『Love Song』
『第二話:ショウ』
正人はショウを自分の部屋へと通した。ショウは物珍しそうに部屋を見回し、ただ立っ
ている。正人はキッチンに入ってコーヒーを入れるために湯を沸かしながら言った。
「いいから座ってろよ」
正人が言って初めて、ショウはその行為に気付いたかのごとく突然腰を降ろす。明らか
におかしい行動だったが正人は背を向けているために気付かない。
少しして、正人は手にコーヒーを持ち、テーブルについているショウの前へとコーヒー
を置いた。
「狭いけど、まあくつろいでくれよ」
正人の部屋は大の大人二人が寝るには少し窮屈な広さだった。風呂は無く、キッチンも
今の時代からすると少し古い。しかし音楽に大半の時間を割いている正人にはこうした貧
乏暮らしもやむない事だったのだ。
「ここは一体?」
「あ? 俺の家だよ。まさか他人の家でくつろぐはず無いだろ?」
「……いえ」
ショウは心底不思議そうに部屋を見回す。正人は出会った直後に感じた違和感を再び思
い出し、訊ねてみた。
「お前、名前は――」
「ショウだよ」
今度は澱みなく瞬時に答える。だが逆に正人の疑問は膨らんだ。
「お前さ、どこから来たんだ?」
今度はショウの口から言葉が出ない。ショウは必死になって何かを探るように――記憶
だろうが――目を泳がせている。
そして、結局ショウは捜すのを止めたようだ。
「分からないんだ」
「やっぱりな」
正人は軽く頷くとショウの目の前にあるコーヒーを手に取って差し出す。
「?」
「とりあえず、乾杯だ。これは飲む物だ。分かるか?」
『飲む』という行為を理解できているのかを確認するために正人は問い掛ける。ショウは
曖昧にだが頷いた。
「なら飲め。俺達が出会った初めての夜だ。祝おう!」
「……うん」
ショウは満面の笑みを浮かべた。そのあまりに純粋な笑みに正人は顔が火照るのを自覚
する。男の笑顔で赤面するという恥ずかしさを隠すために正人は勢い良くコップを合わせ
てコーヒーを飲んだ。続いてショウも飲む。
「げほっ!!? ……苦い……」
「そりゃあ苦いさ。コーヒーだし」
「苦いよ……こんな物を正人は飲んでいるの?」
「いずれ慣れるさ」
正人は文句を言いつつ、苦さと格闘しながらコーヒーを飲んでいるショウを眺めた。
記憶が無いショウ。コーヒーの苦さに悪戦苦闘する姿。
その姿が一瞬ぼやけ、別の男の姿が重なる。
正人は目をきつく閉じて、また開けた。そこには元通りにショウが映っている。
(……暁。まるでお前みたいだよ)
男の名を呼ぶと、記憶の海の底に沈めた箱が浮かび上がってくる。
自分の最も大切で、最も辛い記憶が一瞬だけ甦る。
だがそれを正人は表に出す事なく、再び箱は沈んでいく。
(もう大丈夫だから。今度は、間違いはしない)
正人はようやくコーヒーを飲み終えたショウに早速自分が書いた詩を見せた。それを見
てショウは首を傾げながら訊ねる。
「これは……正人の歌?」
「そう。俺が書き溜めた歌だよ。高校からやってて結構経つけど……」
正人の書き溜めた詩は大学ノート四十枚を目一杯使っていた。最初のページから最後ま
で埋めつくされた詩には様々なものが書かれていた。
恋愛、応援歌、季節物、友情、希望。
そして、絶望
「『……今だけの光はいずれ無と化すだろう』」
それは一番最後のページに書かれていた歌の一節だった。ショウの透明感のある声に紡
がれた言葉は冷たいナイフとなって正人の心に突き刺さる。
「……昔、言われた事があるんだ」
正人は少しうつむき加減に言葉を紡ぐ。ショウは詩から顔を上げて正人を見ていた。
「詩は、今の自分の気持ちを表す物だって。今の俺にはそんな詩しか書けないんだ……昔
見たいに希望を持った、自由でのびのびとした詩を書く事が出来ない」
正人は顔を上げ身を乗り出し、ショウの肩を掴んだ。あまりの力に動揺し、ショウは体
を硬直させる。
「でも、ショウの声を聞いて、俺はまた書ける気がするんだ……。お前の声を通して未来
を見ることが出来る歌を。お前となら、俺はまた歩き出す事ができる気がする!」
それが醜いことだとは分かっていた。自分ひとりでは届かない夢へとすがるために、シ
ョウに引きずられて行こうとしている事は。
だが止められない。
正人はショウに出会ってしまった。
自分が未来に夢見ていた物を現実に体現できるであろう存在を知ってしまった。
もう、この誘惑から逃れる事は出来ない。
「お願いだ! ショウ、俺と一緒に歌ってくれ!」
「……いいよ」
その言葉は少し遅れながらも、あっさりとショウの口から流れた。
ショウは自分の肩を掴んでいる正人の手をやんわりと握った。その手はほのかに暖かく
て、正人の体全体にショウの体温が広がっていくような感覚があった。
「正人の言っていることは、難しくて分からないけど……僕も歌いたい。君の歌で」
するとショウはその場に立ち上がり、息を吸った。それだけで部屋の空気が変わり、何
かの始まりを予感させた。
「♪『僕は歌おう 星満ちる夜に歌おう。君のために 君に届くように』♪」
それは正人自身、最も気に入っている歌だった。先ほど、ショウに会う直前に歌ってい
た歌である。
