『Love Song』
『第五話:序曲』
暗い。
一筋の光さえない。
しかし『それ』は闇が微妙に動くのを認識した。
【どうだい? 君は束の間の生を悔いなく生きる方法を見つけたのかい?】
その問いに対して『それ』は答える。
分からない。
その『声』には明らかに落胆が含まれていた。
僕には分からない。僕がこの世に生まれた意味が。生きる、意味が。
希望。羨望。絶望。全ての感情が入り混じり、暗闇の空間に広がっていく。
僕はどうしてこの世に生を望んだんだろう?
あの時、あの瞬間、僕は確かに生きることを望んだ。
でも、今は分からない。
生に執着する何かが、この世界にあるのか分からない!
『それ』は絶叫した。
自分が出せる限り、自分の味わう絶望を表現するために。
誰かに分かってもらうために。
そうしなければ、自分だけでは押しつぶされそうだったから。
一人では弱い存在だったから……。
八月十二日。
太陽が差し込む部屋で正人は目覚めた。誰かに呼びかけられたような気がしたからだ。
周りを見回してみてもまだ寝ているショウしか見えない。しかし何か違和感を感じてい
た。何かが眠る前と違う。
「……部屋、片付いてる?」
正人は自分の部屋に散らばっていた物が片付いている事に気付いた。出しっぱなしだっ
たコップや皿。散乱していた楽譜に歌詞ノート。元々床にいろいろ置く癖のある正人だか
ら違和感の元となったのだ。
「お前がやってくれたのか?」
「……うん。そうだよ」
ショウはタイミングよく起きて正人に答える。昨日寝たのは夜の十二時。ショウはその
時まだ起きていた。少なくとも正人に意識がある間は起きて正人の歌詞を読んでいた。
「お前……昨日何時に寝たんだ?」
「? 確か……あれが直角になってたよ」
ショウが指差したのは時計。
その針が直角ということは……。
「夜中の三時に寝たのに、今起きて大丈夫なのか?」
「眠くはないよ」
ショウは何の問題もなさそうに起きている。正人は数時間しか寝てないにも関わらず全
く変わらないショウに少し不安を抱いたが、そういう人間を以前にも友達に持っていた事
を思い出す。
(そういや、そんな奴もいたな。別に心配する必要ないか)
正人の目に、ショウがどこか無理しているように映っていた。どうしてそう思ったのか
分からない。感覚的に思ったことなので確信がなく、問題なさそうなショウを見て不安は
霧散してしまった。
「お腹空いたよ〜」
「お、おう。待ってろ」
腹を押さえて言葉を連発するショウのために朝食を用意する正人。既視感に似た感覚を
持ちつつ、その事が嬉しくて鼻歌を紡ぐ。
「♪ふ〜ん、ふふ〜ん♪」
正人はフライパンに油をひき、目玉焼きを焼こうと卵を割る。不意に奏でていた旋律に
重なる音。
「♪ふ〜ん、ふふ〜ん♪」
ショウが正人の鼻歌に鼻歌を重ねてきた。決まった旋律などなく、正人が即興で奏でて
いる音に対してほぼ同時に音符を重ねていく。とてもできる芸当ではない。内心に生まれ
た驚きによって旋律が少し乱れたが、このままこの音楽を途切れさせてはいけないと、正
人は鼻歌を続ける。
重なる音。
重なる旋律。
単なる朝食準備の風景に添えられる、一味。
(気持ちいいな……)
正人の気分の高揚と共に鼻歌も徐々に軽快になる。そしてそれに合わせてショウもテン
ポを上げていく。目玉焼きが出来た頃に正人は口笛を終わらせ、ショウを少し青ざめた顔
をしたまま見た。ショウは、今度は自分だけ鼻歌を歌い体をリズムに合わせて揺すってい
た。朝食が待ち遠しいのだろう。
「……凄い、な。お前……」
「え? 何が?」
ショウは自分のした事がどれだけ凄い事なのか全く分かっていないようだった。
「だって不規則な鼻歌に音を重ねてハモらせるなんて普通出来る芸当じゃないぞ?」
