Fly Up! 87

モドル | ススム | モクジ
 膝を突き、力の抜けた身体を何とか支えているような状況でも小谷は立ち上がろうとしていた。目の光は弱々しかったが、確かに光っている。まだ試合をしようとする小谷を、庄司はすぐに助け起こすことが出来なかった。だが自分を取り戻すために頭を振り、仕切りなおしてから小谷を抱きしめる。

「これ以上は危険だ」

 小谷は口を開きかけたが、すぐに俯いた。限界を分かっていないわけではなかっただろう。それでも、簡単には諦められなかった。前の試合で限界まで頑張った阿部や、今まさに勝つために死力をつくしている吉田と武。彼らに置いて行かれまいと手を伸ばしてきた。足を前に出してきた。それが、全て無駄になる。
 しかし、身体は正直に休息を欲している。これ以上は大怪我に繋がると警告し、頭でもそれを分かっている。
 だからこそ、庄司の腕の中に小谷は身を委ねた。

「こちらは棄権する」

 庄司は小谷に肩を貸し、立ち上がらせるとそのままコート外へと歩き出す。相手との握手も今の小谷には辛い。それを分かっているのか、審判も静かに試合終了をコールをするのみだった。

(これで、一敗。だがこれでいい。小谷の選手生命を、俺は止めてしまうところだった)

 試合に勝つことだけを考えて、結果的に小谷を止めるタイミングを逸した。庄司は心の中に罪悪感が広がっていくのを止められない。熱くなりすぎて引き際を分からない若いプレイヤーを抑えるのが指導者の役目。それを忘れて見入ってしまった。可能性を前にして、庄司は指導者であることを忘れようとしてたのだ。

「悪かった、小谷」

 自然と、謝罪の言葉が出た。それを聞いた小谷は俯いていた顔を少しだけ上げて、呟く。

「最後まで止めないで、ありがとうございました」

 語尾を震わせながらの言葉に庄司はそれ以上、言うのを止めた。確かに選手を潰しかけたが、逆にもっと早く止めていれば小谷のバドミントンプレイヤーとしての誇りを傷つけていただろう。
 大事になりかけたこの時だけが、小谷を止める唯一のタイミングだったのだ。

(だが、偶然だ。もっと見極めないと、な)

 そのことは、心の中にしまっておく。
 小谷の戦いは終わった。後は、二組に全てを任せる時。

「よくやったな」
「後は任せろ」

 笠井と金田が庄司達とすれ違う。次の試合へと足を踏み出した。
 瞬間、庄司の背筋に昇ったのは悪寒だった。高揚感による震えではない。間違いなく、ネガティブな感情によるもの。
 金田達の気合は身体中に満ちていて、しかし気負いしすぎずコートへと向かっている。本来ならば不安になる要素などない。負ける光景が思い浮かばない。
 だが、振り向いた庄司の目に映ったのは敗北に膝をつく二人の姿。それは武がイメージしたものと同じもの。勝負に関わりながら、中心から離れている者が見える客観的な視点から見える結果だ。

(あの、相手)

 二人の向かう先に立っている相手。橘空人と海人。
 双子はまるで合わせ鏡のように左右対称で立っていた。庄司にもどちらがどちらなのか分からない。
 背中につけている学校のゼッケンだけが判別する鍵のようにも思われる。
 それよりも庄司が気になったのは落ち着きようだった。第一ダブルスが押されている状況は滝河二中にとって分が悪いはずだ。金田と笠井に一年生をぶつけてくるのは、小谷や阿部がシングルスで勝てないはずの相手に挑むのと同じ。あくまで捨石の意味合いが強い、はず。
 しかし、二人はまるでこの展開こそ望ましいと言わんばかりに笑みまで浮かべながら雑談をしていた。やがて金田と笠井が前に立つと、不敵な笑みに変えて見上げる。

