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Dear My Friend

第十話 「さよなら」

 からん、と入り口につけてある鈴が鳴り、あゆむの耳朶を打つ。店員に一人であることを告げて、奥にある席に座るとブレンドコーヒーを頼んだ。いつも食べていたイチゴパフェも冬場であることと、気分的に食べたくないということで今回は止めておく。今後も何度も食べる機会はあるだろうと心の中で思って、自然と頬が緩んだ。

(手応え……あったな)

 いうなればバドミントンでスマッシュを打ち込んだ時。それも、力とタイミングが絶妙に合わさって、自分でも驚くほどの高い音と一緒にコートへ叩きこまれた時のような、何度も打ったことがないようなベストショット。記憶の中の感覚と同等の手応えを、あゆむは感じていた。
 受験会場である高校からの帰り道。あゆむは友達と別れを告げて桃華堂に来ていた。二月の半ば。長くいろいろと苦しかった受験勉強の成果を出す日――受験当日。
 実際に受験する高校の教室へと足を運び、五教科のテストに挑んだ。
 高校に入れば使うかもしれない教室の机は、中学と大差はない。多少デザインが違う程度でも、生徒が使う机という意味ではなにも変わらない。
 多少感じていたプレッシャーもこの時点で消えて、あゆむはほどよい緊張感を保ったままテストを終えたのだった。
 各教科での手応えを脳内で再生している間にコーヒーが運ばれてくる。スティックシュガーを一つとクリームを少々。コーヒーの波打つ表面に円を描くように入れてから、スプーンでかき混ぜる。黒かったコーヒーに白が混ざり、あゆむ好みの色に変化する。スプーンを置いてからゆっくりと口元へカップを運び、一口飲んだ。

(あとは一ヶ月後を待つだけ、か)

 新年が明けたあとからずっと張り詰めてきた。授業が終わった休み時間も最低限やること以外は英単語帳を開き、学校が終わればすぐさま下校。勇と会うことさえ自分の中で禁じて、目の前の問題集を解くことだけに意識を注ぎ込んできた。逃げるように、という表現はぴったりだったが浮かんでくるたびに問題で脳を満たして押し出した。
 やれるだけのことをやり、本番も終わった。
 今日は何もしないで明日、自己採点をする予定だ。あゆむ達にはもう登校する義務はなく、少し早い春休みが始まる。卒業式は三月一日。合格発表はその一週間後。合格すれば問題ないが、落ちれば延長戦で慌ただしくなる。教師達にとっては卒業した後もまだ山場は続く。
 それでも、自分は大丈夫だという自信。
 油断なく勉強は続けるとしても、心の余裕を持って迎えられそうだった。
 また一口コーヒーを飲み、あゆむはほっと息をつく。周りに座っている客もまばらで、静かな一時を満喫する。目を閉じて体の力を抜き、何も考えずにただ息を吸う。
 そこに、また扉が開く音がして、一直線に自分に向けて足音が近づいてきた。重たい足音。聞き覚えがあるとは言いがたいが、あゆむには誰がきたのか聞き分けられた気がした。実際には、自分の傍に来る人間など予想がついたからだが。
 逃げることも考えたが、体は動かなかった。
 自分も、吐きだしてしまいたかったのかもしれないとあゆむは思う。

「宮越」

 やはり、と心の中で頷く。聞き覚えのある足音に聞き覚えのある声。当てはまる一人の男。あゆむはゆっくりと目を開けて、相手が予想通りの人物だと確認した上で口を開いた。

「久しぶりね、遊佐」
「久しぶりね、じゃねぇよ」

 遊佐は顔にあからさまに不快そうな表情を浮かべて、あゆむの向かいに腰を下ろした。水を持ってきた店員に紅茶を注文してその場から離れさせると、すぐに体を乗り出して宮越の顔をまっすぐに見ながら言った。

「あからさまに俺と美緒を無視してたろ。無視っつーか、避けてたろ」
「ここに私がいること、どうして分かったの?」
「お前の友達に聞いたんだよ……って、今はそんなこと」
「あ、そ」

