Fly Up! 88

モドル | ススム | モクジ
 ――そして、時が流れる。

 ◆ ◇ ◆

 何回打ったのか、もう思い出せない。何度、限界かと思ってもラケットを振る腕は止まらない。相手の防御を突き破ると信じる。自分の今まで積み重ねてきた努力を信じる。鍛えた自らの武器に思いを込めて。

「うらあぁあ!」

 武の打ち込んだスマッシュが、但馬のラケットからシャトルを弾いていた。高く上がったシャトルはそのままコートの外へと落ちていく。
 明らかなアウト。そのシャトルが落ちきる前に、武は拳を天高く掲げていた。

「しゃぁあああああ!」
「しゃ!」

 武の絶叫に合わせるように吉田も短く声を上げた。ゲームカウント二対ゼロ。どちらもセティングに持ち込んで十八対十五。試合時間にして一時間半を超えていた。

「吉田!」
「おう!」

 危うくラケットを取り落としそうになりながらも、吉田と手を打ち付けあう。勝利の余韻は体の奥底から沸きあがり、互いに共鳴しあっている。この勢いなら、もしかしたらこの団体戦、勝てるかもしれない。
 そう武は思いながら相手との握手へと急ぐ。
 しかし、彼らの目はもう武達を見ていなかった。

『ありがとうございました』

 特に感情の篭らない声。もう勝負はついたと言わんばかりに、但馬と大木は武達を一瞬見た後ですぐコートから去っていった。

(なん、だ?)

 勝利の高揚感は一瞬で不安に変わった。得体の知れない予感。それはけして、初めて生じるものではなかった。
 そう。武自身は感じていたのだ。試合の前に、そのビジョンを見た。試合に入って忘れていただけで、確かにそれはこの試合の中にあったのだ。

「あ――」

 急いで振り返る。武達の隣のコート。初めに武の目に飛び込んできたのは、傍に座る庄司の顔に浮かぶ苦渋に満ちた表情だった。

「相沢……」

 吉田の目は表情より先にスコアに目が行ったのだろう。言葉に含まれた落胆が何よりも現在の状況を表していた。
 ゆっくりと、武もスコアを確認する。副審が得点が書かれた札をめくり終えたところで点がはっきりと見えた。

「十四対一」

 自分でも思ってもみない冷静な声で武はスコアを呟いていた。
 ゲームは既に一ゲームが終わっている。あと一点で全てが終わる。
 そう。自分達の敗北が決まる。

「ストップ!」

 絶望的な点差でも諦めずに立ち向かう金田の精神力は、誰が見ても賞賛に値した。
 それでも、現実は変わらない。諦めなければ試合は終了しないが、点数が劇的に変わるわけではない。消耗し続けた体力を精神力が補完するにも限界はあった。
 終わりは、やってくる。

「はっ!」

 金田が繰り出したスマッシュは終盤でも、体力が低下していても速度は変わらない。市内の選手達が取れないと嘆いた、武達が頼もしいと感じたままの脅威。
 しかし橘空人はあろうことか前に足を踏み出し、ドライブで床と平行に返していた。ネットを越える瞬間、通常ならばシャトルはネットよりも下に食い込んでいるから出来ない。しかし、今回はネット前に落とそうとするような鋭角のものではなく、相手の身体を狙う角度がないスマッシュだった。それを打たれた瞬間で見極めたのか、関係なく前で取ろうと踏み出した結果なのか。最高のタイミングでカウンターとなり、前にいた笠井は反応できず固まっただけ。

「うおぉ!」

 それでも、金田は反応していた。左側に打ち込まれたドライブをバックハンドで打ち返す。まだかすかに残る可能性を信じて、扉をこじ開けるために。
 狙うのは右側。ストレートに打てば、今ドライブを打ってきた空人がいる。中央には戻らずに極端な立ち位置は、後ろにいる海人がカバーに入ることを見越してのものだろう。
 相手の思考を読む。だからこそ、こちらはロブを上げるかドロップを打つしかない。しかしどちらも相手にとって思う壺。特にドロップはまた前に詰められる。
 今の金田にはコントロールに自信はないだろう。試合の最中に数度、ドロップやヘアピンを打ってもプッシュをされないような球を打つことが出来たが、体力が低下している今にそれを期待するのは重い。
 だからこそ、茨の道に飛び込む。こちらが選ばないだろうという道を選ぶことで、相手に隙を見出す。

「はっ!」

 自分の希望、浅葉中の勝利へ続く細い糸。
 金田は必死にその糸を掴み――

 パンッ!

