Fly Up! 78
(確かに、やばいよなぁ)
打つシャトルが次々と返される。第一ゲームまでの接戦が嘘のように得点が重ねられていく。体力が尽きたわけでもない。フェイントを止めたわけでもない。
ただ、鮫島が惑わされなくなっただけ。
スマッシュを打つと見せかけて直前で力を抜き、ドロップに変えても。
ハイクリアを打とうと振りかぶり、一瞬動きを止めてまたクリアを打っても。
鮫島は騙されずにシャトルについていき、強打を決めていく。
(これが実際の実力の差、か)
阿部は特に焦燥感を覚えることなく、冷静に現状を分析する。
実力の差は歴然なのは分かっていた。こうして次々と点を取られ、離される事が本来の姿なのだ。
両校が、おそらくは会場にいる全ての選手が、審判が、誰もが思っていたことだ。第一ゲームはまさに夢だったのだろう。
(その夢を、俺は見せた)
阿部は右手に力を込める。まだ試合は終わっていない。どれだけ離されても一ゲーム目は取っているのだ。どうなろうと三ゲームまではいく。
(いや、まだ二ゲーム目も終わっていない)
全て分かっていたことだ。
だからこそ、それを覆すことに燃える。
今の俺にしか、その快感は味わえないと阿部は自分に言い聞かせた。
(そうだろう! 激つえぇ鮫島さんよ!)
鮫島のショートサーブを上げてコート中央に構える。どこに来ても取れるように。
体勢を低くして、ダブルスの守りのごとく。
(取って取って、取りまくってやる!)
防御からリズムを建て直し、攻撃へと移って行く。まずはそれからだ。まだ試合は続く。諦めたら、そこで試合は終わるのだ。
「らっ!」
鮫島の咆哮。ラケットが掻き消えるように振られる。目を思い切りラケットの打点へと合わせ、軌道を予測。そのまま返そうと――
バンッ! と空気が破裂したような音が鼓膜を振るわせた。
「な、に?」
シャトルは阿部のすぐ前に落ちていた。スマッシュが来ることは分かっていた。意識を集中して、取ることだけに全力を注いだ。
しかし、鮫島のスマッシュに阿部は反応できなかった。
「ポイント。テンワン(10対1)」
審判のコールに我に返り、シャトルを鮫島へと飛ばす。
阿部は顔が引きつることを止められなかった。
(マジ、たいしたもんだな)
ネットを挟んで目の前に立つ鮫島は、完全に自分のペースを取り戻していた。
身体に余分な力も入らず、頭も冷静に動いているらしい。
自分へと向ける瞳に余裕を見つけ、阿部は深くため息をついた。
「よし、ストップ」
自分でも少し驚くくらいの、気のないストップ宣言。
鮫島は反応を見せることなくロングサーブを打った。勢いに載せて二ゲーム目を取る気だろうと阿部は思い切り振りかぶり、一瞬だけラケットを止めてからハイクリアを打つ。
力はあまり込めない。気持ちはすでに敗北へと傾き始めて体力を使わないようにしていた。
(そうだ。次の試合もきっとある。きっと吉田達が勝ってくれる。そもそも、俺はかませ犬なんだ。一ゲーム取れたんだから十分じゃねぇか)
その時、阿部の視界におかしな光景が飛び込む。しかし次の瞬間には鮫島がショットを打とうとシャトルの下に回りこんでいた。
(あれ、は?)