 あゆむは心に流れるさざ波を何とか穏やかに留める。時が経ったことで、今は罪悪感のほうが強い。長らく朝比奈と遊佐を避けていたことによるものが。避けることにした当時、一月の初詣の日から比べたら心の中は落ち着いたものだった。

「あ、そってなんだよ。こっちはかなり心配してたんだぞ。何かあったんじゃないかってよ」
「何かって何?」
「俺らとカラオケ行った後からだったから……あの彼氏となんかあったのかってさ。俺らのせいで」

 遊佐の語気が徐々にしぼんでいく。最初はおそらく痴話喧嘩のカップルのように周りに映っていただろう。今は痴話喧嘩が落ち着いて彼氏のほうが落ち込んでいるというところか。脳内で周りの反応を想像してあゆむは頬が緩む。

(そっか。そんな変な誤解されてたんだ……ある意味正解だけど、やっぱり不正解)

 自分が単に嫌になったから離れたというのに、朝比奈と遊佐は自分達が原因であゆむに迷惑をかけたと思っている。ある意味、二人のせいではあるとあゆむは考えてからすぐに否定する。

「遊佐。別にあんた達のせいじゃないわよ。私が嫌になって、離れただけだから」
「嫌になったって、俺らのことか?」
「自分のこと」

 遊佐はあゆむの言っていることの意味が分からず困惑する。あゆむはそんな遊佐の様子を眺めながら、素直に説明するかどうか悩む。今までの経緯を振り返れば言った方がいいのかどうなのか。
 初詣のカラオケの日から、あゆむは朝比奈と遊佐から完全に距離を置いた。二人に勉強について誘われても丁寧に断り、二人を見かければすぐに離れる。最初は自然に行っていたが、そんなやり方はすぐに通じなくなって、やがて朝比奈にメールで問いかけられた。

『メールでごめんね。あゆ、最近、私と遊佐を避けてない? 何かしたんだったら謝るよ』

 もう名前で呼びあっているにも関わらず、メールでは『遊佐』と呼んでいる。何を気遣っているのかよく分からない朝比奈のメールに、あゆむは返信をしなかった。それが決定打になって、二人は何度かあゆむを捕まえて話をしようと試みてきたようだった。授業の合間の休憩時間。昼食の時間や掃除の後。事あるごとに別のクラスからやってくる朝比奈と遊佐を常に上手くかわして受験当日となったわけだが、終わった後の心の隙を突かれて、遊佐に捕まっている。

(別に……もういいのかな)

 ここ一ヶ月の間で自分の心の整理はつけている。
 どうしてカラオケボックスで泣いてしまったのか。どうして朝比奈と遊佐を見ているのが辛くなっていったのか。
 答えはシンプルだ。いろいろな要素を加えて複雑にしてしまいがちだけれど、簡単に説明できるのだ。
 一ヶ月間の戦いの降伏宣言を、開始した。

「ねえ、遊佐って美緒のこと好きよね?」
「……は?」

 言われるとは思ってもみない言葉を言われて、遊佐は困惑しているようにあゆむには見える。実際、困っているに違いない。その答えは、少なくとも部活を完全に引退した八月の時から確認する必要などない事柄だったから。

「なあ、話逸らすなよ」
「逸らしてないわよ。遊佐は美緒が好きなんでしょ」
「そりゃ」

 遊佐は口を開いて言いかけて、止まる。顔にはこのまま言ってしまってもいいのかという葛藤が見える。照れなのか顔を赤くし、体も小刻みに震えている。息を何度か吸い、吐いてから意を決して遊佐はまた口を開いた。

「す――」
「お待たせしました」

 横からの声に硬直した遊佐の代わりに、あゆむは遊佐の前へと紅茶を置くように店員に示す。ごゆっくり、と去っていく女性店員の顔はあゆむ達二人へと興味津々といったところだった。タイミングを外された形になった遊佐は、乗り出し気味の体を正し、何度か咳払いをしてから紅茶を口に含んだ。