いつのまに聞いていたのか、ショウは完璧にメロディを把握して歌っていた。
しかし、それは同じ歌とは思えないほど綺麗で、心に染み入っていく。
正人に足りない物を補うかのように、詩の持つ透明感を更に引き出し、ショウの歌声は
部屋中に、いや、この部屋を含むアパート全体に響き渡った。
「♪『いつしか繋がる夢のために……』♪」
最後の節を歌い終えたショウは恍惚の表情を浮かべていた。そしてしばらくの硬直から
解けるとはっとして正人を見る。
「正人……何か、嫌だった?」
「……」
正人は何も言えない。
彼の瞳からは涙が零れていた。
同じ歌でもここまで違う物かという感動。
自分ではやはりここまでの歌を歌えないと言う絶望感。
そして、ショウとならば、また夢を追えるという希望。
全ての感情が入り混じって、正人はただ体を震わせながら首を振るしかなかった。
ショウはしばらく黙って見ていたが、正人を強く抱きしめた。突然の事に動揺する正人
だったが、耳に寄せられた口から紡がれる言葉に落ち着きを取り戻す。
「大丈夫」
何がなのかなど分かってはいない。
だが、ショウの言葉には力が宿っていた。その一言だけで正人の体に力がみなぎる。
ようやく正人が落ち着くと外から何か音が聞こえてきた。
「何だ?」
不思議に思った正人がドアを開けてみると、そこにはアパートの他の住人が立っていた。
全員が全員、拍手をし、顔には満足げな表情を浮かべている。
「いや〜、いい歌を聴かせてもらったよ。夜中だけど、思わず起きだして聞いてしまった」
いつも家賃の取立てに厳しい大家も、満面の笑みを浮かべて正人の手を握る。
「またいい歌を聞かせてくれ」
「最高だったよ」
「ありがとうなぁ」
他の部屋の住人も個々に礼を言って戻っていく。全員がいなくなるまで正人はその場に
立っていた。ショウは何がなんだか分からずに次々に来る人を見ていた。
人々が全て去った時、正人はショウの前に立ち手を差し出す。
「よろしく、相棒」
差し出された正人の手をじっと見るショウ。
そして、二つの手は合わされた。
【いいのかい? 君の時間はあと――】
闇の中から聞こえてくる声は優しく、残酷に残り時間を告げる。
いいよ。僕は決めた。残りの時間を、こうして過ごすと。
闇の声に対して返答する存在。
しかしその姿はどこにも見えない。
この、どこなのか分からない空間の中で、二つの『声』が木魂する。
【それが君の選んだ道ならば、止めはしない。精一杯、生きるんだね】
……生きる、か。
片方の声に含まれる脱力感。
何かに疲れている、感触。
生きるって、何?
そして光が訪れた。
「――ショウ。ショウ! 起きろよ。朝だぞ」
「……おはよう」
正人に揺り動かされてショウは体を起こした。
二人で寝るには狭い部屋を何とか上手く使って寝た二人だったが、やはり無理があるの
か正人のほうには疲れが見える。
「? いま、誰かいなかった?」
「ん? いや、俺以外誰もいないぞ」
「そう……」
首を傾げながら周りを見回すショウを不思議そうに眺めていた正人だったが、あまりゆ
っくりしている時間も無いことを思い出す。
「そうそう。俺はこれからバイトなんだ。朝飯は用意してあるから適当に食べててくれ。
あと、食べ終えたらあそこに置いてな」
そう言って正人は台所を指差す。ショウは軽く頷くと早速朝食を食べ始めた。
そうは言っても用意されているのは焼いたトースト二枚とコーヒー。
「またこれなの? こーひー以外無いの?」
「何言ってんだ。コーヒーの味が分からないと男じゃないぜ」
正人は冗談半分で答えるとすぐさま着替えて玄関に出る。
「あと、今日の八時に昨日会った公園の場所に集合。それまでは何しててもいいぞ」
そう言って正人は合鍵をショウに投げ渡す。ショウは受取った鍵を不思議そうに眺める。
「それはこの部屋の鍵。ここに入れて回すんだ」
正人はそれから丁寧にショウに鍵の開け方閉め方を教えた。時間が無いのは本当なのだ
が、それでも丁寧に、時間ギリギリまで。そしてショウはしっかりと頷いた。
「じゃ、行ってくるよ。記憶が無いからって部屋の中にいないで外に出てろよ」
正人はそう言ってドアを閉めた。
カンカン、とアパートの階段を下りていく正人の足音を聞きながらショウは眼を閉じて
鼻歌を歌った。
この世界には『音楽』が溢れている。
些細な音でもリズムを刻み、音としてショウの耳に流れ込んでくる。
空気は汚いけれど、音が溢れている世界は好きだった。
だからこそショウは急いでトースト二枚を食べ、コーヒーを少しだけ飲んで台所へと置
き、外へと足を踏み出した。
「あ、そうだ」
階段を下りようとして、ショウはひきかえすと合鍵でドアを閉める。良くは分からない
がこうする事が重要であるらしい事は正人の口調と動作の真剣さで分かった。
「ちゃんとしないとね」
ショウは少しずつだが、自分の記憶が無いということを認識し始めていた。
正人はショウの分からないことをしているが、それは何の変哲も無いことで分からない
ショウのほうに問題があるのだと気付き始めていたのだ。
「フンフン〜♪」
鼻歌を歌いながら歩く。
心地よい気分に包まれながら、ショウは街へと歩き出した。