「随分余裕だな」
「楽しみでさ」

 握手をしてサーブ権を決めるじゃんけん。サーブは金田が得て、手の中で弄びながらサーブ位置に立つ。

「フィフティーンポイントスリーゲームマッチ、ラブオールプレイ!」
『お願いします!』

 審判と線審、副審に挨拶をして各々構える。金田に対するファーストレシーバーは海人。その瞬間、海人の口が小さく動く。その場で聞き取れたのは空人だけ。

【格上のはずの相手を叩き潰すのがさ】

 同感と言うように、空人は首肯した。


 ◇ ◆ ◇


「一本!」

 金田が叫び、一度ゆっくりと息を吸う。サーブを打とうとする身体が圧力に押されているような錯覚を金田は得ていた。気をしっかり持たなければシャトルを取りこぼしそうになるほどに。

(なんつープレッシャーだ、あの二人)

 ここまでくれば金田も気づいていた。滝河二中に捨て石などいない。誰もがこちらを叩き潰すために動いているのだ。そして自分達の相手は間違いなく今大会最強のダブルスだと。

(予定は狂ったが、望むところだ)

 一年ということで全くノーマーク。伝わってくる気配だけでも只者ではない。だからこそ、金田も一気に集中してシャトルを放った。
 瞬間、シャトルは金田の胸元へと弾き返されていた。
 全く反応できず、ぶつかった痛みが走ると同時にシャトルがコートへと落ちていく。

「なっ……」

 自然と口から驚愕の声が漏れていた。自分が何をされたのか分からない。目は確かにシャトルの動きを追っていた。しかし、事実を認識したのは全てが終わってから。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」

 呆然とたたずむ金田の代わりに笠井がシャトルを拾い、相手に返す。そのまま金田の肩に手を置いて軽く揺さぶった。

「しっかりしろ。まだ始めだ」
「俺、何された?」

 呆けたように尋ねる金田。それは戦意喪失というよりも、単純に理解できなかった事実への疑問。集中して追っていたはずの目から瞬間移動したかのように消えたシャトルの行方に対しての、疑問。

「難しいことは何も。単純にサーブをプッシュされただけさ」

 時間もほとんど無い状況でそれだけ伝えると、笠井は自分の位置に戻る。金田は納得がいかないまま構え、相手のサーブに備える。

(プッシュされただけ? なら、その速さが尋常じゃなかったのか? 今までどんな速いプッシュも反応は出来たはずなのに)

 反応できなかったという事実。そこから思考を切り替える前に放たれたシャトルを、金田は不用意に上げてしまう。しまったと思った瞬間にようやく試合への集中が戻り、サイドバイサイドでシャトルを迎えうつ。
 放たれたスマッシュはしかし、さほど威力があるものではなかった。金田達が見てきた中でも速さは中くらい。けして脅威なものではない。金田は難なくヘアピンで前にシャトルを落とし――

 自分の左側にシャトルが落ちていた。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」
(え……)

 またしてもシャトルを見失った。
 おそらくまたプッシュを打たれたのだろう。ネットの上ぎりぎりを通っていたはずのシャトルをプッシュしてくる技量にも驚いていたが、何よりも返ってきたシャトルを認識出来ないことが問題だった。

(どういう、ことだ?)

 頭の中に違和感がある。先ほどと今と、何かが微妙に異なる。それが何なのか金田はまだ掴めない。

「気にするな、金田。まだ一点だ」
「ああ……お前からは、どう見えた?」
「単純にプッシュさ。ただ、前に来るのが異常に速い」

 前に来る……ネット前につめる速度が自分の想定の外だから認識できないのかと金田はいぶかしむ。
 確かに、今まで受けたことがない速さに対応するのは至難の技ではない。技量によっては試合中に絶対到達できない高み。
 それを考えれば一撃目が全く見えず、二撃目には少しだけ目で追うことが出来た。順応力はある。けして対応できないわけじゃない。

「序盤、捨てるかもしれないがいいか」
「頼りにしてるよ」

 既にサーブの姿勢を取っている海人に促されるように、笠井は自分の位置へと戻る。負ける気はなかったが想定以上が更に重なった今は、笠井の言葉が心強かった。市内とはいえトップにいるダブルス。けして平坦な道ではなかった。辛い経験が生きている。