「落ち着いた?」
「ああ……まあな」
「さっきの店員さん、勘違いしてたと思うよ?」
「何がだよ」

 仏頂面をしたまま尋ねる遊佐に、あゆむはあっさりと答えた。

「これから女の子に告白する男子」
「――ぅえっほ!?」

 含んでいた紅茶を吐き出さないように全力を尽くしたのか、遊佐は体を真横に向けて、口に右手を持っていて咳込んだ。飲んだものを出すという惨事にはならなかったが、ダメージが大きかったのか、しばらくの間、咳込みは止まらなかった。
 何度目かの咳の後で、一度、思い切り大きく咳をしてから遊佐は深く息を吐いた。

「お前、なんてこと言うんだ」
「ごめんね」

 あっさりと謝ってあゆむはまたコーヒーを飲んだ。遊佐と会話しているうちに少し冷めたコーヒーは砂糖やミルクを入れているにも関わらず、苦みが増していた。追加でミルクを入れようと手を伸ばしたところで、遊佐に手首を捕まれた。力強い掌に痛みを覚えてあゆむは顔をしかめる。

「痛い、よ」
「すまん。だけど、逃げないで答えろよ。何で避けるのかさ」
「痛いから」
「いくらでも謝るし、話すなら、この手を離す」

 俯いていた視線を上げると、真剣な表情をした遊佐がいる。真面目に、あゆむが何を悩んでいるのかを聞こうとしている。視線をわずかに周りに逸らすと少ない客がちらちらと自分達の方を見ているのが分かった。カップル同士の修羅場に見えているのかもしれない。居心地が悪くても、遊佐の手を振り払う気は起きなかった。

(遊佐の手か……)

 大きく、熱が伝わってくる掌。大半の障害から守ってくれそうに見える掌。
 自分の手首を包み込む大きな手。
 この手が、朝比奈の腕を取っているのだ。

(――っ)

 朝比奈のことを考えた瞬間、あゆむは空いている手で遊佐の手を掴んでいた。精一杯の力を込めると相手から外したのか、あっさりと手が離れる。思考が自分のしたことに追いついて視線を移すと、遊佐が呆気に取られた顔をしていた。問いつめていた側にも関わらず、遊佐は次の言葉を言い淀んでいるようだった。
 だからこそ、あゆむのほうから口を開く。
 ほんの少しの気まずさを堪えればこの場が終わるのなら、終わらせてしまえばいい。

「私はね、美緒のことが好きなのよ」

 あゆむの口から発せられた言葉の意味を、遊佐は掴みかねているのか眉をひそめる。

「また、今更なこと」
「そう。今更なのよ。今更……でも。疑った」

 あゆむは自嘲気味に笑って、コーヒーの残りを飲み干した。最後の苦みが口の中、胃の中へと流れ込んでいく。心地よさを捨てた痛みが、あゆむの背中を押して、遊佐に伝える。
 あゆむの中の思いを。

「私は、美緒が好きだったから。遊佐に取られたくなかった。好きだから、ずっと私を頼りにしてほしかったのよ」

 冷静になろうと努めて、静かに言葉を紡ぐ。それでも言葉は震え、内からこみ上げる自分への嫌悪感に揺さぶられる。

「美緒の一番の友達だって、親友だって、驕ってた。バドミントンしか取り柄がないような美緒を守って、彼女をただの女の子にしてあげないとって思ってた。でもそれって、変じゃない。友達って言うより……変じゃないの。上手く言えないけどさ。そう考えたら、美緒を本当に好きなのかって疑ったの」

 友達として好きなのか、ただ自分を頼ってきてくれる女の子を見過ごせなかったのか。自分が友達関係だと思っていたものが実は異なるもので、どこかで朝比奈を下に見て優越感を抱いていたのか。
 朝比奈との間にあると思っていた友情が、そんな歪んだものだったのか。
 考えれば考えるほど、悪い方向に考えが落ちていく。二人を視界に入れてしまえば更に増幅される。
 だから、あゆむは逃げた。 

