Fly Up! 86
決まっていたはずのシャトルが取られるというのは思いのほか打った側にダメージを与える。体力というよりも精神的な部分で。
そもそも攻撃は決めるためにするもの。特にスマッシュは決め技だ。相手を翻弄した上でとどめを刺すために打つショットだけに、体力消費は大きい。それに見合う利点があるからこそ、精神が肉体を凌駕する。だが、それを止められるとなると体力だけが減っていく。
「相沢!」
吉田の声に武は現実に引き戻される。実際、思考している間も身体は動いていた。ドロップやスマッシュを織り交ぜながら相手の防御をかいくぐらんと手をつくしている。それでも二人の防御――特に但馬の防壁を抜けられない。
「うおら!」
十を超えたスマッシュが相手コートを襲っても、返って来る。吉田が交代する間もなく武だけがスマッシュを打たされていた。ここでハイクリアで相手に主導権を渡せば攻め込まれると武は分かっている。肌で相手ダブルスの脅威を感じていたから。それは吉田も同じだからこそ、強引に武と交代しない。
武のスマッシュが必ず相手に浮き球を打たせると、前に留まる。
「っだ!」
シャトルに全ての気迫を込めて――ドロップ。
吉田の思いが固い壁に亀裂を入れたのか、相手の陣形が崩れた。
「くわ!」
大木が前に慌てて足を踏み出し、ラケットを伸ばす。今までロブを上げてあからさまに武の体力を削っていたが、ヘアピンでシャトルをネット前に返した。いや、返さざるをえなかった。
そのタイミングを見計らったように、吉田が足を踏み出す。シャトルは身体の左方向。身体を入れ替えてバックハンドに持ち返ると、一瞬で叩き落していた。
「ポイント。フォーラブ(4対0)」
「よし!」
吉田のガッツポーズ。審判のコールに続く咆哮を聞きながら、武は息を整える。体感時間では五分ほど続いたラリーは確実に武の体力を奪った。それでもあまり間を置かずゲームを再開しなければならない。
(回復する暇は、ないか)
出来うる限り深く息を吸い、ゆっくりと吐きながら武は今後の展開を予想する。四点目を取った時と同じく、相手はずっとレシーブを続けるだろう。点数は取られたが結果的に相手は武の体力を削ることに成功したのだ。続けない道理はない。
例えファイナルゲームに行こうとも、二ゲームを先に取ればいい。
(この学校……)
武は一つの事実に気づき始めていた。序盤戦が終わりに差し掛かっている時、相手からのスマッシュがほとんどない。その代わりに目に付くのがその鉄壁の守りだった。辛うじて武は力で押し切っているが、そんな戦い方をずっと続けられるかと言えば否だ。いずれ体力が尽きたところで攻勢に出られる。そんなシナリオは誰にでも予想できる。
滝河第二中学は、守りを重視した学校。
試合開始前のミーティングでは出てこなかった情報だった。
「相沢、大丈夫か?」
サーブ姿勢に入る前に尋ねてくる吉田に、武はただ頷いた。今は話す体力さえも温存したいという気持ちの表れ。逆を言えばそれだけ追い詰められているということ。まだ四点しか取れていない。その事実が武の心に暗い影を落とす。
「これから休みなしだ」
吉田の鋭い台詞が武の耳に届く。その刹那、シャトルが放たれた。言葉と同じように鋭いショートサーブ。シャトルはしかし、大木のラケットに阻まれてネット前に落とされる。吉田はロブを上げてすぐに後ろへと下がった。サイドバイサイド。防御陣形で相手の攻撃を受けようとするが、但馬が打ったのはハイクリアだった。
絶好のスマッシュ球。それをあえてハイクリアで返すことで、武の中に核心が生まれた。
(この、やろう!)