ショウはしかし、正人の困惑を全く理解せずにさらりと言う。
「正人の歌の感じが分かったから、それに合わせて歌っただけだよ?」
正人は何も言えなかった。
人の作る歌にはその人の特徴が現われる。どんな曲を作ろうとも必ずその核になってい
る旋律が存在し、様々な曲を作ろうとも同じような『核』は含まれている。簡単に言えば、
作る人が同じならばどこか似たような印象が曲に残るということである。
「だからって……そんなことが……」
「おなか空いた〜」
ショウが朝食をねだってきたことで結局正人は思考を停止せざるを得なかった。しかし
ショウの持っている可能性の大きさに打ち震え、戦慄さえ感じていた。
(こいつは……どこまで伸びるんだろうな)
ショウの前にある世界の広さに正人は羨望の眼差しを向けた。
朝食後、正人はバイトに向かい、ショウはまたさかまき公園へと来ていた。昨日とは違
って外にあまり出るなと正人は言ったが、ショウは公園から出ないで待っていると言って
家の中にいることを拒否したのだ。
(ん〜、いい天気)
空は快晴。
太陽はその光を惜しみなくショウを包む。
ふと、ショウは懐かしい気持ちになった。はるか昔、あるいはつい昨日、こんな気持ち
になった気がする。その気持ちはどこか切なく、ショウの胸の中を悲しみで満たした。
太陽の輝く時に、この空を飛びたい。
(……)
ショウは自分の意識がどこか遠くへ飛んでいくような感覚に襲われた。気付くと自分は
街を上から見下ろしている。仲間と騒ぎながら歩く人々、犬を散歩させている初老の婦人、
ぼうっとして佇む男……。
(あれは、僕?)
自分が見えた。
公園の一区画に何をするでもなく佇んでいる自分が見えた。
そんな自分の寄って来る一人の女性。
「……あっ」
「どうしたの? ぼけっとして」
不意に意識が体に戻る。それと同時に目の前に立つ神代陽子が声をかけてきた。
「あ、いや……」
自分の得ていた感覚がなんなのかどうにも説明することが出来ずにショウは口ごもる。
陽子はそんなショウの様子に気付いて手を軽く振って言った。
「いいよ、答えるのが難しいなら。とりあえず座りましょ。こんな暑い中立ったままなん
て考えただけでも嫌になるわ」
「そうだね……」
ショウと陽子は身近にあったベンチに座った。そこは後ろに木が立っていてちょうど日
避けとなる。二人はベンチに腰掛けると同時にため息をついた。日の当たる場所とそうで
ない場所との感じる気温差に思わずついてしまったのだ。
「本当、暑い日が続くわね」
「陽子さんはどうして来たんですか? 今日の夜に来るって言ってたのに」
ショウが不思議に思っていたことを訊ねると陽子はふふ、と軽い笑みを浮かべる。微か
に後ろの木に遮られなかった日の光が届き、陽子の横顔を照らす。その顔を見てショウは
胸が高鳴った。
「あなたに会いたかったのよ」
「僕、に?」
その言葉にまた胸の鼓動が早くなる。
「いろいろ話がしたかった、あなたと。だって今まで会ってきた人の中にショウ君のよう
な人っていなかったんだもの」
陽子が微笑み、ショウは顔を見ることが出来なくなって顔をそらした。顔が心なしか火
照っている気がする。その時、二人の後ろで蝉の鳴き声が聞こえた。
ジジジジジ……、と自己主張するように鳴くその声を陽子は少しうるさそうに見上げる。
「うるさいわね……蝉ってどうしてこんなに鳴くのかしら」
「歌っているんですよ」
誰に向けて言った言葉でもなかったにも関わらず、陽子の言葉にショウは即答した。
そのことに陽子は驚き言葉も出ない。ショウは更に言葉を続けてきた。
「蝉も木も、風も土も太陽も……みんな歌っているんです。自分を伝えるために。自分の
『何か』を伝えるために」
急に饒舌になったショウを不思議そうに見ていた陽子だったが、納得がいったように頷