「あんたが、どんどん美緒を女の子にしていった。明るくなったし、勉強も頑張った。初詣の時なんて、凄くしおらしかったしね。何あれ。あんな美緒見たことなかった。初対面の相手に失礼な遊佐をしかるくらい平気でしそうだったのに。それでとどめが美緒って呼び捨てにしてたのを聞いた時よ。遊佐の名前を美緒が呼び捨てしてるし。私の知らない二人。高校から離れて、もっと私の知らない美緒になる……。美緒の隣は私の場所だった。それを、掠め取られたって思った時の気持ち……遊佐に分かるはずないよね」

 語気を強めて八つ当たりと分かっていても言ってしまう。思ったことを好き勝手にしゃべって自分でもよく分からなくなっている。

「……わから、ないさ」

 涙に潤んだ視界に映る遊佐は困惑して、どう反応していいか分からないと言った顔だ。それでも何とかして答えを探そうとしているのか、視線の動きが揺らめいている。

「分からなくていいよ。だって、これは私の問題だもの。美緒と遊佐は、二人の時間を大切にして。これから、高校も違うし、会う時間は限られるんだから」
「俺らのことよりも、お前と美緒のことの方が心配なんだよ」

 遊佐の言葉にあゆむは、一瞬で頭に血が上る。熱くなり、声を荒げる自分を止めることができない。

「なんなの、それ。あんた達、付き合ってるんでしょ。なんでそんな離れても平気なの? 何もしなくても仲がいいままで行けるとか思ってるの? 学校違うとか、学年違うとか……大変なんだから!」

 思い返すのは勇とのことだった。
 彼氏彼女となってからすぐに学校が離れ、休みの日も部活があり、なんとか時間を工面してデートを重ねた。けして多いほうではなかっただろう。同じ学年でカップルができたと噂になって、一緒に下校している姿を目に留めた時には胸が苦しくなった。好きな人と一緒にいたいという思いが日に日に膨らんでいく中でも、バドミントン部で次期部長として。上級生がいなくなった後は部長として、勉強とも平行に続けてきた。
 自分が知らない間に好きな人は自分の世界を広げていき、自分の知らない人になる。久しぶりに会った時に抱く感情は愛おしさと怖さが同じくらいあった。触れあう中で毎回「この人は勇だ」と確認する作業が愛おしくも、怖い。確認した結果、変わってしまったと認めてしまう時が来るのではないかと。
 そんな苦労をこれから二人はすることになるのに、どうして何も思わないのか。苛立たしくなってあゆむは怒りのままに口を開き、言葉を発しようとした。
 それを、すんでのところで止める。

(――何を、言おうとしてたの。私)

 もう何が理由で流れているのか分からない涙を拭って、あゆむは深く息を吐いた。頭に熱がこもり、痛みが広がっていくのを感じ、ゆっくりと立ち上がる。

「具合悪くなったから、帰るね」

 鞄を持ち、席を離れても遊佐は引き留めることはなかった。あゆむもそれでいい、と心の中で思う。
 高校は変わる。二人は自分とは違って、バドミントンで有名になるに違いない。住む世界がこれから違っていくのだと。美緒への歪んだ思いもきっといつかは昇華されて、過去になって消えていくに違いない。

「さよなら、遊佐。卒業式でね」

 事実上の絶縁宣言。
 遊佐の返事を聞くこともなく、あゆむは早足で店内を通り抜け、会計をすませて出た。空は暗く、これから雪がまた降りそうな天気。自分の心の中を表しているようで、気分も重くなる。

(でも、もういいんだ。もう、美緒とも、遊佐とも、会わない)

 自分の醜いところを遊佐へ突きつけた。おそらく朝比奈にも伝わるだろう。対等な関係の友情ではなく、あゆむが朝比奈を下に見ているような、いびつな関係。それも終わりだ。
 あゆむは小走りに家路を急ぐ。悔しさ、悲しさが吹き出して泣いてしまう前に家にたどり着かなければという思いに突き動かされながら。
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