Little Wing
第四話「影響力」
ラケットバッグを背負って更衣室に入ると、一年生達が一斉に自分へと視線を向けるのが凛には分かった。すぐ後に続けて挨拶が飛ぶ。そして、既に着替え終えている一年が我先にと更衣室から出て体育館へと向かった。
七浜中では休日の練習は、必ず一年が先輩達よりも先に来てコートの準備を行うことになっていた。凛は二年以上の中でも早く来るほうで、最初の頃は自分が準備をしていたのを一年が謝りながら代わっていた。
(ハードルあげちゃってごめんね)
駆けていく一年の後ろ姿を眺めながら心の中で謝る。凛も自重して少し遅くくるようにしたが、体がむず痒くなる。せっかくの土曜や日曜にはたくさん練習をしたいと体が訴えてくるのだ。
「それに。試合も近いしね」
独り言が中空に消える。それでも、言葉にしたことで凛の心の奥に炎が灯った。
一年生が部活にいることに徐々に慣れ始めた四月の四週目。一週間後、ゴールデンウィークが明けた次の日曜日に行われるインターミドルの市内予選。
凛にとっては通過点に過ぎないと注目が集まるほど、逆に凛は目の前の試合に集中していた。中学生の試合に絶対はない。中学だけではなく高校や大学でもそれは同じ。自分に全国で一位をとれる実力があるということは実績から証明されているが、だからといって一位を必ず取れるわけではない。
目の前の相手に全力をぶつけることで、その先に全国優勝という高みがあるのだ。一年の時と自分が違うとすれば、その事に気付けた点だろうと自己分析する。
ライバル達の顔が脳裏に浮かんで、凛は気分が高揚していく。
「おはよー。やっぱり凛は早いね」
制服を脱ぎ、Tシャツとハーフパンツ姿になったところでドアを開けて声が飛んできた。声の主である三枝は笑顔で凛の隣に歩いてくる。ちょうどいいと自分の思っていることを素直に伝えた。
「私は普通だと思いますけど……。それよりも。来週から試合なのに、皆、少しだらけてるんじゃないかなーって思うんですが」
「そう? んー、まあそうかもね」
三枝は返答しつつ制服を脱ぐ。すぐにラケットバッグからTシャツを取り出して着ると、一緒に出したハーフパンツを穿いてからスカートを脱いだ。
一通り着替えを終えてからラケットバッグを背負い、凛に向き合う。
「確かにここ数年、市内大会なら負けてないし。そこは気が緩んでても仕方がないかもね」
「そんな」
「でも、上級生は大丈夫よ。これでも凛より一年多く試合に出てるんだし。二年と一年はまだ仕方がないかもね」
三枝が歩きだした後をついて凛も足を踏み出す。ロッカールームから出て体育館に向かう間に三枝も言葉の続きを紡ぐ。
「特に二年は凛を見てるから、どうしてもレギュラーが負けるっていうのは考えづらいのよ」
「私のせいで、皆が油断してるってことですか?」
三枝の言い回しに感じたニュアンスをそのまま伝える。三枝は即答で首を立てに動かした。
「凛はね。二年生になって、自分がどれだけ誰かに影響を与えているかっていうのをそろそろ自覚した方がいいかもね。それは強いプレイヤーの証だし、責任だよ」
「……部長の責任とはまた違ってですか?」
「うん。たかが一中学の部長よりもよっぽど影響力が大きいわよ。全国一位は」
「……元、ですよ。また取り返すために次の試合に挑むんですから」
凛は三枝の言いたいことは何となくではあるが理解できた。目標に集中したいと思っているが、最近は周囲からの見えない糸の絡みつきが強くなり、集中しきれないことが増えてきた。特に後輩は視線だけではなくいろいろと話しかけてくる。邪険にすることはないが、心の奥底に黒い何かが溜まっていく自覚があった。
凛は自分に挑んできた対戦相手の顔を思い出す。
自分の強さに最初から勝利を諦めた者。
途中まで粘って、崩れた者。
最後まで諦めずに戦って、負けた者。
そして、自分を倒した者。
様々な相手は思い出せる。自分が対戦して、印象に残った人々は誰もが強く明確な意志を持っていた。凛はそれらを出る杭を打つかのようにラケットで沈めてきたのだ。
しかし今の時点では、自分が杭として打ち込まれている。再び杭を打つ方になるためには越えねばならない壁がある。
「対戦している人だけじゃなくて、見ている人や聞いている人にも影響は与えられるものよ。真島とかね」
真島の名前を告げられて凛は様子を思い出す。
