戦乙女に祝福を02

モドル | ススム | モクジ
 ランスローを中心に時が刻まれる。今日という世界に彼の存在が浮かばないことが無く、エルにとってそれは苦痛でしかなかった。深く暗い意識の底に沈もうにも、底の底までランスローが侵蝕している。
 歴史や国語、生物化学など。騎士団に入るために必要な知識を学ぶ間も彼は常に目立つ。問われた問題を教師以上に語り、時間を経るごとに教室内の皆が惹かれていく。不可視であるはずの人々の視線が、思考の向く先が、部屋を構成する全てがランスローに引き寄せられていくような錯覚に精神が侵されて、エルは休憩時間ごとに机に突っ伏すだけになる。
「疲れてるな」
「そう思うなら寄らないで」
 講義が一つ終わる度、アレンと同じやりとりが繰り返された。普段ならば彼女の周りには同性の友人が数人集まるが、今はランスローの隣に立っている。休憩時間の度。エルが突っ伏す回数が積み上げられていくと共に、集まる人数は増え続けた。
「注目を集めるのは好かないが、確かに凄いよなあいつ」
「口開くな。臭いから」
「……なあ、本当どうした?」
 エルは問いには答えず意識の外にアレンを追い出す。欝陶しいのではなく、彼の言葉に込められた心配を汲み取ったからだ。
(柄にもないことを)
 自分も同じくらい柄ではないことを理解していたからこそ、エルは外界を拒絶した。
 アレンへの返答にあった確かな憎悪。本来迎う先はランスローだろう。どうして湧き上がっているのかはエル当人にも分からない。
 しかし、矛先を誤り、アレンを貫こうとしたのは明らかにいつもの自分ではないとエルは思う。
(休めば消える。大丈夫)
 体調がまだ戻っていないからだと結論づけて、エルは少しの間、意識を闇に委ねた。


 ◇ ◆ ◇


 空が燃える。大地が割れる。
 人から千切れ飛んだ破片――肉片が舞う。
 エルの視界に見えるのはこの世界の終わりとも呼べるような惨状だった。
 燃え盛る火炎が道を作り、その中央に彼女は立っている。左右を見回し、空と大地を交互に視界に入れ、ようやく自分が夢の中にいると悟る。
(また、あの夢?)
 年に一度だったはずの夢。今朝見たことでもう別れるはずだった夢を、学園にいる時間に見るというのは初めてのことだった。自分が勘違いしていただけで何度も見ていたのかと思考してみるも、思い当たる点は無い。
(それに、この場所も、違う)
 更なる違い。夢ではいつも、血まみれの手をしたエイクに襲われる。その場所は屋内――おそらくは自宅の居間のはず――だったのに、今、彼女がいるのは屋外だ。過去に住んでいた懐かしき街の変わり果てた姿を、その目に焼き付けている。
(いつの時間だろう?)
 自分の姿を見下ろすと、現在の自分だった。時を越えて幼い年齢になっているわけではない。そこで、エルは一つの疑問にぶつかった。
(エイクに襲われる時の私は……、この姿?)
 身体に激痛が走り、うつぶせになって動けない状態で襲われ、エイクの手が届く直前で目が覚める。周りも自分の姿も気にする余裕などないままに彼女は目覚めるのだ。自らの姿を確認する暇もない。
(いや。それよりも……この光景は一体何? 人は?) 
 人。生きている、人間。
 すぐに連想されてくる言葉の不吉さに眉をひそめつつ、エルは足を踏み出した。
 歩き出してすぐ、炎に温度を感じることもなくエルはかつて住んでいた家の前にたどり着いた。さして時間はかからない。歩き出して地面が進んだかのような錯覚に陥ったが、それも夢の中だからだろうと自分を落ち着ける。
 炎はそれまでに壁となって身体を包み込むことがあったが、彼女の身体を焼くことはない。夢とは分かっていたが、現実と違うということを認識できる出来事がなければ信じられないほどに押し寄せてくる。
(そうだ。私が、住んでいた街。私が住んでいた、家)
 十年前。地図上から消えた街。
 人口は三百人ほどだったはずだが、一夜にして焼き尽くされた、惨劇の場所。原因は遂に分かることなく近年最大の悲劇となった、今は歴史の教科書に載るだけの街。文字になった街。
(生き残ったのは、エルとエイクだけ……そうだ)
 自分がまさに崩壊しようとしている街の夢を見ていたのだと十年間経ってようやく気づいた。その事にエルは愕然とする。少しも疑問に思わなかったこともそうだが、その理由が同時に分かった気がしたからだ。
(エイクが、引き起こした?)