ハイクリアも特に捻りのない弾道だった。通常より低いことも、コートのラインぎりぎりに落ちてくることもない。武が少し下がれば絶好のチャンス球となる。一瞬だけ相手の陣形を確認するとすでにサイドバイサイドだった。四点を取る間、見てきた光景。
「らあ!」
相手から伝わってくる「攻撃しなくても勝てる」という思いに、武の心の中の火がついた。必ず押し通るという気迫を込めて、シャトルを打ち込む。狙うのは但馬の顔。返しにくいコースの一つ。
「ふっ!」
しかし、但馬は難なくロブを上げた。顔に届くよりもかなり前の位置でラケットを跳ね上げて、シャトルをコントロールする。いとも簡単にしているから分かりづらいが、同じことを自分には出来ないと武は分かった。リターンの位置が自分よりも前の位置。一歩前で打ち返せるのは余裕があるからだ。武のスマッシュが完全に見えている証拠。
(だからって、引けるかよ!)
武の中で覚悟が決まる。吉田の言葉が蘇った。
(ここからは休みなしだ!)
武の右腕が唸りを上げた。
◇ ◆ ◇
庄司は腕を組んだまま、目の前に展開されている二つの試合を見つめていた。
武と吉田。そしてシングルスの小谷を。
試合時間は既に三十分を経過していて、二試合の内容は対照的だ。ダブルスは一回のラリー時間が長く、スコアはいまだに七対三のロースコア。リードはしているが、スマッシュを打ち続けている武のスタミナが最後まで持つとは庄司も思っていない。一ゲームが終わった時に庄司はフォローするつもりだったが、相手も今まで吉田を後ろに回さないようなシャトル回しをしているため、この結果は吉田達だけのせいではない。
一人を徹底的に狙い、体力を落としてから攻勢に出るやり方は一見効果的に見えるが、かなりのリスクを伴う。相手の攻撃に耐えるという行為は攻撃することよりも体力を消費する。シャトルの打ち回しである程度コントロール出来るとはいえ、圧倒的に点を取られる確率は高いからだ。
成功させるには、どんなシャトルにも対応するための集中力と持続させるための体力が必要とされる。
この防御戦術を実行できる相手ペアは間違いなく、全地区のトップダブルスだった。
(そしてこっちは、やはり無理だったな)
一方でシングルスは既に二ゲーム目に入っていた。シングルスが不得手な小谷にしては良く持ったと言える。一ゲーム目のスコアは十五対二。圧倒的な実力差。最初の二点を取られた時点で相手は小谷の実力を看破したのだろう。そこからコートの四隅を徹底的に突かれ、必死になって追いかけた小谷は甘い球を上げるしかなく、スマッシュで叩かれる。それだけならばあと十分は早く終わっていたが、小谷のシャトルへの執念が決着を遅らせた。負け試合ということは本人が最も分かっている。それでも、諦めないことで魅せた男が傍にいた。
阿部はまだ観客席で休んでいたが、視線は小谷のほうへと向いている。自分の相棒の試合を目に焼き付けるように。
「ストップ!」
息も切れ切れの小谷が叫ぶ。誰もが既に滝河二中の勝利を確信し、次の試合に備えたり武達の試合を見ている。観戦者はもう審判達と庄司、阿部など数名だろう。それでも小谷の心は折れてはいない。
正確にシングルスラインの端を狙ってくるサーブに追いつき、ドロップを放つと同時に前に出る。ロブを上げられることを覚悟しての突進。相手のヘアピンの鋭さはコート中央からでは間に合わなかった。
だからこその特攻。
しかし、小谷のラケットはシャトルを正確に捉えることができず、ネットに阻まれてしまった。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
一ゲーム終盤からの繰り返しだった。中央に構えていても間に合わないと悟った小谷はどうにかしようと前へと突進した。ロブを上げられて無理に返すことも出来たが、その後は狙い通りヘアピンを打たれてもネットを越えられない。最初はネットに引っかかって相手コートに運良く入ったが、一度きりの偶然だ。以後はネットに跳ね返されていく。その威力も小谷の必死さに応じた度合いだったが、やがてラケットの中央でさえ捉えられなくなり弱々しくネットの下に落ちていった。
