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Dear My Friend

第十一話「もう、私は駄目だなって」

 スマートフォンが振動する音にあゆむは目を覚ます。カーテンが閉められた薄暗い部屋の中に、制服姿のまま横になっていた。皺になる、と慌てて体を起こすが、これからしばらくは学校に行かなくてもいいことを思い出し、胸をなで下ろす。心が落ち着いてくると、次に気になったのは振動を続けるスマートフォンだ。目覚ましでもメールでもないならば、残るは電話。誰からなのかは察しがつく。気まずさになかなか腕が伸ばせなかったが、意を決して手に取りディスプレイを見る。
『朝比奈美緒』の名前が浮かび上がるディスプレイを眺めながら、画面に映る通話ボタンを撫でて、電話に出た。

「もしもし」
『もしもし、あゆ。今日はお疲れさま』
「そっちもでしょ。どうだったの?」
『良かったよ。明日の自己採点はするけど、指定された点数はクリアしてると思う』

 朝比奈に言われてあゆむは明日も学校に行く用事があるのだと思い出す。電話を続けながら空いている手で部屋の電気をつけ、制服の皺を確認する。目立つような皺もないためにほっとして、会話を続けた。

「そうなんだ。良かった。これで、美緒も高校でバドミントンデビューだね」
『先輩達に追いつけ追い越せ、かな』

 電話の先の朝比奈の声に含まれる安堵感が伝わってくる。スポーツ推薦が決まっているためにバドミントンの練習はおろそかにできない。しかし、ある程度学力を保つことも指定され、わざわざ一般受験まで受けたのだ。あくまでスポーツ推薦は先に終えているため、一般受験は朝比奈にとってあまり関係ない。学力を参考程度に学校側が確認して、あまりに低ければ取り消すというものだ。それでも両立は大変だったというのは想像に難くない。

(ほんと、美緒は凄いよね)

 あゆむは朝比奈を天才だと思ったことはない。先輩にはそう思えるような人がいたとしても、朝比奈には一度もそういう考えを抱いたことはなかった。あゆむの目にはいつも、朝比奈が努力する姿しか映っていない。人の数倍努力して、数倍の実力を身につけているだけ。努力が実らない人間がいて、それが才能だというならば確かに才能もあるうのだろうが。

「私も今日は疲れたわ。部屋に戻ってすぐ寝ちゃってたみたい」

 時計を見ると、すでに十九時。カーテンを閉じた記憶はなかったが、誰かが入った形跡もない。記憶が飛ぶほど疲労していたかと眠る前を振り返ったが、急に遊佐の顔が思い出される。

(そっか……そりゃ、疲れるわよね)

 自分の最も醜い部分を、あまり見られたくない相手に見せてしまった。その精神的な疲労があゆむを記憶が薄れるほどの眠りに誘った。

(でも、遊佐に伝わったってことは、美緒にも伝わってるわよね)

 遊佐から朝比奈への情報伝達を考えて、あゆむは血の気が引いた。今、こうして電話している朝比奈は遊佐からすでに聞いた後なのか、前なのか。自分と普通に話しているから聞いていないのかもしれない。あるいは、すべてを知った上で普通を装って話しているのか。いくら疑っても答えは出ない。だが、朝比奈へと答えを聞くには今のあゆむには勇気が足りなかった。

「じゃあ、切るね」
『うん。そうだ、あゆ』

 会話を終えて電話を切ろうとしたあゆむを朝比奈が呼び止める。切る前に言われれば反応するしかない。気の重さを隠して、あゆむは返事をする。

「何?」
『土曜日さ、久しぶりにバドミントンしようよ』

 唐突な申し出に、あゆむは言葉を失った。
 相手にならない。時間がない。彼氏と会う。
 断るための言葉はいくつもあった。しかし、何故か言うことができずに沈黙をとってしまう。遊佐にはできた絶縁宣言が、朝比奈にはできない。
 あゆむが生み出した隙に朝比奈が鋭く切れ込む。まるでスマッシュを打ち込むように。

『私、このままあゆと離れたくないんだ。せっかくできた友達だもの。初詣から、変だったじゃない。何か悪いことしたかなって、柄にもなく不安になったりしたんだよ』

 押さえていたものを解き放つように、朝比奈はあゆむへと言葉を紡ぐ。電話口から聞こえる声には涙が混じっている。今、朝比奈が泣きながら電話をしているという事実に、あゆむもまた自然と涙腺が緩んだ。
 自分の知っている朝比奈美緒はここまで弱かったか。
 彼女に涙させているのはあゆむ自身。自分が、知らない美緒を引き出しているのか。

『私、何か悪いことした? 変な気を使わないで、言ってよ。私が悪ければ直すし、あゆが悪かったら怒るから。ただ、何も言わないで去っていくのは止めてほしい。あゆには感謝してるんだから……こっちで孤立しそうになった時にも助けてもらったし』