それが本当に起こったのか確信が持てず、阿部は次のシャトルを待つ。
ストレートに伸びたシャトルに落ち着いた鮫島はクロスにドロップを放ち、前に突進する。
阿部からしても取れるかどうか微妙な位置。前に飛び込んで思い切り右足をコートへ打ち付ける。
前への勢いを殺し、ラケットにシャトルを軽く当てるとふわりと浮かんで鮫島のコートへと落ちていく。だが、すでに鮫島は目の前へと迫り、ラケットを掲げていた。
後ろに飛びのく阿部だったが、鮫島はラケットを止めてただ当てるだけにする。前に落ちようとするシャトルを阿部は右足で身体を支え、前へと飛び出して追いつく。
「うら!」
完全に攻撃を読んだことで鮫島は驚愕に顔を引きつらせた。後ろに飛びのいて防御姿勢を作ろうとする。
しかし、シャトルは前に落ちていた。ほんの一瞬のこと。鮫島は阿部のフェイントに全く反応できなかった。
「サービスオーバー。ワンテン(1対10)」
「うっし!」
鮫島を相手に読み、完全に騙した。再び戻るサーブ権に相手も味方さえも驚いている。何より驚いているのは阿部自身だったが。
(そうだな。効いてないわけが、なかった)
強い者ほど相手の目線やラケットの軌道、癖などを見て次の手を予想する。
鮫島が阿部の挙動を見るのを止めたというのは錯覚だった。
確かに見ていたのだ。だからこそ、身体に染み付いて咄嗟にやってしまったフェイントにも鮫島は一瞬だけ反応し、クリアで打たれたシャトルの下に入るのが遅れたのだ。
そして、今回のフェイント。
(まだ、いけるじゃねぇか。勝負捨ててたぜ、俺はよ)
自分でも笑えてしまうほどに闘志が蘇る。萎えたことと同時に鈍っていた思考も回りだす。最初から分かっていたこと。自分は技量ではなく頭を使うことでしか勝利を掴むことはできない。
(そうだよ。勝利だよ)
言葉にだけしていた。思っていただけだった。試合をした先にある「勝利」を、意識していたのかと自分に問いかける。
(していなかった!)
ショートサーブの後にわざとネット前のど真ん中へと立つ。ヘアピンの構えを見せていた鮫島は手首の力だけでコート奥に飛ばした。
そうするだろうと予測していた阿部は即座に追いかけていき、思い切りラケットを伸ばしてのけぞったままハイクリアを打った。
無理な体勢にも関わらず、シャトルは鮫島のコートを突き進み、対角線を切り裂く。鮫島の顔に浮かぶのは明らかな動揺。返されたシャトルは前に落とされ、それを阿部はストレートにヘアピンを落とした。
「ポイント。ツーテン(2対10)」
(一瞬迷ったから動きが鈍ったな)
相手コートの前に落ちたシャトルを自分で取りながら、次の手を考える。
武の真似をして運良く飛んだショットを警戒して、同じような展開の時は後ろも気を配るはず。あるいはまぐれだと考えているか。ならばもう一度やる必要がある……。
脳裏にいくつもの手が浮かぶ。身体は確かに疲れているが、思考と完全に切り離されている。ノッている証拠。
「一本!」
ロングサーブに対して鮫島の手は既にクロスのスマッシュ、ドロップ、クリアに絞られている。
あえてストレート側にポジショニングすることで誘っているのが分かっていても、有効打ならば狙わずにはいられない。
阿部の予想通り鮫島はクロスのスマッシュを打ってきた。速度の落ちないスマッシュを絡めとり、ストレートで前に落とす。そのシャトルを後ろに飛ばし、鮫島は中央に構えた。
「はっ!」
先ほどと同じようにのけぞってハイクリア。今度は打点がずれてしまい、ドロップ気味になる。しかし、鮫島は一度後ろに下がりかけた身体を前に向かわせてシャトルを取った。跳ね上がったシャトルは立っている阿部の上へ。
「らっ!」
角度よりも距離を持ったスマッシュはコート後ろぎりぎりへと向かっていった。
「うおお!」
鮫島が叫びながら追っていく。阿部は瞬間的に身体が硬直した。間に合わないと分かっていても鮫島の気迫に押される自分がいる。
シャトルはシングルスラインの内側に着地し、ポイントが入った。自分で分かっていてもため息を付いてしまう。
(そういや、負けてるんだよな、俺)
当たり前のこと。まだ得点は三対十。これから追いつけるのか追い越せるのかさえ分からない。
(一点ずつ積み重ねることを考えろ。辛いのはあっちも同じだ)