第二ゲームに入ってもそれは変わらない。このままではラブゲームも考えられる。
「ストップ!」
小谷は肩で息をしながらも、瞳からは光は消えていない。ぎらついた、相手の隙を探し出そうとする目。こういう時に油断すればどんなに優勢でも一瞬で追いつき、抜かされることを庄司は経験上知っていた。
(これだけ追い込まれても諦めていない。本当、強くなったな、小谷)
感慨に耽ろうとしていた庄司は頭を振って自分を否定する。選手には最後まで諦めないように言っているにも関わらず、自分はすでにまとめに入っている。小谷が負けることを前提にして。
「小谷、まずはサーブ権を取るんだ! 相手の目を見ていけ!」
庄司のアドバイスに軽く首肯し、シャトルを追いかける。ラケットを振りかぶりスマッシュを打ったところで違う音が重なった。激しく震える大気と大げさに言っても差し支えないほど、庄司の耳にその音は飛び込んでくる。
視線を向ければ、そこには腕を振り上げた武の姿。その手に吉田が自分の手を叩きつけるように激励する。乾いた音が鳴り、審判の得点コールを半ばかき消した。
「ポイント。テンフォー(10対4)」
遂に二桁に乗せた吉田と武。その姿は庄司に次の世代の可能性を十分に感じさせた。相手は滝河二中のトップダブルス。防御に長けている二人から十点をもぎ取っている。そこに焦りを感じたのか「ストップ!」と相手ダブルスの一人が叫んでいた。
ブラフか真実か。庄司は一瞬で後者を選んだ。
(ここであいつらが勝てれば波に乗れる。小谷、お前もまだ負けてられないよな、後輩に!)
ヘアピンでネット前に落ちるシャトル。
先ほどの焼き回しかと思うほどに、同じアングル。前に出る小谷がラケットを伸ばし、シャトルを捉える。しかしネットに阻まれてまたポイントが加算されて――
庄司の視界はネットにシャトルが阻まれた残像を映していた。しかし実際はシャトルはネットを越えて、相手が追いかけていく図。その光景に庄司は思わず右拳で左掌を打ち付けていた。
(よし!)
遂にネット前の呪縛を越えた。今まで失敗していたことの成功。高い壁を超えたことは今まで崩れかけていた小谷という『自信』を取り戻すきっかけとなる。
相手は追いつくと同時にスマッシュを放ってきた。後ろに飛びながらダイレクトで打ち返すそれは、見た目以上に難しい。返すにも明らかにタイミングを外されていた。
それでも、小谷のラケットはシャトルを捉えていた。
「ら!」
必死に振りぬいたラケットはシャトルを完璧に打ち返す。まぐれだったかもしれない。しかし、その偶然を引き寄せるのは場の流れだ。そして、流れを引き寄せるのは。
(小谷の力だ)
フットワークも片腕を付くようになり、相変わらず翻弄されている。しかし、ラケットは先ほどよりも確実にシャトルを相手へと返していた。圧倒的な力の差に狂わされていたテンポがようやく正常に戻っていく。小谷のペースを取り戻せば、まだ試合の行方は分からないはずだ。
(小谷も、吉田や相沢も頑張ってる。なら、金田達が燃えないはずはないな)
フロアから出たすぐ近くでドライブを打ち合っている金田と笠井。すでに自分達の試合へと集中している彼らには今の状況は分かっていないだろう。もしかしたら二対ゼロで試合は回ってこないかもしれない。そんな杞憂など頭にはなかった。それならばそれまでのこと。ただ、試合が回ってくるのなら最高のコンディションで迎えねばならない。そのために身体を温めておくことが自分達の仕事だと、金田達は悟っていた。
それが待つ者の義務。特に、最後を託された者の役目。
「サービスオーバー! ラブワン(0対1)」
小谷が遂にサーブ権を得る。一ゲーム目から通算して十六点目で始めて手に入れたシャトルを、小谷は息を整えながら掴む。ゆっくりとサーブラインへと歩いていき――
「あっ!?」
崩れ落ちていた。
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