最初は練習後に義務づけられた片づけもすることが疲労のためにできず、壁にもたれ掛かっていた真島も、更に期間が過ぎると倒れることも減ってきた。初心者なりに経験者達に食らいつき、バドミントンを続けようとしている。体験入部以来会話を交わすことはなかったが、どこか気になっていた。
会話をしていく中で体育館の入り口に辿り着く。三枝が先に扉を開けて中に入ろうとしたところで、後ろを振り向いた。
「そうそう。今日、団体戦のメンバー発表するから。試合までラストスパートするわよ」
「あ……はい」
三枝の言葉に凛は一瞬呆気にとられた後で、力強く頷いた。
* * *
練習開始のちょうど一分前に全員が集まり、練習は滞りなく開始される状態になった。しかし、時間になったところで三枝は全員を集めると「練習前に」と前置きした上で手にした紙を見ながら全員に告げる。
「これから来週のインターミドルの団体戦メンバーを発表します」
高校生のインターハイのように、中学生にとっては最大級の大会――インターミドル。凛の心配を余所に、部員達の中にピリピリと張りつめた空気が漂う。
(……なんだ。皆、緊張してるんだ)
自分が思っていたよりも大会に対して緊張感を持っていることに安堵する。三枝は波立つように広がった波紋が収まるのを待って、メンバーを発表する。
中学生の団体戦は二復一単。ダブルス、シングルス、ダブルスと順番に試合をして先に二勝したほうが勝つ。第一ダブルスに三枝と副部長の名前が出た後のシングルスに、凛の名前が呼ばれた。
「はい」
自分の中には波風は立たず、淡々と言葉を受け止めながら前に出る。客観的に見て選ばれるのは当然であり、シングルスで必ず勝つことを期待されている。
目の前の相手を一人一人、確実に倒すこと。それは今までと代わらない作業。何度か味わったことのある苦い経験から、いつでも目の前の試合に全力を尽くす。
それでも他の部員や後輩達が笑顔を向けて拍手してくることに心のどこかが柔らかくなっていくのを凛は感じていた。
(なんだろう……この感じ)
後輩が入ってきてから、何度も新しい感覚を得ている。体育館の扉をくぐる前に思い返していた黒いなにかは、自分をマイナスの方向へと乱すもの。でも、今の皆からくる視線はくすぐったくもあり、跳ねのけることも出来ないものだ。
凛は自然と視線を巡らせて、真島を捜していた。実際には捜す必要もなく、真島は凛のすぐ目の前に座っていた。目の輝きは他の一年よりも強く、満面の笑みを向けながら拍手を続けている。
(何か……恥ずかしいな)
試合で注目を集めることとは違う。仲間から向けられる眼差し。それはクラスの友達とも、先輩達からの視線とも異なる、独特なものだった。
最後のダブルスの名前も発表され、三年四人と二年生の凛という構成で団体が組まれることになった。部活の中でも実力が上の五人が選ばれる順当な形。凛も、安心して他の試合を任せられるメンバーになったと思う。
「私達は今年で最後だけど、来年は凛以外の四人が入れ替わるんだから、二年生も一年生もレギュラー狙ってよね! じゃあ今から言われた人達でも団体作って、私達と練習試合ね。これから一週間は実戦形式で通します!」
「はい!」
三枝の号令に全員が従う。次に呼ばれた五人は部活の中での六番手から十番手。三年と二年の合同チーム。凛達と併せて十人が試合形式の練習のために一つのコートに集まる。他の部員はいつも通りノック練習やフットワーク練習などの基礎練に入った。
最初はダブルスの試合をコートの外から応援するが、凛の視線は外れてレギュラー達以外へと向いている。ノックの開始に大きな声で「お願いします!」と言ってから入ったのは真島。ほとんどのシャトルを返すことは出来ていないが、いくつか光る返球を見せている。前後、左右、斜めと考えられる方向全てに向かわされても、必死に食らいついていく。
やがてノックが終わると、ふらつきながらコートから出る。だが、座らずに両膝に手を置いて体を支えながらも立っていた。
(初めて会った時とは違ってるね)
床に座り込んで動けなくなっていた初めの頃とは異なり、体が慣れてきているのだろう。少しずつ目に見える形で真島の努力の成果が見えると、乱れていた気持ちも落ち着いた。
「凛! ちゃんと試合見てダメなところ指摘しないと」
「は、はい! すみません!」
意識外から飛んできた言葉に慌てて凛は視線をコートに移す。そこから先は自分の練習に集中し、外に意識が向くことはなかった。
* * *
