戦乙女に祝福を03

モドル | ススム | モクジ
 一夜明けたエルの体調は回復を見せた。今まで一年に一度しか見ていなかった悪夢を日中に体験したことから、またうなされるのではという不安を感じていたエルだったが、熟睡できたことが大きい。乾いた寝具から外着へと着替えてエルは部屋の外に出る。
 そこで、ちょうどやってきたエイクと鉢合せた。
「あ、姉さん。おはよう」
「おはよう。どうしたの? 少し元気ない?」
 エルの質問にエイクは首を振る。同時に揺れる髪の滑らかさは視覚を通してエルに手触りを伝えた。もし、エイクが女の子ならば髪を結ったり出来ただろうと思い、ため息を吐く。
「姉さんこそ大丈夫?」
 ため息の意味を間違え、尋ねてくるエイクに微笑んで答える。
「ええ。昨日までの疲れが嘘みたい」
「良かった」
 満面ではないが、口元から広がるささやかな笑み。エイクの、エルを心配する想いが温もりを運んでくるようだ。思わず抱き締めたくなる衝動を押さえ、エルは共に朝食の場へと向かった。
 居間でいつものように支度するエル。しかし、その隣にはいつもはいないはずのエイクが立っていた。エルが指示しないうちに食材を切り始める。その手際はいつも食事を作っている彼女からすれば遅かったが、正確ではあった。特に反対することなく、エルは食材を待ってから料理に取り掛かる。
 役目を終えて満足げな表情をしたエイクは食卓へと戻っていった。
(今日に限って、何かしらね)
 心の中に広がっていく不安。朝食を作る間、エルの心をしめたのは体の外から入ってくる黒い思いだった。単純に、エイクがいつもやらない朝食の手伝いをしただけだというのに。いつもと違うことに対して過剰反応する自分を疑問に思う。
(また、始まる……)
 前日と同じような息苦しさ。体調は治ったはずなのに、喉の奥を締め付けられるような気持ち悪さが甦る。それでも唾を何度か飲んでいると、その違和感も共に胃へと落ちていったのか消えた。一安心してため息をつき、食事を作り上げる。
「さあ、できたわ」
「姉さん。いつもありがとうね」
 また、違う言葉。感謝の言葉。普段ならば食事への感想を言ってからエルと共に食べ始める。その前に置かれる、一言。
「どうしたの? いつもと違うことなんて言って」
 胃から逆流してきた違和感に耐え切れず、エルは尋ねていた。自分の顔がどのように歪んでいるかは、目を大きく開いて凝視しているエイクの表情から見て取れる。
「姉さんこそ、どうしたの? 何か僕が悪いこと言ったかな?」
 俯いて全身から申し訳ないという気持ちを出すエイクに、エルは罪悪感が芽生えた。違和感を飲み込んだそれは今度は虚空へと消えていく。
(そうよ。別に、エイクは悪いことなんて言ってない。私が体調不良から回復した後だから手伝ってくれたんだろうし、今までやってたことに対して「いつもありがとう」って言ったんだ)
 そう言い聞かせると、霧が晴れたように視界が広がる。陽光が真っ直ぐに自分へと降り注いでくるように、身体が温まっていく。
「ごめんね。病み上がりだから少し落ち込んでいたのかも。さて、食べて今日も頑張ろう!」
「うん」
 自分を鼓舞して食事に取り掛かったエルは、エイクの瞳に映る微かな感情に気づくことはなかった。


 ◇ ◆ ◇


 教室の扉をくぐる。前日とは違い、早く家を出たことから、同室の学友も二、三人しかいない。いつもならば当日の講義の疑問点を話し合うが、先客が全て引き受けていたことから陰欝な思いにかられた。
(ランスロー、か)
 前日と違う時間に前日と同じ世界が広がる。ランスローの机の周りに集まる男女。耐え切れず、エルは鞄を机に置くと教室を出た。体技場で汗を流せば気が晴れるはずだと。
 しかし、廊下を歩いていく中で不快感は増していった。後ろから迫る足音と気配が近づいてくることに比例して。
(何のつもりなの?)
