいよと 誰かが言った
明日の声が 聞こえる』♪」
次第にテンポはゆっくりとなり、最後の音を二人は精一杯に伸ばす。空間に響き渡る音
は空気を震わせ、人の心を震わせる音となる。
「♪『僕の先に 道がある』♪」
最後のフレーズを、二人はお互いを見て、笑いながら紡いだ……。
この日、一つの悲しみが終わりを告げ、一つの喜びが生まれた。