Fly Up! 82
観客の誰もが、武達の側からシャトルが上がるのを見たのは久しぶりだった。後ろで構えていた菊池が振りかぶり、全力でスマッシュを放つ。
狙われたのは武の左側。無論、シャトルを上げた時点で武達は左右に広がり迎え撃つ。武は左に、吉田は右。つまりは、二人の間へとシャトルが最短距離で突き進む。
武が打とうと身構えた時、吉田が叫びながら遮った。
「俺が打つ!」
声に反応して武は後ろに下がる。吉田の意図を汲み取り、トップアンドバックの形になるための移動。吉田はシャトルを上げずに前に落とした。クロスに落とされたシャトルは再び鈴池にスピンをかけられる。
吉田はシャトルを取るも、ネットに阻まれてしまっていた。
「セカンドサービス。イレブンツー(11対2)」
吉田がシャトルを拾い、武へと受け渡す。それも、自ら傍に近寄って。
「すまん」
「いいよ。相手が上手いだけだ」
シャトルを受け取ってにこやかに笑う武に、吉田も頬を緩ませる。先ほどまでとは逆に武が前で吉田が後ろの陣形になった。
「一本!」
「ストップ!」
両者の声が重なり合う。武のショートサーブは吉田ほど精密ではなく、ネット際から浮く。それを菊池は確実にプッシュで捉えたが、吉田は難なくロブを上げていた。
二人はまた左右に分かれて迎え撃つ。放たれたスマッシュを武はロブで返したが、更にスマッシュは武へと続いていく。
(狙われてる、か!)
二度、三度。武がロブで返すたびに鈴池がスマッシュを叩き込む。そのまま押し切らんという気迫と共に。
武としてもこのままロブを上げていては埒が明かない。
(なら!)
十を数えたスマッシュを、一歩前に踏み出してヘアピンで落とす。前に落とせばヘアピンの打ち合いだとしても、スマッシュとロブで出来上がっているリズムを崩せば隙を生じるはずだと武は判断していた。
だが、いつもより早い位置でシャトルを捉えて落とそうとしたために、シャトルはネットから浮いていた。
「らっ!」
明らかな某球を菊池は逃さずプッシュでコートに沈めた。半ばスマッシュに近いストロークで。
「サービスオーバー。ツーイレブン(2対11)」
吉田に謝罪しながら、武は菊池にシャトルを返す。吉田も特に武を責めはしない。
「簡単には終わると思ってないからな」
「ああ」
得点差はある。それでも、終わらない気配を武と吉田は感じ取っていた。
* * *
「ポイント。シックスイレブン(6対11)」
鈴池の叫びがコートを支配する。サービスオーバーからの四連続得点。武達のスマッシュを取りきり、自分達の攻撃を貫く。先ほどまでとは逆の展開。鏡を見ているかのように返される。
「ドンマイ」
吉田の声に武は頷く。内心では追い詰められていることに焦っているが、それでも声はクリアに聞こえていた。
(前とは、違う)
熱を発散する身体。思考も今までならばぼんやりとしてしまい、吉田の声が遠のいていた。やがて声も聞こえなくなり、武は自分の殻に閉じこもってしまっていた。
(なんだろうな)
追い上げられていても、相手を冷静に見ることが出来る。相手が一球一球放つたびに、無理をしていることが分かる。追い上げて、更に追い越すのは精神的にも肉体的にも辛い。それが感覚的に分かるからこそ、追い上げられるほうは辛いのだ。押し寄せる大きな津波に飲み込まれるような錯覚を得るから。
「ストップ」
吉田へとショートサービスを鈴池が打った瞬間、武は呟く。吉田は突破口を開こうとヘアピンで抗していた。結果、今までの得点はヘアピン合戦の後に吉田が上げ、スマッシュ攻勢に押し切られるという形が続いていたのだ。今回も同じ形になるかと思われた、その時。
「吉田!」
武に声に押し出されるようにロブを上げる吉田。そのままサイドバイサイドの陣形で迎え撃つ。菊池が振りかぶった瞬間、武は前に飛び出していた。明らかに早いタイミング。撃つ直前に相手の場所を確認し、別の場所へと打ち込めるほどの。
「ストップ!」
前に出ながら叫ぶ武。一直線に進む武の右側は完全に開いていた。このまま菊池がクロススマッシュを打ち込めば点がまた入っていたのかもしれない。
しかし、菊池はハイクリアを真っ直ぐに打っていた。
(よし!)