 糸は、切れた。
 シャトルは力なく自分達のコートに落ちていた。ネットを越えることなく。
 パートナーを超えることなく。
 笠井の背中に当たったシャトルは全ての終わりを告げているようにぼろぼろで、同時に笠井もコートに膝をついた。体力低下もあるが、明らかな敗北。到底勝つことが出来ないという高みを前に、試合が終わったことで精神が耐えられなくなっていた。

「ポイント。フィフティーンワン(15対1)。マッチウォンバイ、橘……橘」

 苗字が同じ場合の勝利者指名をどう言えばいいのか審判は迷ったらしい。しかし、金田と笠井はもとより当の橘兄弟も気にするそぶりはなかった。膝をついた笠井の肩に金田が手をかけ、促されて立ち上がる。
 勝負は終わった。自分達にとって最悪の形で。
 しかし、これも仕方が無いことだった。単純に、相手のほうが強かっただけなのだから。

『ありがとうございました』

 四つの声が重なる。明らかに落胆と分かるのは笠井の声のみ。金田は最後まで敗北の辛さをコートの中では出さないらしい。

「さすがっすね、先輩。強かったっす」

 海人の声が武にまで聞こえてくる。試合を終えてにこやかにしゃべっているのはやはり勝利への安堵か。でもその言葉はスコアを見れば武には嘘だとしか感じない。

(でも、なんか本心っぽいよな)

 スコアを除けば、皮肉で言っているようには聞こえない。武と同様のことを感じているのか金田も困惑している。言葉と現実のギャップについていけていない。

「スコア的にはこっちが楽勝だったけど、楽勝だって思ったこと一点もなかったですよ」

 空人がこちらサイドの困惑を感じ取ったのかフォローする。こちらは言葉だけを聞けばなにやら皮肉のように聞こえる。
 単純に言葉の違いなのだろうと武は結論付ける。

「個人戦も頑張ってください」

 そこで空人は会話を終わらせた。どんなに言葉を交わそうと勝者と敗者の間にある溝は深い。それに取り乱すかどうかは個人の問題であるが、ずっと溝を傷つけているのも駄目だろう。
 空人達から解放された二人を向かえる。庄司は手を叩きながら「よくやったぞ」と声をかけた。確かに庄司からすれば最後まで折れずに戦った二人の戦いは「よくやった」としか言えないだろう。負けたことは事実。問題はそこで何を得たか。当人達に考える余裕がないからこそ、周りが気づかせないといけないのだ。

「ミーティングは敗者審判の後だ。だからこれだけは言っておく。お前達は自分の持つ力を最大限に発揮して戦った。これは誇るべきことだ」

 庄司の言葉が金田達に届いているのか、表情を見ても武は分からない。少なくとも自分達は勝利した。
 苦戦しながらも、個人戦の第一シードを破ったのだ。

「ふぅ」

 金田は一度、ため息をついた。

「確かに先生の言う通り。まずはやることやってこよう」

 金田の口調には寂しさも悔しさも、感情らしきものは込められていなかった。言葉の通り敗者審判をやった後でなければ何も語ることはないということなのだろう。
 その後は誰もが無言だった。特に言うべき言葉はない。ただ、試合に負けたという事実と、その悔しさだけがある。でも、その中で自分だけが異質な物のように武は感じていた。

(そう、か。俺と吉田だけ勝ったから、負けたって実感がないんだ)

 団体戦は誰かが勝っても残りが負ければ負ける。でも事実として、誰かは勝っている。自分が勝っても試合に負けるということ。武には何か気持ち悪い感じとなってぐるぐると回る。

「おつかれさん」

 吉田が後ろから声をかけてくる。金田と笠井が敗者審判に使うためのスコアボードやシャトルを取りに行っている間にメンバーは各々休息を取る。武と吉田は少し離れた場所にいた。
 そこで他に聞こえない声で呟く。