追い上げられる辛さ。しかし、追いかけているほうも苦しいのだ。鮫島はあと五点取れば勝つ。自分は、あと十二点取らなければいけない。
「一本!」
ロングサーブで今度はコートを左右に分けるライン上へと飛ばす。アウトに近い位置を進むシャトルに鮫島も取るかどうか悩むかもしれないが、阿部自身も神経をすり減らす。
(弱気になるのはもう止めろ! どっちが先に耐えられなくなるかの勝負だ)
小手先の技術で相手を翻弄できても、最後には精神力の強さが試される。実力があっても弱気になれば出し切れない。
「こい!」
阿部は叫ぶ自分に驚きながらも、不思議な高揚感に包まれていた。
金田や武のような熱さ、負けたくないと思う気持ち。
頭を使って相手を倒すという詰め将棋的な面白さを楽しむだけだったはずなのに、勝利に拘るようになった。その想いの強さが辛い状況を支えている。
「はっ!」
スマッシュを身体の前で受け止め、ネット前に返す。しかしそこに飛び込んできた鮫島はプッシュでまた阿部の胸を狙った。近距離からの一手だったが、阿部がバックハンドで受け止めるとぎりぎりネット前へと落ちていく。
飛び込んだことで体勢を崩していた鮫島はプッシュする機会をなくし、ヘアピンで前に落とした。
ただシャトルに当てるだけ。ぎりぎりを落ちていくシャトルはしかし、阿部が拾う。
「なろ!」
ほぼ垂直に上がり、垂直に落ちる。鮫島が振りかぶって、シャトルを今度は阿部のコートに沈めた。
だが。
「フォルト(反則)! ポイント。フォーテン(4対10)!」
「なっ!?」
鮫島は審判へと抗議に口を動かしかけたが、自分の過ちに気づく。
ネットを超えて、シャトルを打ってはいけない。阿部の上げたシャトルは阿部のコート内に留まっていた。つまり、ほうっておけば鮫島に届くことなくサービスオーバーとなっていたのだ。
(まだまだいけるぜ)
すぐさま次の手を考える。脳内でシミュレーション。シャトルの羽部分を直しながら全力で思考を回転させる。
(今ので鮫島の心に前に出ることへの躊躇が生まれてくれるならば楽だが、さすがに簡単にはいかないだろう。なら、更に前に飛び込ませるだけだ)
「よし、一本だ」
鮫島がサーブラインに戻ったことを確認するとショートサーブを打つ。
ダブルスの時のようにバックハンドに切り替えてのサーブはネットから浮かぶことなく鮫島へと届く。
鮫島は前に動こうとはせずにその場でロブを上げた。間違いなく変化は起きている。前までの鮫島ならば前に飛び込んでヘアピンを打っていた。プッシュが無理でもそれで相手から甘いショットを引き出してそれを叩いていたのだ。それをしなくなっている。
(萎縮してるんだ!)
先ほどの場面が頭に残っているから、何の変哲もないショートサーブに反応できなかった。思考の怯えは身体の硬直へと繋がる。身体の硬直は動きの遅さに繋がる。
「うら!」
スマッシュをまた長めに打つ。鋭さよりもコート全面を用いて走らせることが、勝利へと繋がる道だと阿部は結論付ける。得点など関係ない。最後に十五点を取れば良い。
「いくぜ!」
思考を全て点を取ることに向けて動かす。シャトルを左右前後に順序良く振り分け、それに鮫島が喰らいつく。阿部の思惑通りにしまいとシャトルをコントロールする鮫島だったが、阿部はその上を行き、ヘアピンとロブですぐさま主導権を握っていった。
「ポイント! シックステン(6対10)」
九点まであった差が次々に埋まっていく。鮫島の一手に阿部は三手をかけて追い込み、四手目で止めを刺す。完全な持久戦に鮫島の顔にも疲労が出始めた。
しかし。
(先に俺のほうがへたるってか)
阿部は肺の痛みに顔をしかめる。体力が尽きかけた時に起こる肩や肺の痛みが出てきたところで、自分の体力が限界近くに来ていることを悟った。
それは仕方が無いこと。ペース配分を考えていたならば、試合は既に終わっていただろう。考えず、ただ突き進んだからこそ訪れたピンチだ。
「一本!」
それでも。まだ諦めない。もっともっと得点を重ねて抵抗すれば相手の体力も削られるはずだ。
「しゃ! こい!」
阿部は肺が締め付けられるような感覚を凌駕し、気合の咆哮を放っていた。
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