『Love Song』 『第三話:神代陽子』
 神代陽子は目覚ましとして使っている歌の前奏で目が覚めた。  多重録音された女性歌手のコーラス。  幻想的な雰囲気を醸し出しているその歌は陽子の一番のお気に入りだ。  ロックでインディーズシーンの中心として活躍している兄の歌う曲とは正反対の物だが、 陽子は別にロックが嫌いなわけではない。様々な音楽に手を出していて、その中で最も好 きなのがそう言った、多重録音のコーラスを多く用いている曲なのだ。  そうした好きな歌によって目覚めるのは陽子の数少ない楽しみの一つだ。  体裁のためにあまり行きたくもない大学に現役で受かってしまってからの陽子は、サー クルにも入らず軽くバイトをしながら友人達との遊びに興じている。それでも楽しい事な ど少ないがため、気分を紛らわすために音楽を聴くのだ。 (今日も一日頑張りますか)  陽子は知らない。  今日のある出会いが自分の人生を大きく左右することを、まだ知らない。  ショウは人の波にもまれながらも、なんとか街中を進んでいた。ショウは知らないが、 今日は今夏最大の暑さとなるらしく、ショウは体に浮かんでくる汗に気持ち悪さを感じ ながら、それでも進むのを止めはしなかった。 (いろんな『音』があるんだなぁ……)  ショウの耳には人々が奏でる様々な音が入ってきていた。  信号が青に変わると同時に聴こえてくる歩行者のための音。  道行く人が片手に持つ携帯から聞こえる着信音。  人と人とが重なる時に聞こえる雑音。  およそ、人のいる場所に存在する全ての音が洪水となってショウの耳に押し寄せる。  それは意味のなさない音がほとんどだったためにショウには苦痛だった。 (うるさい……だけ。『音楽』が聴こえない)  ショウは昨日、正人と逢ってから『音楽』という物に対して何故か異常に執着するよ うになっていた。確かに意識があった時から歌いたいと思い、鼻歌を歌っていた。  意味のある旋律ではなかったと思う。  ただ、自分が思った音を形にして表しただけだ。  しかし正人が創り出した歌詞と音を組み合わせて歌った時、自分の中に新しい何かが 生まれた気がした。 (きっと……あれが本当に『歌う』という事なんだ……)  ぼんやりとそんな事を考えている内に、ショウは周りが人だらけになっている事に気 付いた。いつの間にか都市の中心部に来てしまったのだ。 「人、多いなぁ……」  思わず口に出して呟く。  昨日、正人と出会った公園のようにショウは人が少ない場所の方が好きだった。  歌声が、良く聞こえるから (……?)  不意に心に響いた声にショウは立ち止まり、辺りを見回した。  聞き覚えのある声に思えて、全く心当たりがない。しかし懐かしいような、切ないよ うな複雑な気持ちになった。 「まあ、いいか」  懐かしさや切なさのほかに、一瞬だけ違う感情がはしった気がしたが、ショウは気に せず歩き出した。しかしすぐに立ち止まる。 「これは……」  ショウの耳に入ってきたのは『音楽』だった。  意味のある旋律。  心地よいメロディに透明な声。  ショウは音のするほうへと導かれるように歩いて行く。少し歩いて、ショウはその音 源を見つけた。  そこは街中にあるCDショップ。  ウィンドウに置いてあるスピーカーから流れる歌だった。 『紅。話題の新曲、【My Prace】本日発売!』  スピーカーの横には曲名とCD、大きなポスターが置いてあった。ポスターには五人の 男が立っていてポーズを決めている。うるさくないバック音楽に乗せて五人の声が奏で るハーモニーが綺麗に流れる。 「綺麗だなぁ」  ショウはその調べに聴き惚れ、しばらくその場に立ちつくしていた。そのために流れ 行く人の波はたびたびショウにぶつかる。歩行者はショウに悪態をついたが、ショウの 熱に浮かされたような顔を見て不思議そうな顔をして去って行く。  