 それは自分の偽善からの行動だった。そう言いかけてあゆむは言葉を飲み込む。今、それを言っても朝比奈は混乱するだけだろう。一から説明するには今日は気力が持たない。

(でも、もう美緒にも隠せない)

 嫌われるとしても、自分の考えていたことをすべて見せるしかない。あゆむは大きく息を吸い、吐き出す。呼気が相手にも届いたのか朝比奈が慌てる声が届く。あゆむは心の底に残ったほんの少しの勇気を出して、呟くように言った。

「分かった。土曜日ね。バドミントン、しよう。総合体育館で九時からで、いいよね」
『あ……うん』
「じゃあ、また明日ね」

 気力の限界。あゆむは朝比奈の返事を聞く前に耳元からスマートフォンを離して通話を切る。ベッドに放り出して制服を脱ぐと皺を丁寧に伸ばしながらハンガーに掛けてから部屋着のスウェットに着替えた。頭を出してから髪の毛を追って上着の外に出し、息を吐く。ベッドの上にあるスマートフォンを一瞥し、部屋から出ていった。

 * * *

 時が過ぎて、あっという間に土曜日が来てしまった時、あゆむは体育館に来たことを後悔していた。電話口ではもう言うしかないと決めて申し出を受けたが、次の日に学校で姿を見た時にはもうその気持ちは萎んでいた。逃げの気持ちは強く、自己採点が終わった後にはすぐに教室を出て、朝比奈に声をかけられる前に校舎からも離れていたほど。
 結局、その日からメールや電話のやりとりはないままで土曜日を迎えた。連絡が何もないのだから、別に足を運ばなくてもいいと思ったこともあった。しかし、ここで足を運ばなければ必ず後悔するという思いもあった。天秤の秤にのった二つの思いは揺れ動き、最後には行くことを選択したのだ。

「呆れた。早すぎ」

 総合体育館の敷地に入ったところで、あゆむは体育館の入り口に立つ人影に気づいた。ダッフルコートにラケットバッグを背負い、壁に体をもたれかけることもなく、しっかりと立っている女子が一人。九時開場の体育館にすぐに入って準備をしてやろうという気合いが滲み出ている。

「ほんと、美緒って」

 その後、どんな言葉を続けようとしたのか自分でも分からなかった。結局、何も言わないままにあゆむは美緒へと近づいていく。表情も目視できる距離まで近づくと、美緒は緊張に顔をこわばらせていた。
 それでもあゆむが話しかけた時には動揺を押さえて、いつもの調子で言葉を返す。

「ごめんね、待った?」
「うん。ちょっとね」

 まだ入り口が開くまで少し時間があるため、あゆむは美緒の隣に立った。入り口は背にして、自分がつけてきた足跡を眺める。そうしていると、自然と心が落ち着いてきた。それまで朝比奈に会うことに気まずさを感じていたにも関わらず、隣に立つ今は消えていた。なんのためにここにいるのかを思い出す。

(そう。私はきっと、決着をつけに来たんだ)

 自分が抱え込んでいる思いを朝比奈に伝える。抱え込んだままで離れてしまっては後悔すると。朝比奈も言っていた、このまま離れたくないという言葉。自分の醜い部分をさらけ出して呆れられたならそれでいい。それでも、曖昧にごまかしたままで離れて、友達として消滅するのはあゆむのほうも耐えきれない。

「美緒」
「うん」

 立った二人。
 体育館が空くまでの少しの時間。その中であゆむは自分の中に巣くう醜い思いを吐き出していた。遊佐に伝えたものとほぼ同じ内容。そして、それよりも更に強い嫉妬の思いを。
 遊佐にも話したことを再度口にするのは胸が苦しく、痛む。しかし、最初の時ほど取り乱しも、泣きもしなかった。痛みに心が慣れたのか。あるいは朝だから十分体力にも心にも余裕があったのか。どんな理由があるにせよ、あゆむは朝比奈へと淡々と自分の中の真実を語っていく。

「美緒はどうかは知らないけど、私は、美緒のことを親友だと思ってたんだよ。本当に。でも、それは違うって思っちゃったんだ」

 バドミントンにのめり込んでいく結果、周囲から孤立していこうとする朝比奈を何とか支えようと思ったこと。その中で、自分だけが朝比奈を理解して上げられると思うようになっていったこと。バドミントンが終わり、それでも自分を朝比奈が頼ってきていたが、徐々に遊佐にその地位を奪われていくことに嫉妬していたこと。
 そこで自覚した、朝比奈への思い。友情というよりも、どこか保護欲というような、対等な関係ではなく相手を下に見ているかのような感覚に、あゆむは浅ましさを感じたのだ。
 更に、あゆむは言い募る。遊佐にも言わなかったこと。

「どんどん遊佐と一緒に先に進んじゃって、遊佐は遊佐で離れても平気だとか言うし。なにその心で通じあってるって感じ。私なんて、勇とようやく一緒の高校に行けそうだってなって、凄く嬉しかったのに。二人はお互い好きだってだけで十分みたいなんだもの」