 振り返らなくともランスローだと知れた。自らの気配を隠そうともしない。エルに振り返えらせる目的だろうと、警戒する。
(体技場まで来るなら、いいわ。叩き潰す)
 足音は最後までその間合いをつめることはなく、体技場に辿り着く。エルは気づかない振りをしたまま、吊り下げられている袋の前に立つ。砂が敷き詰められており、打突の練習にはちょうどいい。
 身体をねじり、伸ばす。そのたびに微かに関節が鳴る。
 準備運動を始めると一瞬、ついてきた人物の存在を忘れた。自分にとって排除すべき相手を文字通り意識の外に置くことで、準備といえど身体の切れが増していく。
 じんわりと汗が滲んだところで動きを止め、深く息を吐く。
「で、何か用?」
 身体が温まったことで余裕が出来たのか、エルは意識を初めてランスローへと移した。このまま無視を続けていてもいずれは向こうから声をかけてくるだろう。ならば、先手を打ったほうが良いとエルは判断した。
 相手は静かにエルに視線を向けている。準備運動をしている間、ずっと動かずに見ていたのかと想像し、首を振った。それはそれで気分が悪い。
「用がないなら相手にしないけど」
「あの、弟」
 声と共に音もなく迫るランスロー。まるで床を滑るような足取りにエルは少なからず驚愕した。実力があるとは思っていたが、その片鱗を見せられると身体が反応する。
「義理の弟だろ?」
「どうして知ってるの?」
「いろいろ世話をすると、知りたいことを聞けるのさ」
 ランスローは右手首を回して音を鳴らす。その動作だけで、エルはランスローへと闘気を押し出した。
 分厚い暖気。身体を突き抜ける、熱い鼓動。
「おいおい。俺は闘う気なんて――」
「闘う理由なんていらないわ。あなたが目障りなの」
 両足を前後に開き、体勢を低くする。迫ってくるランスローへといつでも飛び出せるように。あと半歩進めば最も威力ある一撃を叩き込める。そんな位置で、相手は立ち止まった。不可視であるはずの攻撃範囲がはっきりと見えているかのように。
「なあ。久しぶりなのに、なんでそんなに刺々しい?」
 言葉が右から左に通り抜ける。エルの脳裏に欠片も触れることなく過ぎていく様子に、ランスローの顔が曇っていく。
「おい。覚えてないのか?」
「何を言ってるか分からないけど」
 その場で力を溜めて待つ優位を捨てて、エルは構えを解くと前に踏み出す。半歩ずれていた二人の距離が一瞬で詰まり、次の瞬間にはエルの拳がランスローの顔面へと届いている。構えすらない、いくつもの過程を省略した一撃は乾いた音を立てて止まった。
「私は練習でも容赦しないの」
「なるほどね」
 顔の前に掲げられた右手。そして左わき腹を薙ごうとしていたエルの右足を止めた左手。威力に押されることもなくその場に立ったまま受け止めたランスローは、手足を掴んで動きを止めようとすることもなく後退した。自然と開放された手足を構えに持っていくエルはゆっくりと呼吸と整える。
(本当。桁が違うわね)
 ランスローの実力を肌で感じ取り、嫌悪感が消えていく。目を背けていては勝てるものも勝てない。冷静に分析してみても、明らかに実力は上だった。
(実力が上だからって必ず勝つとは限らない)
 王立騎士団で必要なこと。それは勝機が見つからないのならば、切り開くという意思と分析力だ。自らが最も強いことが最善だが、もしも相手が自分より強いとしても逃げることなど許されない。自警団が駄目なら都市の軍がある。それさえも食い止められない暴走を止める最後の砦が騎士団だ。自分達が駄目ならば後がない。それを自覚し、勝機を見出そうとする意志の強さこそ最も得がたく、必要な物。
(一撃を入れる。それでいい)
 右拳に力を込める。握りこむ大気さえも歪め、圧縮させるほど。
 だが、結集していた力が消えていく。急激に。
「な、に?」
 言葉もむなしく、エルの身体は崩れ落ちていた。
「おい! 大丈夫か?」
 距離があったにも関わらず、倒れる前にエルの身体はランスローに支えられていた。腹部に左手を差し入れられ、抱き寄せられる。弱った身体に精神が同調し、触れた箇所から侵されていくような錯覚が生まれる。通常の体調ならば暴れて身体を離していただろうが、指先一つまでエルの意思に従うことはない。
(さ、わらない、で)
 そう呟いても漏れ出る声は形にならない。口を動かす筋肉さえも正常に開かない。そのままエルはランスローに背負われて救護室へと向かわざるを得なかった。
(治ったんじゃないの? 何が起こっているの?)