 唐突に浮かぶ思考。今朝、エイクに感じた恐怖。過去と未来が繋がる時、エルの身体に刻み込まれたそれが顔を出す。体力の低下は精神の弱さに繋がり、彼女を震わせる。
「そんなわけあるか。なんでエイクが」
 語尾は消え去り、エルは項垂れる。込み上げてくる考えに反論が浮かばない。判断材料が乏しいこともある。
 それ以上にこの夢が現実味を帯び、エルに押し寄せてくる。
(逃げるか、どうするか)
 エルが生まれ育った家は屋根が吹き飛び、外壁も炎に包まれていた。それでも家の形を保ち、少しでも立とうとしているが、運命は決まっている。見つめることで押し留められるはずもなく、今にもエルへと降り注ごうとしていた。
 思考には一瞬で決着がつく。
「行かないと分からないか」
 そこだけ通常時と変わらない扉。そのノブを掴み、一気に引く。同時に噴出してくる炎もエルを止めることはなく、彼女は奥へと進んでいった。
 床を踏みしめるときしむ音が鳴る。記憶の中に微かに残る物と同じ懐かしい音。一歩一歩進むたびに涙腺が緩んでいく。炎や煙による乾きによるものではない。
(帰ってきた。私は、ここに)
 夢で何度も見ていた場所。一瞬だけ、エイクの姿越しに見ていた世界。たとえ幸せだった日々が崩壊する時だとしても、懐かしさは変わらない。こみ上げる思いが溢れていく。
「エイク――!」
 その時だった。炎を突き破るような、強い悲鳴が聞こえたのは。
 声が聞こえた瞬間、エルは走り出していた。誰の声なのか考えるまでもない。
 生まれてから今まで散々聞いてきた声だ。間違うはずもない。
(エイク――!)
 内心で叫ぶ。同じ声で。
 炎に包まれながらも熱さは感じない。次々と炎が噴出して壁を、床を破壊していくと言うのに、彼女の体までも貫くことはない。その違和感に汚物がこみ上げてくるが、強引に飲み下してエルは進む。
 ただ一つの場所を。
 自分とエイクがあの時、いた場所へと。
(これは夢のはず)
 自分に言い聞かせる。これは夢であり、二人がいた場所へと戻ったからといって何が変わるということはない。むしろエイクが暴走した光景を見ることで更に精神を疲弊させるかもしれない。そうなれば、また体調が崩れるという螺旋を描き続けるだろう。
 それならば、夢が目覚めるまで待つべきだった。
「エイク」
 それでも、エルは止まらない。考えるのはエイクのこと。今は自分の後ろをおどおどとついてくるが、この惨劇の前までは活発に動き回っていたのだ。それが豹変した、破滅の時。
 十年前のこの日。
 いつもと見え方が違う夢。それは、何か意味があるのかもしれないという思いをエルに抱かせた。自分がここにいるのに、いとおしいエイクに襲われている『自分』がいるのだ。
(止められるなら止めてやる!)