武は自分の動きが成功したと確信する。方向を変えてコート前中央に身体を沈めると、その傍をスマッシュが走った。吉田のスマッシュはハイクリアを打った菊池へと走る。的確にバックハンド側へと。
菊池は取りそこねてシャトルはネット前に舞った。
「うらっ!」
武は飛び上がり、身体をそらしてシャトルにくらいつくと強引にスマッシュに持っていった。シャトルは菊池のボディへと吸い込まれ、コートに落下する。
「セカンドサービス、シックスイレブン(6対11)」
菊池は鈴池へと何も言わずに、シャトルを拾い上げるとサーブ姿勢を取る。
武はそれに応えるように無言で構えた。張り詰めた空気。ここで相手コートにシャトルを落とした側が主導権を握ると、四人は肌で感じていた。
「ストップ」
「一本」
鈴池と吉田。それぞれのシャトルに触れないプレイヤーが呟いた瞬間、試合が動き出す。
菊池からのショートサーブを武は確実にプッシュで左奥へと突き出す。しかしサーブが良かったために強い威力は出せず、鈴池がすぐに追いついてドライブで返してきた。武はそのまま前でインターセプトし、ネット前に落とす。菊池も主導権を握ろうとヘアピンで沈めていく。
(なろ!)
ヘアピンでの無理な勝負は避けて、武はシャトルを上げた。後ろに下がり吉田に手振りでサイドに開くよう指示。中央がちょうどラケットの軌道幅に空いた。
「はっ!」
鈴池のスマッシュは二人のラケット軌道からちょうど外れる、中央の狭い間隔を狙ってきた。このまま行けば二人のラケットに重ならずポイントになる。
「後ろ!」
吉田は言いながら一歩斜め前に出た。それでシャトルは吉田のラケットのそれと重なる。武はトップアンドバックの陣形に移行。ヘアピンでネット前にシャトルが落ち、相手もまたヘアピンで返す。
吉田と菊池のぎりぎりの攻防。ネット前で左右にシャトルが飛び交った。やがて――
「らっ!」
ロブが上がったのは、武達のほう。競り勝った吉田に感謝しつつ、武は振りかぶってシャトルを待った。真っ直ぐ落ちてくるシャトルは武へと吸い込まれていくように、真っ直ぐ向かってくる。吉田が掴んだチャンスを、武は胸に刻み込む。
(行くぞ、相棒!)
苦い思い出が武の中に蘇る。勝っていたはずの試合を相手の気迫に負けて敗れたこと。それを引きずって更に負けたこと。精神的な弱さの果てにある敗北は思いをずたずたに引き裂く。怖さは身体を固くする。
しかし、武はそれを破った。
「うぉおおお! らっ!」
絶叫に近い声と同時に振りきられたラケットは、シャトルを相手コートに突き刺さんと弾き飛ばす。菊池がその軌道上に立ち塞がり、身体の前でバックハンドに構える。いくら早くても捉えてしまえばシャトルは簡単に返る。
「なっ!?」
しかし、シャトルは菊池のラケットから弾かれて見当違いの方向へと飛んでいった。
「サービスオーバー。イレブンシックス(11対6)」
「しゃぁあ!!」
審判の声を掻き消さんとする武の叫び。完璧なスマッシュ。自らの力を引き出した、渾身の一撃だった。
再びサーブ権が武達へと移る。それでも武の目には諦めない鈴池と菊池の姿が見えていた。身体の周りに立ち上る闘気のようなものを見て、武は身体を震わせる。
「何か、見えてる?」
「ああ。なんか気合で揺らめいてるよ」
吉田の問いに答え唾を飲み込む。緊張しているのは事実。だからこそ、武の闘志も更に高まる。
「ここで、断ち切るぞ」
いつもならば吉田が言うだろう言葉を、武が先に言う。気負いもなく、ただ事実だけを呟く。追い上げる思いを断ち切るためには、ここからの連続ポイントが鍵となる。
「……おうよ」
吉田は応えてサーブ位置に立つ。
点差など関係なく、隙があれば一気に追いつかれ、追い越される力を鈴池達は持っている。今までで一番の集中力を使ってくるだろう。
「一本!」
「一本だ!」
武の声に押されるように、吉田はロングサーブを放った。今までずっとショートを繰り返してきただけに効果はあり、鈴池は後ろに身体をのけぞらせてクリアで返すのが精一杯だった。それでも奥まで届いており、スマッシュでもそう簡単には崩されないだろう。