 自分が危機的状況だというのは理解できた。そうなると次に考えるのはこの状況がいつまで続くかということだ。
(もしこんな状態ならエイクが心配する。あの男達もまたエイクを狙うかもしれないし、私がしっかりしないと。どうしてこうなっているの?)
 思考の間に救護室についていたらしい、ランスローがノックをして常駐の医師を呼び出す。部屋に入ると同時に寝台にゆっくりと横に下ろした。手馴れた動作は今までに何人も同じような者を世話したかのようだ。
(駄目。このままでは駄目。駄目――)
「大丈夫か? 何か言えるか?」
「――丈夫」
 身体を起こして答えるエルに、ランスローと医師は同時に唖然とした顔となる。そんな二人を尻目に足早にエルは救護室を出て行った。飛び出したというほうが正確だろう。精一杯その場から離れようとすることを隠そうともせず。後からついて来る足音にも振り返ることはない。
 ほんの一瞬前まで意思を手放していた身体との結合を取り戻し、今は意思以上に早く動いている。意思をもて遊ぶ身体。自分が自分ではなくなるような感覚。(何かが、起こってる。何なの……)
 剥離していく自分を引き寄せようとするかのごとく、エルは思い切り右足を踏み込んで叫んでいた。
「ぁああああああああああああああああ!」
 空気が裂けた音が響き渡り、壁が震えた。エルの周りに滞留していた空気がその瞬間だけ暴発し、衝撃波を生み出したのだ。唐突な出来事に傍の教室から出てくる学びの徒達。
 ざわめきが強まる中、自分を見る奇異の視線の中を青ざめた顔のままエルはゆっくりと歩き出した。
「おい、待て」
 ランスローが駆け寄って肩に手をかけてもエルは止まらない。ランスローも力を込めて掴むことが出来ずに後ろをついていくだけ。
「どうした? 大丈夫とは思えないぞ」
「あなたが消えれば問題はなくなるわ」
 顔を向けて後ろを睨み付けるエルの視線には、心の蔵まで凍りつくような冷気が込められていた。身体から吹き上がる熱。瞳から突き刺さる冷たい風。ランスローを通り抜けて周囲のざわめきを止めていた。
 エルは気にも止める事はなく、自らの教室へと去っていった。声をかけぬままについて行くランスローの視線にも振り返ることなく。
 最初は足元を踏み砕かんとするように音を立てていた靴も、徐々に落ち着いていく。熱が収まってきてもエルの内にある猛る物が消えない。
 意味もない怒り……意味はあるかもしれないが、それを探せない。
 何か大切なものを失うような気がしても、何を失うのか分からない。様々な怒りが混ざり合い、溶け込んで、やがて色を失った。
「畜生」
 口汚い言葉を呟いても、自らが汚れるだけ。気づいていても止められない。たとえ後ろをついてくるランスローに聞かれたとしても。
 自らの教室に入って席についてからは頭を突っ伏して外界の情報を遮断しようと試みるエルだったが、意識の奥に巣食う熱の塊を抑えるために力を集中すればするほど聴覚は鋭く声を拾う。
「ラ、ランスロー君。エルはどうしたの?」
「向こうで何か?」
「いや、何もないさ。何故か俺が嫌いみたいだから虫の居所が悪いだけだろう」
 人々の声が遠くなる。ランスローが距離を取ると共にエルの傍から離れたからだ。気配でそれを察知して煮えたぎっていた思いが冷えていくのをエルは感じていた。
(ようやく……戻る)
 苦しみから解放されたとたん、眠気がエルを襲う。抵抗をしようと顔を上げたがすでに瞼は落ちている。人工的な暗闇の中、聞こえてきた声が彼女を包んでいく。
『大丈夫だよ。まだ、大丈夫』
(誰よ。あなたは……)
 声は答えずに同じ言葉を繰り返す。
 大丈夫。大丈夫。
 柔らかな声音。しかし誰の物かは思い出せず、無色なのだが輪郭は帯びているような不思議な感覚をエルに与える。見えないが強い存在感を持つ『それ』は彼女の意識を一気に押し包んでいく。
 最初は締め付けられるような痛み。すぐ後には羽毛が肌をさするようなくすぐったさが訪れ、ついにエルの意識を黒く塗りつぶしていた。
 誰かが手を握る感触が、最後にエルが感じた物だった。


 * * *