練習を終えて更衣室の中は女子といえども汗の臭いが充満する。掃除を一年生に任せて二年と三年は先に着替えを済ませて我先にと出ていった。五月に入ろうとしている時期はまだ春先。そこまで外気温が高いわけでもないためそこまでではないが、これが夏になると一気に不快指数がアップする。
「わ、誰もいない」
練習後に一人、トイレに行っていたため遅れて更衣室に入った凛は誰もいない部屋に少なからず驚いた。と言っても全員が姿まで消したわけではなく、更衣室から出てすぐの場所にあるスペースで二年と三年は雑談をしていた。凛は素早くTシャツを脱いで下着姿になると制服を被る。開けておいたファスナーを閉めて、スカートはハーフパンツの上から穿く。同時にハーフパンツを脱いで解放感に思わず頬を緩めた。
ロッカーを閉め、ラケットバッグを背負ってから更衣室を出るとすぐに話しかけられる。
「凛ー。帰りにどこか寄ってかない?」
「んーと。今日はいいや。ごめんね」
誘いをほぼ即答で断ると、足を体育館へと向ける凛。背中に引き留める声が届いたが凛は気付かない。体育館に戻ると一年生が掃除を終えて更衣室へと向かってきているところだった。凛の姿を見て硬直する一年達を眺めてから、先頭を歩いていた女子に尋ねる。
「ねえ、真島さんは?」
「え、えっとぉ……あれ。いない……」
話しかけられた女子は困惑しながらも後ろを見る。そこに真島の姿が見えないと分かると申し訳なさそうに「分からない」と告げてきた。凜は礼を言って更衣室がある方向とは逆に走り出す。自分のいる方向にいないのなら、残るは逆方向。
凜は自分を駆り立てる思いが何なのか分からないまま一年達の横を抜けて反対側の扉から校舎へと向かった。
(なんだろ。どうしても気になる)
自分でも真島のことを気にする理由が分からない。しかし、焦燥感にも似たものが胸の中心に沈殿している。解決しなければ今日を終えられない。凛は衝動に従うままに足を速めて、ちょうどトイレから出てくる真島を見つけた。
「真島さん」
「……あ。き、君長先輩」
突然現れた凛に対して真島はどう接していいのか分からずに体を縮こまらせる。凛もその様子は分かったため、端的に用事を終わらせようと決める。
「よかった。また体調崩してたかと思った」
「あ……ご心配かけてすみません」
勢いよく頭を下げた真島から香るほのかな香り。制汗スプレーの匂い。ただそれだけではなく、凛の好きな香りだった。
「もしかして、同じ制汗スプレー使ってる?」
「え? もしかして――」
真島が告げたスプレーの名前は凛のものと同じ。それだけで凛の中に親近感が芽生える。それだけに、心の中に生まれた心配が大きくなった。
「ねえ。もしかして、吐いてた?」
言葉を飾っても仕方がないとストレートに尋ねる。言葉を向けられた真島の顔がひきつっているのを見て、酷い言葉だと自分でも分かるが聞かずにはいられない。体が慣れてきたといっても練習の量も質も上がっているのだ。練習中に倒れないようになっただけでも進歩だが、代償として練習後に倒れているのではないか。更に、同じ一年にも話していないのではないか。そんな疑問が生まれていた。
(どうして、こんなに気になるのか分からないけど……)
自分でも真島がここまで気になる理由は分からない。しかし、理由は分からなくても心配しているという事実はある。心配を解消するために問いかけていると考えればいい。
凛のまっすぐ見つめてくる視線に、真島はため息をついて答えた。
「……はい。実は。スプレーのおかげで臭いは消せてると思うんですけど……」
「練習後に毎回?」
「い、いえ! 最初は毎回でしたけど、最近は週明けとか、週末以外は何とかなってます」
「そう……ならいいけど。どうしてそこまで頑張るの?」
一番尋ねたかったこと。初心者で、辛いところに入部して、吐くまでも頑張るのは何の為なのか。凛自身を特別視してきているのは分かっている。ただ、憧れだけでバドミントンはできるものでもない。
「心配してもらえて、嬉しいです」
真島の口からでたのは、素直な感謝の気持ちだった。嬉しそうに頬を緩めて、瞳を輝かせて凛に視線を向けてくる。いつも感じている気恥ずかしさを覚えて、凛は一歩後ろに下がるが、真島は気づかないままに語りだす。
「私、君長先輩の試合を見て、バドミントンをする気になったんです」
自らの過去を優しく手に取り、愛おしくさするように両手を胸元に持っていきながら、真島は言った。
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