何度目かの歩行者との接触の時、それまでの歩行者とは一線を隔した相手がショウの 肩に手をかけた。 「おい、お前邪魔なんだよ」  髪の毛を染め、いかにも不良と言わんばかりのオーラを放っている男数人がショウを 取り囲んでいた。しかしショウはまだ音楽に聴き入っていて男達の存在に気付かない。  それが男達の虫の居所を悪くさせた。 「シカトしてんじゃねぇ!」  ショウの肩に手をかけていた男が強引に顔を自分へと向かわせる。ショウはその時初 めて男達の存在を認識した。いつの間にか自分を取り囲んでいる男達を見てショウは困 惑する。 「……あの、何か?」  純粋にショウは問い掛けただけだった。しかし男達は自分達が馬鹿にされた物と勘違 いをし、怒りに顔を赤くする。 「何か、じゃねぇ!」  ショウを掴んでいた男が空いているほうの手で拳を繰り出す。ショウは成す統べなく 顔に拳を喰らい、悲鳴を上げて倒れた。 「なめくさってんじゃねぇぞ! 精神的にムカつかせた慰謝料として有り金全部よこせ」  ショウに金を請求している男の他、周りの男達はニヤニヤと顔をにやつかせている。  通行人の誰もが関わりあいたくないと顔を背けて歩いて行く。しかしショウはお金、 という単語が示している物が何か分からない。 「オカネ……って、何ですか?」 「……死ね!!」  ショウの一言で男は完全にキレた。  振り上げられる男の拳。また激痛が襲ってくる事を悟ったショウは怯えて体を硬直さ せる。だが、男は突然襲ってきた衝撃によって体勢を崩した。 「何やってんのよ、聡」  周りにいた男達が唖然として声の主を見ていた。聡と呼ばれた男は自分の背中を蹴っ た相手を見て、顔を赤くする。 「あ……陽子!」 「呼び捨てにしないで」  陽子――神代陽子はそのままショウの傍へと歩き、倒れているショウの前に屈みこん だ。まだ怯えているショウを見て陽子は笑った。 「もう大丈夫だよ。行こ」  ショウの手を取って立ち上がらせた陽子はそのまま手を引いて歩き出す。聡は慌てて 陽子に声をかけた。 「な! 陽子! その男知ってるのか!?」 「新しい彼氏」  陽子の言葉に愕然となる聡。陽子はかまわずにショウを引きつれて歩いていった。 「ごめんね。痛かったでしょ」  陽子は濡らしたハンカチをベンチに座ったショウに差し出す。  ショウはハンカチをしばらく見つめていた。何を意図しているか分からないのだ。  陽子はそれを察してハンカチを腫れた頬へと当てる。それでようやくショウはハンカ チを陽子に代わって押さえた。 「ありがとう……ございます」  おずおずとした返事。陽子は笑みを浮かべてそれに答える。  ショウと陽子は街から離れてさかまき公園へと来ていた。公園は比較的大きく、夏休 みの子供達が母親に連れられて、また友達と一緒にここに集まり、楽しそうに声を上げ ている。また高校生くらいのカップルを何組か見かけた。 (暑いのに……更に熱くなってどうするのよ……) 「あなたは?」  物思いにふけようとした時にショウの言葉で現実に戻される。ショウは先ほどまでの 緊張感からか必要以上に汗を流していた。今も完全には気を緩めていないらしい。陽子 にはそれがはっきりと分かったので、警戒心を解くように語りかける。 「私は神代陽子っていうの。さっきの奴等は私の兄の友達でね、兄には頭が上がらない から、私にも手は出せないわけ。これからは手出しさせないから、許してね」 「はあ……」  ショウはまだ要領を得ないといった様子で陽子を見ていたが、警戒心は徐々に解け始 めている。そんなショウを見て陽子は今までにない充実感が広がるのを感じていた。 (まるで子供みたい、ね)  自分と変わらないような体格にも関わらず、精神は子供のよう。そんな小説を前に読 んだが、それとも違う気がする。  そして、ふと陽子は二週間ほど前に別れた男のことを思い出した。