Fly Up! 85

モドル | ススム | モクジ
 コート上に降り立つと、空気が重く塗り固められているように武は感じた。自然と歩く速度も遅くなっていく。無論、錯覚だと分かっていたが気温までも一度は下がったように武は感じていた。

(緊張、か)

 これから挑む相手。過去に全国にも数回出場し、ここ最近の全道大会の常連。間違いなく自分達の地区の最強のプレイヤーが集う中学。
 越えなければいけない壁がこれから待っていることを、肌で感じている。
 強引に早足にして先にいた吉田の隣に並び、一度深呼吸をしてから前を見た。そこには海人の姿がある。しかし、先ほど会話した時のどこか憎めない雰囲気はなりを潜め、自分達を倒すべき相手としか思っていない。

(凄い切り替えだよな……)

 あまりの豹変振りに、武の心は逆に冷静になっていく。今まで緊張感で麻痺していた感覚が復活し、コート上の熱気が自分に取り込まれていくように感じる。寒くなるなどありえない。これから先は、より熱い試合が待っているのだから。
 審判が早足でやってきたところで、試合が始まる。その人影は武が知っている顔。

(鮫島さん、か)

 敗者審判としてやってきたのは鮫島だった。自分達が負けた中学と、これからやろうとしていた相手との試合。どんな思いを抱いているのかと思案しかけたが、外に追い出す。余計な考えをする余地はもう残っていないのだから。

「それでは、試合を始めます。握手を」

 鮫島がネットを少し上げてスペースを作る。そこに互いに手を差し出して握る。武が握ったのは目の前の海人の手。

『お願いします!』

 腹から吐き出される声は両校は同じくらい凛々しい。少なくとも気合は負けていないと武は海人を見る。そして、ちょうど武を見ていた彼と目線が交錯した。

「当たったらよろしくな」
「うん」

 短く言葉を交わし、手が離れる。それだけで体内から熱いものが込み上げてくる。試合への高揚感。緊張感。負けることへの怖さ。勝つことへの期待。試合のオーダーはすでに聞かされている。あとは相手がどう出てくるか。双子だろうと、誰であろうと勝つしか道は無い。
 金田が審判にオーダー表を渡しにいく。相手の部長と表を交換する中で数言だけ言葉を交わしてから帰ってきた金田の顔は苦笑いが浮かんでいた。

「どうでした?」

 吉田の問いかけに金田は無言でオーダー表を差し出した。そこに書かれている相手の組み合わせに武達も息を呑む。
 それは予想が外れたというわけではない。むしろ逆で、思い通りだった。いや、思い通り過ぎた。
 滝河二中は武達を警戒してオーダーを崩すということなく、どっしりと構えて迎え撃ってきた。

「横綱相撲ってやつかな」
「まあ、変に凝られても困るから、な」

 金田の顔にはすでに困惑は無い。これから倒すべき相手の輪郭がはっきりしている分、打開策はいくらでも考えられるはずだと感じているから。実力で負けているとしても隙を見つける、あるいは作り出す。その思考こそがバドミントンの本質。
 だが、武の頭には動揺が残ったままだった。思わず吉田へと言葉が漏れる。

「あいつら、一年だったんだな」

 頷いた気配だけを武は受け取る。オーダー表に書かれている橘空人、海人の名前。その横に書かれている学年を示す数字は見事に一本の棒を立てていた。

「でも、これで金田さん達が勝つ可能性は上がった。いくら団体戦に出るメンバーだからって経験値と実力は金田さん達が上だしな」
「あ、ああ。そうだな」

 吉田の言葉は正しい、と武も思う。確かに実力があるから第二ダブルスに抜擢されているのだろう。楽勝ではないかもしれないが、金田達ならば一勝を取れるはずだ。ならば後は自分達の勝負。ダブルスを取るか、シングルスを取るか。どちらかを取れば勝利への扉が開く。
 そうだというのに、武は不安を拭いきれない。これから来る試合への不安ではない。自分の試合への覚悟は握手の時点で済ませていた。

(なら、なんでこんなに不安なんだ?)