 歩くという動作に集中する。それだけで無駄な考えを消去し、ただ一つのことを遂行するために動くようになる。ランスローにそう教えたのは彼を育てた男だった。十年前に両親や親類を全て失ったランスローを自分の子のように育て、鍛え上げた男。厳しい暮らしが蘇り、泡となって消えていく。
(それも運命。そして、エルとの再会も運命なら)
 背中で寝息を立てているエルの呼気を首筋に感じながら、ランスローは彼女の家へと向かっていた。自らの速度を出せれば造作もない距離だったが、道案内をするエイクの歩幅はちょうどランスローの半分。時折姉を心配そうに振り返りながら進むため、歩みが遅々として進まない。夕暮れ時の住宅街。家々を繋ぐ道を歩くのは、二人と一人。時刻としては、そろそろ食材を購入した主婦達が戻ってくるというところ。人々の時間の狭間を彼らは進んでいた。
「エイクも姉さん思いだよな。一緒に早退するなんて」
「身内でもないのに一緒に早退するアレンさんのほうが凄いと思います。ランスローさんも」
 エイクは顔を反面だけ後ろに向ける。視線の先にはアレンが屈託の無い笑みを浮かべていた。対してエイクはどこかぎこちなく笑う。少しだけ笑みの形になる口元は普段、人に対して笑い慣れていない彼をランスローに感じさせた。意識した時に生まれる、微かな溝。空間の断裂は小さく足を取られることさえないが、何かを確実に削り取る。
 やり取りの中でも、ランスローの瞳はエイクの背中一点に注がれていた。視線に力があったのならば、突き殺せるだけの威力があろう。アレンが口を開かねば空間は張り裂けていたかもしれない。
「それにしてもエル、どうしたんだろう? 最近調子悪かったよな」
「最近、とはどういうことだ?」
 それまでエイクだけを見ていたランスローが自分に意識を移したことに、アレンは驚きを隠さなかった。
「お前になんで知らせないといけない――」
「ここ三ヶ月です」
 アレンを止めるエイクの言葉。身体を半分自分のほうへと向けて言うエイクに対し、ランスローも少しだけ視線の力を緩めた。言葉尻にかすかに震えが生まれていたことは、ランスローの視線の強さを感じていた証拠だ。
「ここ三ヶ月。姉さんは体調を崩してました。でも、今日のように急に意識を失うなんてありません」
「何か病気ということは?」
「医者はただの過労としか」
 エイクとランスロー。初めて出会うはずの二人の間も会話が通る。そこにアレンは口を挟めない。
 後ろに視線を送りつつも、確かな足取りで歩いていくエイク。
 足音を最小限についていくランスロー。
 一人だけ蚊帳の外だったからこそ、アレンは少しだけ早く自分達に近づいてくる気配に気がついた。
「ちょっと、話するの待て」
 アレンの言葉に含まれた緊張を感じ取り、ランスローは口元を引き締めた。その時にはもう自分達に向けられた敵意を感じ取っている。一人、エイクは二人の気配が変わったことに顔を青ざめさせていた。
「別に隠れなくてもいいぜ。ばれてるからな」
 アレンの言葉に素直に応じたのか、道の死角から現れたのは十人の男達だった。いずれも通常の衣服という軽装だったが、その下の筋肉の盛り上がりは鍛え上げられていることすぐに分かる。
「俺らに何か用か?」
 ランスローの問いかけに男達は答えず、袖口からナイフを取り出した。ただ自分達の成すべき行為をするためだけに頭を動かす。余計なことは何も言わない。わざわざ目的を言うことなど、愚の骨頂。行動からそう読み取ったアレンはランスローの前に出た。
「エルに怪我させたらただじゃおかないぜ」
「当たり前だ」
 エルを背中から静かに下ろし、路上に寝かせる。エイクがエルへと駆け寄り、まだ動かない手を握る。かすかに震えているのを見て、ランスローは顔をほころばせた。
「こんなところに寝かせてすまない。すぐ終わらせる」
 ランスローの笑みはエイクを落ち着かせたのか、震えが和らいでいた。エイクの落ち着きを確認すると、ランスローもアレンに続いた。
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