き、ショウに言う。
「そうね。そうかもしれないわね。ごめんね、うるさいって言って」
「あ……いや、僕に謝らなくても……」
「何故かしらね。ショウ君に謝らなきゃいけない気がしたの」
陽子はそう言って立ち上がる。ショウは陽子が気分を害して立ち上がったのかと思い、
猛烈な焦燥感にかられた。ショウの表情から陽子はショウの思考を見取ったのか、軽く笑
い手を振った。
「違うわよ。怒ってなんかいない。暑いから、何か飲み物買ってくるわね。ここにいて」
陽子は足早に公園内の自動販売機へと走っていった。その様子を見ながらショウは、自
分を自覚してから初めて覚える感覚に焦っていた。
「なんだろう。落ち着かない。陽子さんを見ていたら……どうしてこんなに胸が高鳴るん
だろう……」
ショウは自分の後ろで鳴いている蝉を見上げた。そう言えばこの鳴き声を聞いてとても
切ない気持ちになったのだ。そして陽子が鳴き声をうるさいと言った時、それがあまりに
も辛くて思わず口を挟んだのだ。
そう、ショウは辛さを感じていた。
「どうして僕はこんなに辛いの? 君の鳴き声を聞いているだけで……」
その瞬間だった。
蝉の目――それはあまりに小さく、ショウの目に映ったはずはなかったが――と目が合
った。ショウはそう確信した。何故と訊かれて答えられるはずはない。
たとえばそれは、何故歩き、触り、話すのかと、日常的な動作に疑問を投げかけること
と同じく疑問を挟むことさえも間違いであることと同じだ。
理由などない。
ただ感じたのだ。
考えたのではなく、感じたのだ。
ショウの視界を暗闇が覆い尽くす。全てが闇に包まれてから、どこかからか声がした。
【気付いて、しまったの? なら君の時間は完全に動き出したね。分かっているかい?】
……うん。思い出したよ。僕は思い出したんだ。
ショウであってショウでない声が暗闇の中に木魂する。しかしそれは確かにショウ本人
の物であった。
【君の新たな命。それはあと五日で消える。今から五日後、君の時間が始まった時に、君
の全ては消失する】
声は淡々と、しかしどこか悲しさを含んだ声音でショウに語りかける。ショウは悲しみ
の海に飲み込まれまいと手をぎゅっと握り締める。
僕は、生きる意味を見つけたかもしれない。
【……それは良かった】
声は祝福するでもなく、淡々と言葉を返す。しかしショウは自分で言った言葉に自信が
ないように肩を落とす。
この感情にまだ、名前はない。
生きる意味を、見つけた気になっているのかもしれない。
僕は……『それ』の名前を見つけようと思う。
自信が感じられなかった声に少しだけ強い意志がこもる。今まで、空虚な部分をそのま
ま風の通り道にしていた場所が少しだけ埋まる。
【それが君の選んだ道ならば、お行きなさい……】
声は道を指し示した。その方向からは闇を貫いて光がショウを照らす。ショウはその光
へと進んでいった。
いつの間にか閉じていた目を開けたショウは陽光の眩しさに目を細めた。
始まってしまった。
終わりへの旋律は奏でられた。
しかし、今まで数えられていたカウントダウンにも気付かずに過ごしていた時に戻りた
いとは思わない。自分の持っていた運命を思い出さないままタイムリミットを迎える事が
なくなっただけショウは嬉しかった。
期限があるのなら、それまでに自分のすべきことをしよう。
そう思えた。
「僕が生きる意味を、生きた意味を、見つけよう……」
遠くから来る陽子を視界に入れたとき、何故か陽子ならば答えを知っているのではない
かという思いが生まれた。どうしてそう思ったのか分からない。
ショウは、陽子に抱いた名前のない想いが鍵を握っているような気がした。
「お待たせ〜」
陽子がそう言って差し出してきた、汗をかいているポカリスエットを受け取った。