 視線を泳がせると、空人と目が合った。一瞬、驚いた顔になったかと思うと武に向けて頭を下げる。謝罪の意を込めたものに感じられて武は意味を考えようとする。

(そうか。タメ口を謝ったのか)

 相手にも自分達が何年生かは分からなかったはずだ。武ならば敬語をまず使うが、橘兄弟は同学年と扱うらしい。
 謝罪に気が緩んだ瞬間、刺すような視線に身体が硬直した。発生源は同じく橘海人。その視線は、学年など関係ないといわんばかりに武を貫いていた。
 唐突に理解する。
 不安は間違いなく橘海人から。正確には橘兄弟から来ている。先ほど謝罪してきたはずの空人も同様の視線を送って来ていることに驚いたが、心に浮かぶ言葉を肯定する材料には十分だった。

(金田さん達は、負ける)

 根拠がないはずの不安。そこから出た答え。

(そんな馬鹿なことあるかよ)

 すぐ頭を振りながら浮かんだ絶望を否定する。金田達が負けるはずはない。少なくとも、大接戦にはなるはずだ。
 しかし武の脳裏に過ぎったのは大敗する姿。膝をつき、涙を流すことも出来ないくらい、悔しさを感じることが出来ないくらい放心する姿だった。

「第一試合、始めます」

 鮫島の言葉に武は我を取り戻す。軽く頬を叩いて足を前に踏み出した。ラケットの感触を感じながら雑念を吹き飛ばす。

(このイメージが今の時点で本当だとしても、俺と吉田が勝って勢いをつけてやる!)

 隣を歩く吉田を横目で見る。顔には緩く笑みが浮かび、これから始まる試合を楽しみにしているのが分かった。その喜びがどこからくるのか。武はすぐに思い当たる。
 精神的に強くなった武と共に挑める試合。吉田にとって、ようやく待っていた時間。西村が去ってから武をパートナーと決め、学年別や市内の中体連を通り、たどり着いた全地区大会。ステップとしてはまだまだだが、ようやく武は吉田の領域に足を踏み入れた。自分と同等と認める男と共に挑む試合に吉田は楽しみを見出している。
 その考えが、何の奢りもなく武の中に生まれる。

(そうか、ようやく俺はスタートラインに立てた)

 一年以上前に憧れた背中。見続けた背中。今は、その隣に立っている。

「行くぜ」
「おう!」

 互いに手を打ち合わせてから相手へと向かい合う。金田達が橘兄弟と対戦することで、必然的に三年のペアだ。個人戦でも第一シードに名前を連ねている男達。

『お願いします!』

 相手に差し出した手は力強く握られる。油断など微塵もない。学年が下だということで武達に隙を見せるような相手ではなかった。

「なあ、相沢」

 じゃんけんに勝ちサーブ権を得た吉田は、シャトルの羽部分を触りながら武に問いかける。屈伸をしながら耳を傾けていた武は、次の言葉に微笑まざるを得なかった。

「負ける気、するか?」
「いや。全然」

 一瞬の躊躇もなく言う。慢心でもなんでもない。
 途中経過はどうあろうと、負けるビジョンは見えなかった。

(金田さん達には見えたのにな)

 切り替わる暗い映像を弾き飛ばす。向かい合う相手ペア。今大会で最も強いペアに視界を合わせる。

「一本!」

 相棒を後押しするように、武は吼えた。
 吉田のショートサーブに相手のファーストサーバーは躊躇せず飛び込む。名前を失念していたことをこのときになって武は思い出すが、気にする前にシャトルが自分へと強襲していた。ラケットを上手く軌道上に置き、シャトルはネット前に跳ね返る。そこに飛び込むもう一人が、今度は逆サイドにプッシュで押し込んできた。武は反応し切れなかったが、代わりに吉田がシャトルをインターセプトしてクリアを飛ばす。
 そこに飛び上がったのは、シャトルを打ったはずの男。吉田の動きを読んでいたのか、ラケットを振り切ってスマッシュを近距離に叩き込む。

「はっ!」

 しかし、シャトルが実際に決まったのは相手側のコートだった。吉田は素早く身体を切り返してスマッシュをプッシュで返していた。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」
「しっ!」