 決意を込め、飛ぶように前に進んでいく。足が床を踏み抜いても、炎が身体を包んでも、進み続ける。失われた過去を目指して。
 だが、ついに二人がいる部屋の前にたどり着いたその時、エルの身体に急制動がかかる。
「――え?」
 飛んできた赤い液体――血が服の前を染めた。


 ◇ ◆ ◇


「――ル? エルー」
 肩を揺さぶられているのだと気づくまでに多少時間をかけて、エルはまどろみから覚醒した。やけに頭が重く感じ、何度か振ってから視線を肩に手を置いている人物にやる。藍色に染まった背中までの髪の毛を頭の上で束ねた少女。瞳の色も黒からは少し藍色に寄っている。笑顔を見ていつもエルはどきりとし、頬を染めていたが今は不安で占められている。
(なんの? ……決まってるか)
 不安の元凶を自覚すると自然と笑みが洩れる。友達に心配をかけたくないと、エルは背伸びをして唸るところを見せていつも通りを示した。
「エル。顔青いよ? 大丈夫?」
「うん。夢見が悪かっただけ」
 それは事実であったから淀みなく答えられる。しかし、次の言葉は出ない。
「どんな夢だったの?」
「ん……それは良く覚えてないんだー」
 事実には変わりない。彼女の脳裏に張り付いていた映像は、夢から目覚めると同時に頭の外へと消えていった。あるいは少女の手を伝って逃げたか。
「シーナ。次の講義って何だっけ?」
「次? 次は古代語だね」
 ちょうど講師が来たことで、少女――シーナは手を振って自分の席に戻る。エルも自分の鞄から教科書を取り出して準備を終えた。
 ふと、視線をめぐらせる。忘れてしまったが、この場所とは異質な世界を夢見ていたとは分かっていた。だからこそ、自分が今いる世界を確認しておきたかったのだ。あくまで夢は夢であり、現実を犯すことはないのだと。
 その時、視線が交差する。
 ランスローの強い光を持った瞳が真正面からエルを見ている。偶然合ったのではない、明らかに合わせる意思を持つ瞳。
 視線を外せないエルに向けて、ランスローは口だけを動かした。一つ一つの単語を正確に伝える。読唇術などエルは使えなかったが、日常会話を超えることはない申し出であり、間違えることはない。
『ほうかご すこし じかん くれないか?』
 嫌だと首を横に振り、エルはようやく教科書に視線を落とした。講師と本から流れ込んでくる情報の洪水にランスローの顔は脳裏から追い出される。
 そのまま滞りなく講義は進む。夢見は悪かったが睡眠をとったことが功を奏したのか体調自体は安定し、ランスローが目立つことも気にならなくなっていた。開かれた視界。その中に、ランスローの姿は、ない。
 やがて全ての講義が終わり、エルは背筋を真上に伸ばす。右腕を伸ばし、左手を二の腕に添えながら唸ると身体に巣食った倦怠感が空気中ににじみ出ていくような錯覚に陥る。ひとしきり、気だるさを出し切ってからエルは立ち上がった。
「ねー、エル」
 鞄を持ち、帰ろうとするエルの背後からシーナが声をかけた。声色は疑問を投げかけていて、その理由は目の前に立っている。
「時間、くれないか?」
「ランスロー」
 疑問と断絶の響きが交錯する。直後に聴こえる黄色い悲鳴。
 自分に向かってくる視線だと分かっていても周囲を見回してしまう。声を上げたのはシーナだ。美男子の転校生が、いきなり同じ教室の女子に声をかけるのだ。国を守るための騎士団予備軍とは言え、若者に変わりない。浮ついた話に舞い上がってしまうのは仕方がないこと。
(当事者じゃなければ、自分も楽しむんだろうけどね)
 周囲の男女が好奇の視線を向けてくるのが分かっていたエルは、無言のままランスローの横を通り過ぎた。手を伸ばして止めてくるかと予想していたが、すんなりとエルは廊下へと出る。
「エールー」
 エルは振り向かないまま身構えたが、ランスローではないと気づいて少しだけ気を緩めた。警戒から要・警戒に落ちたくらいだが。
 アレンは少しだけ自分に向けられたエルの顔を見て、満足げに頷きつつ近寄った。
「これからエイクと帰るんだろ? 二人に飯おごってやるから帰ろうぜ、一緒に」
「なんであんたにおごられないといけないのよ」
「いいじゃん。俺らの仲じゃないか」
 うるさい、と開きかけた口は途中で閉じられる。こうして放課後にからんでくるのはアレンのいつものやり方だった。エル自身は理由を知らないが、同じ教室で学び始めてから気に入られたらしく、たびたび誘いはあった。それでも、一度断れば諦める程度だった。
 今回に限ってもう一つ踏み込んでくるのは、ランスローの存在だろう。
「とにかく。今日はそんな気分じゃないの」