「実感沸かないか」
(なんでこう、こいつは人の心読むんだろうね)

 顔に出やすい性質なのかと自分に疑問を抱くと、それも吉田は見透かしたようで言葉を続けた。

「何を思ってるか大体想像つく」
「やっぱりだよなぁ」

 今ならまだしも、試合中もそうなら考えなければならない。今後の方針を少し考えていると金田達が戻ってきた。

「じゃあ、俺と笠井が主審するから、吉田と相沢はラインズマン頼む。阿部……もできるな。小谷は?」

 よろよろと客席から降りてくる阿部を一瞥してから、金田は小谷へと問いかける。金田達が負けていく中で時間は経っている。通常ならば歩けるようにはなっているはずだった。

「ん。まあ、なんとか」

 よろけきながら立ち上がる小谷の顔は疲労の色は濃いが問題はなさそうだ。ならば、後は敗者の役目を果たすのみ。

「じゃあ、よろしく」
『はい』

 答える声に力は無い。それでも時間は進んでいく。次の準決勝の試合が始まり、それぞれの位置に付いて行く。
 ラインズマンに入った武は、これから試合を控えているペアの背中を見て思った。

(ああ、そうか。俺達、負けたんだな)

 他校の試合、プレイする人々の背中を同じ高さで見る。
 自分達がいたはずの場所に別のプレイヤーがいる。これが、敗北。
 個人戦では何度も経験してきたことが、団体戦では理解が遅れたのだ。
 涙腺が緩むのを堪えながら、武は試合を続けているプレイヤーの背中を見続けていた。


 * * *


 敗者審判が終わり、武達浅葉中のメンバーは客席の自分達のスペースへと集まっていた。女子は男子の輪から少し離れた場所で見ている。
 男子が集まる場は、重苦しいというほどではないが暗い空気が滞留している。誰かが吹き飛ばさなければずっと彼らの上に圧し掛かるだろう。
 その誰かは、金田となった。

「まずは、お疲れ様」

 一言切り出せば、一気に空気が変わる。敗北はもう悔やんでも仕方が無いということは部員全員が分かっている。後はその整理をどうつけるか。ミーティングを終えなければその整理がつかない。

「結果はこの通り、俺達は準決勝敗退になった。正直、不甲斐なくて申し訳ない」

 金田が頭を下げたことで男子部員に動揺が走った。誰もが結果に納得している。金田達でも勝てなかったのだから、自分達に打つ手がなかったということを。

「阿部や小谷、吉田や相沢があんなに頑張ったのに……俺達は最後に何も出来なかった。申し訳、ない」

 言葉の最後は嗚咽に消えた。金田は頭を下げたまま身体を震わせている。いつも強くみんなの前に立っていた男はいない。そこには自分の弱さに悔しさを堪えられず、屈する男の姿があった。

「金田も笠井もよくやった。今のお前達の実力を十分引き出していたと思う。仮に引き出せていなかったとしても、それは相手のシャトル回しが良かったということだろう」

 庄司が金田の隣で冷静に分析した結果を伝える。試合をしていた当人達が思っている試合と少し離れた者が見た試合。全てが同じとは限らない。

「この結果に不満があるのなら、今以上に練習して実力をつけるしかない。金田達三年はもう引退だが、まだ中学で終わったというだけだ。高校や大学でも機会は十分ある。今の経験を無駄にすることだけはするな。以上だ」
『はい!』

 今までの空気が本当に一変したことに、武は驚いていた。庄司の言葉を、誰もがぼんやりとは分かっていたのだろう。それを明確に指示されてようやく踏ん切りがついたのだ。先に進むためのものが。

「あとは個人戦、か。金田さん大丈夫かな」

 武は市内大会の自分を思い出す。敗戦にショックを受けて次の試合にも実力を出し切れなかった過去は、まだ一月くらい前のものだ。

「大丈夫だよ。金田さんなら」

 吉田の口調にある確信に、武も何も言わなかった。

 浅葉中団体成績。準々決勝敗退。
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