 吉田と手を合わせる武。集中力は少しも乱されていない。超速で動くシャトルに身体が自然と反応している様を見ると、武も身体が軽くなるように思えた。既に一試合、シャトルの軌道は身体に叩き込まれている。
 それを証明する、サーブの第二波が放たれた。ロングサーブは躊躇なくスマッシュで打ち返される。しかし、武はどこに手を出せば当たり、どこへ向かって打つのかが瞬時に頭に浮かぶ。正確には感じている。空間の中に道筋が無数にあり、自分はその中の一つに沿ってラケットを動かす。
 振り抜かれたラケット面に吸い込まれるようにシャトルが当たり、威力をそのまま反発力に変える。前に進みかけていた相手の顔面に向けてシャトルは飛んでいき、弾き返しきれずにシャトルは真上に上がった。

「ポイント。ツーラブ(2対0)」

 審判のコールとほぼ同時にシャトルが返される。跳ね上がったシャトルをそのまま打ち返したのだ。吉田は軽く頭を下げてから、武に向き合った。

「今のが但馬で、ファーストサーバーやったのが大木。覚えた?」
「ん。名前は覚えたけど、それだけじゃないだろ? 今の問い」

 吉田は肯定の意を示す。武は一つ、思い浮かぶところがあり口にしようとしたが、審判も相手も次のサーブを待つ気配が広がる。吉田に言うのを諦めて後ろに立って構える。

(次に十分試せるからな)

 内心で呟いて自分自身に言い聞かせて、次の一瞬に集中する。
 吉田のショートサーブがプッシュされる。既に見慣れた光景だが、その威力やコースは試合のたびに脳内で修正される。どこを見ればいいのか、どれくらいの強さで打ち返せば甘くならないのかを身体が計算する。
 全ての結果は打ち終えた後に遅れてやってくる。

(これくらい、か!)

 しかし、武は初めて自分の意思が先に働いた。グリップの握りを強め、テイクバックもそこそこにコンパクトに打ち返す。シャトルはドライブの弾道で相手のコートへと突き進む。それを但馬がクロスへと打ち返し、それは吉田がインターセプト。落とされたシャトルを大木がロブで上げる。
 武は冷静に体勢を戻して、落ちてくるシャトルに狙いを定めた。

「ふっ!」

 飛び上がってシャトルにより近づき、ラケットを振りかぶる。狙うのは、大木の左側。

「はっ!」

 捉えたシャトルは武の渾身の力を突破力に変えて進む。空気の壁を幾層も突破して初速は衰えても武のスマッシュは十分すぎる力をシャトルに伝えている。鋭く、角度もあるショットは大木のバックハンドを弾いてシャトルを宙に舞わせた。

「ポイント。スリーラブ(3対0)」
(なるほど、ね)

 武は自分が掴んだことを相手にばらさないよう、顔を手で覆った。傍から見れば汗を掌で拭っているように見えるだろう。口元を隠しながら自分の感情を隠し、視線は次の隙を探す。
 吉田がサーブの姿勢を取ったところで武も腰を落とした。いつでもシャトルを打ち込む用意は出来ている。

「一本!」

 ショートサーブ。今度もまたプッシュだろうと武は意識を集中させた。対応を頭が決定する前に身体が動く。身体の向きや相手の目線が次の弾道を見せる。

(――え?)

 そこで武は動きを止めてしまった。シャトルは武が向かった右側と反対、すなわち左側へと向かった。急な動きだったからか威力はなく、前にいた吉田が難なく反応してヘアピンで落とす。それを但馬がロブを上げた。

(なんだ、今のは)

 心に動揺を残しつつも武はラケットを振りかぶる。狙うのはまた大木の左側。今までの攻防でほぼ確信を込めてショットを叩き込む。

(――!?)

 一度確認した視界の端に捉えた動き。更に動揺が膨れ上がる中で武はラケットを振り切った。躊躇するならば前に進む。攻撃は最大の防御。それでも、一瞬の迷いはシャトルに確実に伝わって簡単に取られていた。
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