「そういや辛そうだったもんな。まだ体調戻りきらないか」
「まぁ、ね」
 廊下に並ぶ窓から見える景色。そこに、見慣れた人影とそうではない物を見つけて、エルは足を止めた。一人はエイク。三人は見覚えはあったが名前が分からない。立っている三つの人影はいずれもエイクの姿を覆い隠すほどの背丈だ。それでもエルがエイクを確認できたのは、上から見下ろしている状態にあるからで、囲まれている当人には脅威以外の何物でもないだろう。窓枠に手を置いて身を乗り出すエルを落ちないように支えつつ、アレンは目を凝らす。
「あー、あいつら。二つ隣のゲルト達じゃん」
「誰よ」
 さりげなく自分を支えていた手を打ち付けて身体を廊下に戻すエル。痛打された腕を抑えながら、アレンは歩きながら説明を始めた。先に進むエルに届くように。
「性格に少し難ある三人組だな。俺も残り二人は名前知らないが、実力は結構あるぜ。俺もちょっとやばかったし」
「戦ったことあったの?」
「体技の講義でな」
 エルは自分の知識を歩きながら探っていたが、ゲルトという名前を見つけることができずため息をつく。元々興味ある物や人、同じ教室で切磋琢磨する仲間しか覚える気がないだけに、他の教室は別の世界だった。
 頭の中にない情報を検索しても仕方がない、とエルは足に意識を集中し、床をかむように踏み出しながら進む。感覚的なことかもしれないが、多少疾走速度が上がっていた。校舎を出て校庭を走り抜ける。
 結果、アレンよりも数歩早くその場所にたどり着く。
 校庭でエイクを取り囲む三人を見た時、エルの視界が赤く染まった。
 燃え盛る炎。
 吹き飛ぶ血。
 そして、迫る圧迫感。
「うわぁあああああああ!」
 自分を締め付ける衝動に耐え切れず叫ぶエル。その咆哮は男達を振り向かせるには十分だった。しかし、その中の一人へと接近する動きは誰も捕らえきれない。後ろを走っていたアレンでさえも。
 突如、彼女の暴走が始まった。
「な!?」
 一瞬で懐にもぐりこまれた男は頬を貫いた痛みを感じるとともに視界が入れ替わり、大地と空を一度瞳に映してから地面に叩きつけられた。意識はエルの拳が顔面を貫いた時からすでにない。エルは動きを止めずに二人目に向かう。不意打ちとはならず反応を見せたが、捕まえようと伸ばされた手を更に前に出ることでかわして、がら空きの腹部に右拳を叩き込む。大砲が打ち込まれたような爆音とともに踏みしめた大地と男の腹が陥没し、吐き出された血をかいくぐりながら最後の一人へと疾走する。
「砕け散れ!」
 渾身の力を込めた拳。だが、最後の一人は片腕でエルの拳を受け止めていた。衝撃で後ろに下がるもののダメージは見えない。そこで初めて、エルはその場に足を止めた。右拳を突き出したまま相手の出方を待つ。
「……噂どおりいい女だな、エル」
 アレンがゲルトと呼ばれていた男だと、エルは気づく。しかし、誰であろうと放つ言葉は一つだ。
「気安く名前を呼ばないで」
 言葉を返しながら力を溜める。必ず殺す一撃を叩き込むために。息をゆっくりと吸い、吐く。呼吸法で身体の中の力を拳一点へ集約していく。
(相手を殺さないと、エイクは守れない!)
 自らの思考に疑問を挟むことはない。支配するのは全てエイクの顔。今まで彼女が見てきた様々な顔のエイクが蘇る。
 ゲルトの傍で震えるエイクを視界の端に捉え、身体中から殺気をほとばしらせた。呼応するようにゲルトの顔色が青ざめていく。
 一瞬即発の空気を殺したのは、冷え切った言葉。
「ちょっと待った」
 右肩に置かれる手。振り払おうとしたエルだったが、言葉の響きとは裏腹に広がる温もりが、彼女の頭を逆に冷やしていた。エルと相手を遮るように手の主、アレンは前に乗り出す。簡単に両者の視線が交錯しないような、絶妙の立ち位置。苦もなく位置どりをしたアレンの背中が、エルには大きく見える。
(本当、侮れないわね)
 アレンの背中越しに見えるゲルトの姿。手にしているのは多重の布にくるまれた何か。エルはすぐにそれが鋭い刃物だと分かり、血が騒ぐ。しかし、今は他に事態の中心がある。
「ゲルト。お前も騎士団に入ろうとしてるなら手段は選べよな」
 嘆息も交えてエイクを取り囲んでいた最後の一人、ゲルトに呆れ声を届けるアレンだったが、途中で言葉はたたき落とされた。
「目的のためなら手段は選ばないぜ、俺はよ。ずっとそうやって手に入れてきたからなぁ。力も、女もよ」
 逆立った黒髪を指で何度もすくいながら、ゲルトは背を向けると何も起こさず去っていった。