 自分は勇といることを目指して勉強を続けてきた。もっと良い進学校に行く選択肢も提示されたのに、自分の目指せるレベルよりも少し低い高校を選んだ。友達から離れるということや、親元から離れないと通えないと言った理由は二の次で、勇と一緒にいるために。変わるのなら、一緒に変わりたい。自分の見ていない場所で変わってほしくないと。
 しかし、遊佐と朝比奈は互いが一緒にいることよりも、高めあうことを選んだ。その先に二人が交わる道があると信じて疑っていないのだ。
 変わってしまうことに恐怖を感じていない。

「二人を見てたら、自分がずっと小さくて、情けない存在だなーって思ったんだ。初詣の時にさ、遊佐が美緒って言って、美緒が修平って言ったじゃない。その時、私、凄く悔しかった。お前が、名前で呼ぶなって」
「悔しくなった、んだ」

 今の話の流れから出る言葉としては適切のように思えたのか、それまで黙って聞いていた朝比奈は聞き返す。それに頷いて、あゆむは先を続けた。

「悔しくなったんだよ。二人とも、とても自然に呼びあっててさ。とても、暖かくて……そこは私の場所だったはずなのに。美緒も、もう私の知ってる美緒と違ってて。そういうの見せつけられたら、悲しくて。もう、私は駄目だなって」

 二人を見ることで映し出される自分。その姿があまりに見窄らしく、醜く見えた。お互いを信じて、真っ直ぐ前を向いているからこそ到達できる場所。
 もう自分は二人の背中を見ることしかできないのだと悟ってしまった。隣で朝比奈が変わっていく様を見ることなく、遠くから眺めるしかなくなったのだと。

「駄目だと分かって。二人から離れて、受験に集中して。全部終わったあとで、遊佐に桃華堂で捕まっちゃって。だいたい同じようなこと話したんだ。で、逃げて。帰ってからは美緒に電話もらったってわけ」

 朝比奈は「そっか」と小さく呟いて息を吐いた後に静かに尋ねる。

「修平は、何か言ってた?」
「何も言ってなかったよ」
「そうだろうね」

 やっぱり分かっている。朝比奈ならば、今の話を告げられた遊佐は何も話さなかったと予想できただろう。自分が祝福し、嫉妬した二人の間の空気。雪に反射する太陽光のように眩しく思えて視線は前を向いたままだ。

「私が言うのもなんだけど。あゆは考えすぎなんだろうね」
「確かに。美緒も考えすぎよね」
「まあ、ね」

 苦笑した朝比奈はすぐに話題を切り替えて、あゆむのほうを見て言う。

「あゆがどう思ってくれていたのか、私には伝わったよ。なら、あとはどうするかだけど」
「うん」

 あゆむは目を閉じて言葉を待つ。

(死刑を待つ囚人みたい)

 実際に見たことも経験したこともない例を出して、自然と緊張をほぐそうとしていた。それでも押さえきれない緊張が心臓を、体を震わせる。

「私と試合して勝ったら許してあげる」
「……は?」

 目を開けて朝比奈を見ると、表情は笑っていた。不適に、自分の言ったことに全く疑問を差し挟まないように。だがあゆむにとっては疑問点だらけであり、問いかける。

「ちょ、ちょっと。試合って……私が美緒に勝てるわけ」
「そう。だから、ハンデをつけるわ。マイナス15対15からどう? 21点ゲームで。あゆは六点取ったら勝つの」
「どこかで、聞いたようなハンデね」
「でしょ。でもよいハンデだと思うけどな」

 朝比奈の表情にあゆむは何も言えない。試合ですべてを決めるということも呆気にとられたが、ハンデはいくら何でも無謀ではないかと思える。
 あゆむは六点取れば勝つ。現役時代、朝比奈に勝つことはなかったあゆむだが、十点以上は確実に取っていた。それが今回は六点。

(もしかして、美緒。わざと――)
「そうそう。もし、わざと負けるつもりだとか思ってたら、すぐそんな考え止めた方がいいよ」

 ちょうど思った瞬間に言われたことで頭を覗かれたかと怖くなる。だが、朝比奈はあくまで自分のペースで話しているだけだ。
 朝比奈の顔に意地悪い笑みが浮かぶ。

「今の私なら、たぶんあゆをラブゲームに押さえられるから」

 それはおごりではなく自信。受験勉強で落ちているであろうあゆむの実力。そして、受験勉強と平行して練習してきた朝比奈の実力。
 その差をはっきりと自覚している。

「やらないっていうなら、もう終わりね。私も昨日までのような感じで離れるのは嫌だったけど。今は理由が分かったし。仕方がないかなって思――」
「分かったわ。やるわよ」

 朝比奈の言葉を遮って呟くあゆむ。自分の中にある怖さを精一杯隠して、真正面から見る。

「そこまでいうなら、絶対勝ってやるわよ」
「その意気、その意気」

 ちょうど会話が落ち着いたところで、体育館の所員が入り口の扉を開ける。

 あゆむの中学最後のバドミントンが、同時に幕を開けた。
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