武はシャトルの真下に入って振りかぶる。次はスマッシュと予測して鈴池達はその場に腰を沈める。視線を低くすればスマッシュもドライブに近くなる。弾道が水平になれば追うのは楽だった。
だが、武が選んだのはクリアだった。それも、コートと平行に進んでいく武の独自技、ドライブクリア。
「だっ!」
シャトルは鈴池達が考えていた弾道よりも遥かに上を行く。追おうとして身体を上げた菊池だったが、突如その場に膝をついてしまった。シャトルはダブルスラインぎりぎりへと落ち、得点が入る。
「ポイント。トゥエルブシックス(12対6)。……大丈夫ですか?」
審判が心配を含んだ声音で尋ねたが、菊池は大丈夫だとアピールして立ち上がる。アキレス腱を伸ばしたり足首を回すなどして状態を確認し、再度「大丈夫です」と審判に言った。
「身体がついてこれなくなってきてるんだ」
「終盤だからな」
相手に聞こえないように武の傍で話す吉田。しかし、吉田はチャンスのように思えてそうではないことも伝える。
「それは俺らも同じことだ。攻め気が無くなった時に立て直せるかで真価が問われるぞ」
「ああ。大丈夫だ」
武は静かに、しかし強く呟いた。
「もう、サーブ権は移動させない」
武の言葉に口を閉ざす吉田。そのまま黙って肩を叩くと、シャトルを受け取ってサーブ姿勢に入る。顔には笑み。武の成長に対する嬉しさがにじみ出ていた。
安心感が精神に安定を与え、精神の安定は技術を固める。ショートサービスで相手のコートではなくネット前を狙うと、ぎりぎりの弾道でサービスラインにシャトルが向かっていく。菊池も粘って何度かヘアピンで挑むもシャトルが浮き、それを吉田が正確にプッシュで落とした。
「ポイント。サーティーンシックス(13対6)」
相手の執念を、武と吉田の気合が凌駕する。
シャトルのやり取り。どれも鋭く武達を揺さぶるが、落としはしない。
右奥に打たれたシャトルを追って武は走る。追いついた瞬間にはラケットを振りかぶっていて、ストレートにドライブを放つ。鈴池が飛び込んでインターセプトし、ヘアピンで落とそうとするも叶わない。
鈴池のスピードを超える速さで飛び込んだ吉田が落ちようとしているシャトルを捕らえ、クロスヘアピンを放っていた。前に飛び込んだのなら、状態はトップアンドバックとなる。しかし、あまりの速さに鈴池は中央に戻ることが出来ず、シャトルを追うことが出来なかった。
「ポイント。フォーティーンシックス(14対6)。マッチポイント」
(そうだ。この感覚だ)
武は吉田の背中を見ながら思う。安心感が身体の硬さを取る。身体の柔らかさが、多彩なショットを打つための準備を整える。
「さあ、ラスト一本だ!」
「おうよ!」
十五点目へのサーブ。上がったシャトルに武は飛び上がり、ジャンピングスマッシュを放つ。
「うおらぁああ!」
より高い打点から放たれたスマッシュは、より速く急角度で鈴池の足元へと着弾しようとする。それを何とか返した鈴池だが、菊池は一歩も動こうとせずに呆然とシャトルの動きを見送っている。
その姿を見ても武は動じない。
武に応えて吉田も前につめ、鈴池と菊池は気を取り直したように腰を落とす。だが、表情に精彩がない。
吉田は手首のスナップを聞かせて、ドロップを落とすと見せかけてドライブで頭上を抜こうとシャトルを放った。しかし菊池は騙されずに後ろに飛んでスマッシュを放つ。吉田が返すも弾道上には鈴池。
「うらぁあ!」
吉田の顔面へと向けて飛ぶシャトル。だが吉田はしゃがんでかわす。
そこで後ろに飛び込んでいた武が弾き返し、ネット前に落ちる。
渾身の力でスマッシュを打った二人に、前に戻る力は残っていなかった。
「ポイント。フィフティーンシックス(15対6)。マッチウォンバイ、吉田・相沢!」
終わりを告げる審判の言葉と共にコートに拍手が起こっていた。
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