 ゲルトの後ろ姿に殺気を送り続けていたエルがそれを霧散させたのは、エイクが身体に抱きついてきたからだった。エイクの身体は恐怖に震え、歯が鳴る音がアレンにも聞こえている。風さえも吹かず、倒れている男二人の呼吸も届かない。
 場を支配しているのは巨大な憎悪と恐怖だけだった。
「エイク?」
 根源が消えたことで風が戻ってきた。同時にうなり声を上げつつエルが倒した二人も立ち上がり、アレン含め三人の顔を眺めてからふらつきつつ去っていく。
「二度目はないよ」
 痛烈な言葉に貫かれ、二人は青ざめたまま歩を進める。今度は背中を見ずにエルはエイクを連れて校庭を逆に歩いていった。アレンは後を追おうとしたが、鋭い視線を感じて立ち止まる。エルはアレンなど初めからいなかったかのように構わず遠ざかり、やがて視界から消えた。
 エル達がいなくなって、些細な時間が過ぎる。
「そろそろ出てきたらどうだ?」
 アレンの言葉に逆らわず、校舎の側から現れたのはランスローだった。顔は自己紹介の時から変わらない端正なもの。しかし、身体から発散される気配はアレンの全身を切り刻む。
「その目だよ。目だけが、一人の戦士として輝いてる」
「戦士、は違うな」
 ランスローは声が届くぎりぎりの位置に立つ。アレンから見て五歩分。全力で踏み込めば一歩で飛び越えるだろう距離。相手も同じことを出来ると仮定してかすかな動きも見逃さないよう集中する。
「俺は、騎士だ。騎士団に入るんだからな」
「細かいな。いいじゃないか」
 会話自体は特に刺々しくはないが、一言一言にアレンは不可視のナイフを仕込んで浴びせていた。だがランスローはそのどれもを受け流し、優しく落としていく。
(なんてやつだ)
 アレンの中に芽生えた驚異に気付いているのかいないのか、ランスローは歩を進めるとアレンの横を通り過ぎていった。
「君とも、ゆっくり話さないといけないようだ」
 何を、と振り向いて尋ねようとしたアレンだったが、背中に声をかけるのが躊躇われて気を逸してしまった。
(なんなんだよ、あいつは)
 見えているのに見えない。そんな不安が心を侵食していった。



「いい? 今度ああやって囲まれたら魔術を使って倒しなさい」
「でも、僕は……」
「大丈夫。エイクは出来る子よ」
 エルの言葉にエイクは顔を赤らめて俯いた。言葉の一つ一つが、彼に力を与えていくかのように。恥ずかしさからか、足早になるエイクの後ろを微笑みながらエルは歩いていく。後姿は幼い時と変わらない。はしゃぎ回る弟の背中を注意しながら歩いていた、過去と。
(本当、変わらない)
 物思いに耽りそうになったエルは、エイクが歩みを止めたことで現実に引き戻される。視線の先には萎れた花。道路の傍で何とか伸びてきたからか、もう命が宿っているとは思えなかった。それでもエイクはその場に身をかがめ、掌をかざす。
 エイクの魔術。その、最大の事象を起こすために意識を集中していく。
 魔術を扱うに必要なのは想像力と創造力。
 必要な魔術を放つために必要な構成を構築する想像力と、魔力を身体の外に放出して構成した魔術を具現化する創造力。
 二つを持って、魔術という奇跡は起こる。
 それでも、生命を取り戻させるような類の魔術は今までは誰も生み出すことは出来なかった。
 エイクの掌に光が灯る。洩れ出る暖気。
 徐々に、頭をたれていた花が体勢を戻していく。
 光に照らされた花は凛々しく立つ姿を取り戻していた。
「上手くいって、よかった」
 エイクの安心した嘆息に合わせるように、エルは後ろからエイクを抱き締める。愛しい思いが少しでも伝わるようにと願いを込めて。
「あなただけの力よね、エイク」
「どうしたの? 姉さん」
 首に回された腕に手を掛けながら問うエイクにエルは頭を左右に振る。顔は背中にぴったりと付けることでエイクからは見えない。だからこそエルは少しだけ泣いた。
 崩れ気味の体調にランスローへの自分でも分からない不快感。よく知らない三人組にエイクが襲われかけたこと。
 かき乱されて冷えていた精神が、エイクの癒しの力を目にして暖められたのだろう。温もりについに感情が耐えられなかった。
「エイクは大丈夫よね。私が心配しすぎだね」
「……もう少し僕がしっかりすれば、姉さんも安心できるのにね」
 淋しさを滲ませて呟くエイクの身体を揺さ振るようにエルは顔を否定に動かす。
「いいのよ。私はあなたの姉だもの。たった二人の姉弟だから」
「そうだ、ね」
 ただの道の端。今、そこだけは違う空間だった。
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