後一週間もすれば 自分の誕生日。祝ってもらえるはずだった。  顔も人当たりも良く、告白されて断る理由が無かったから付き合ったのだが、結局飽 きてふってしまった。けして悪くない相手だったのに。  何かが満たされない。  自分の中にぽつんと存在する空虚な穴。  それを認識できるが故に、陽子は自分を満たしてくれる何かを探し続けてきた。   だが二十年経った今も、彼女の心の空隙を満たす物はない。  だから形のある物に頼り、いろいろな趣味に手を出して全てに挫折した。  心は、傷ついた。  街を歩いていて偶然知り合いの聡を見つけ、誰かに絡んでいるのを見た時、彼女も他 の待ち行く人々と同様に関わる気は全くなかった。兄の知り合いというだけでやたらと 纏わりついてくる聡を嫌っている事もあったし、また真夏日の暑さから早く解放された いと目的地であるデパートに行こうと思っていたこともある。  だが、聡達数人の合間からショウの姿が見えた瞬間、陽子の心に何かが現れた。  それはまるで青天の霹靂のように唐突に、しっかりと陽子の心に降り立ったのだ。 (……こんな安心感は初めて)  陽子はショウといる事に今まで感じたことのない安心感を得ていた。  温水に浸っているかのような心地よさ。それは陽子の心の底から全体へと穏やかに広 がっていった。 「あなた、名前なんて言うの?」 「僕は……ショウと言います。それ以外は、分かりません」 「……記憶喪失っていうやつ?」 「はい」  その割にはあまり慌ててはいないことに陽子は疑問を抱いた。慌ててもしょうがない と諦めているのか、それとも……。 (元から慌てる必要がないって分かっていたか)  不意に浮かんだその言葉を、陽子は理解できなかった。記憶もない男が、どうして慌 てる必要がないなど分かるのだろうか? 「……で、今はどう暮らしているわけ? なんなら記憶戻るまで一緒にいようか?」  自分でも大胆な事を言っていると陽子は思う。しかもその言葉に自身が心臓の鼓動を 早めさせている。高校時代から愛の告白というものには慣れていた陽子だったが、何故 か今は恋を初めて知った女の子のように胸をときめかせている。 「はい。今は正人の家にいます。とても優しいです」 「マサト?」 「はい、正人です」  自分の家に来ることを多少なりとも期待していた陽子の落胆は少なくなかったが、そ れよりもショウと共に住んでいるという男に興味を持った。名前からして男性だと予想 しただけだが。 「正人は歌が上手いんです。そして、歌を一緒に歌おうって言ってくれました」 「あなた歌を歌えるの?」  陽子が訊ねるとショウはベンチから立ち上がった。陽子は何をするのかは理解できた がそれを恥ずかしがって止めようとはしない。ショウから止めてはいけないというよう なオーラが出ていた気がしたからだ。 「♪『僕は歌おう、星降る夜に歌おう。君に届くように』♪」  そのワンフレーズだけ。  しかしそれは確かに歌だった。  ほんの一瞬奏でられた旋律は陽子の中に衝撃を走らせる。  今まで聞いた事のないような綺麗な声。今まで声が良いと思ったアーティストの歌を たくさん聴いてきた陽子だからこそ分かった。  これほどの歌い手は、どこにもいないと。 「あ、なた……一体」 「歌詞、昨日一回見ただけだったから忘れちゃいました。後で正人が来たら教えてもら います」 「……その正人って人に、私も会っていい?」 「? いいですよ」  ショウはよく分からないといった顔で陽子を見ている。陽子はしかしこれから来るで あろう期待に胸を躍らせていたためにショウの視線に気付かなかった。 (見つかるかもしれない。私の求めていた物が……)  自分を満たす何かを、彼女は捜し求めていたのだ……。


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