(前に詰めるスピードが異常に速い。きっと俺達が経験したことがないようなもんだ。そのスピードに乗ってラケットを振るから更にシャトルも威力を増す……原理は分かっても対応するには時間がかかる)

 金田の真意を理解したのだろう。ショートサービスで放たれたシャトルをヘアピンで前に浮かせた。サーバーから最も遠い左端を狙って。
 そこで金田も見た。一瞬前までいなかったはずの海人がラケットを振りかぶった状態で移動し、そのままシャトルを叩き落すところを。
 シャトルは対角線に落ちていた。前にいた笠井が全く反応せずに立ったまま。床との衝突音で始めて気づいたようにシャトルのほうを向いていた。

「ポイント。ツーラブ(2対0)」

 審判のコールに我を取り戻したかのように動き出す笠井。シャトルをラケットですくい上げて返してから金田へと顔を向ける。
 頷く動作は確認した証。実際に目の前で体験しなければ分からない。
 海人の前への移動速度は自分達の理解を超えていた。おそらくは空人もだろと金田は考える。それを確かめるためにはなんとしてもセカンドサーバーまで回さなければならない。

(攻撃で押し切る、か)

 だが、本来攻撃に移るために必要なヘアピンが封じられている。自分達がネット前ぎりぎりだと思っているショットでさえ海人はプッシュ出来るのだ。前に詰める速度を完全にコントロールしている証拠。ならばどうするか。

(まだ時間はある。考えるしかない)

 今までほとんど止まっていた金田の思考がようやく動き出す。少なくとも前への動きはそう簡単に対応できない。ならば、横の動きはどうか。後ろは。少し今の状況から思考を引いてみれば策は考え付いた。それが通用するかはまた別問題だったが。

(とにかくやらなきゃ始まらない。打てる手がなくなったところが、俺達の終わりだ)

 金田はゆっくりとサーブに対して迎え撃つ姿勢を整える。その間も視線は海人と空人の動きを見ている。何かしら隙がないかを探る。それを隠せるような余裕はない。
 にも拘らず海人は警戒することなくショートサーブを打っていた。

(警戒する必要もないか!)

 ヘアピンを打ち込まれては困るとロブを大きく上げる。先ほどのスマッシュは大した速さではなかった。もしかしたら攻撃力はあまりないかもしれない。
 確かに、金田達と比べて体格は小さい。その予想を確かめようとしたが、後ろに回った空人はハイクリアを打った。

(こいつらも防御に専念かよ!)

 チャンス球を上げられて黙ってはいられない。また、金田自身のスマッシュが通用するかどうかを確かめる必要もあった。攻撃が通るならそれで押し通せばいい。
 初弾から全力。身体が温まればより速いスマッシュを打てるだろうが、ひとまず今の状態でどこまで通用するのか。それを試すのに余裕はいらない。

「おらぁ!」

 渾身の力を込めてラケットをシャトルへと叩きつける。空気が破裂したような音を立ててシャトルが空人のほうへと突き進む。その速度は打った金田自身も驚くほどのショット。一試合に一回打てるかと思えるほどタイミングも打点も文句なしだった。
 それを、空人はさして焦る事もなくロブを上げていた。パン、と軽い音と共に上がるシャトル。落下点へと移動しながら金田は思考を止めない。

(オッケ。単調なショットじゃ最高の球打っても通用しない。なら、揺さぶって揺さぶって、隙を作り出す!)

 スマッシュを打とうとジャンプし、そのままドロップに変更する。勢いを強引に殺して弱く打っただけで、正式なドロップではない。それでも金田のスマッシュの威力を分かれば通じるはずだった。
 普段ならば。

(しま――)

 次の瞬間、前につめた海人がヘアピンでネットすれすれにシャトルを落としていた。笠井も前に踏み出してラケットを伸ばすが、打ったシャトルはネットに引っかかり落ちていた。
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