Fly Up! 79
(限界、か)
阿部の試合をずっと見ていた庄司は腕を組んだまま立ち上がる。スコアは六対十。通常の段階ならばまだ逆転可能だが、誰が見ても阿部の動きは鈍っていて体力の衰えが分かる。これ以上試合を続けさせれば阿部に怪我をさせかねない。
(そうなれば最後だ。これから先もバドミントンを続けていくなら、ここで無理はさせられない)
武達の試合は金田に任せて、庄司は阿部の試合へ視線を完全に移した。いつでも阿部にアドバイス――最悪、棄権をアドバイスできるように。
「ポイント。セブンテン(7対10)」
また一点をもぎ取って、阿部はガッツポーズを決めた。その声や動きに力強さが足りない。それでも、目の光は失われていなかった。
(阿部……お前まさか、この試合で燃え尽きても良いと、思っていないか?)
団体戦メンバーは六人しかいない。五人が実際に試合をする以上、一人が補欠となる。今回は小谷だったが、庄司の頭の中には阿部と小谷で次のダブルスに出すことも入っていた。
(後はあいつらに任せて、この試合で燃え尽きる気か?)
確かに団体戦は全て一日で行われる。今は午前十時半を過ぎたところ。準決勝は昼を挟んで行われ、決勝は午後三時くらいを予定している。その中で、体力を全快させるのは確かに辛い。シングルスでこれだけ勝とうと動いているならば、次の試合では体力を回復できずに足手まといになる。
それを考えて、阿部は動いているのか。
(そうだとするなら、お前は――)
「うおお!」
コートの横に用意されたパイプ椅子。庄司が座っているそこに迫ってくる阿部はシャトルを眼で追っていた。走る先に庄司がいることなど構うことなく。
「うわ!?」
驚いて立とうとした庄司だったが、その前にすぐ傍をラケットが空を裂き、シャトルをネット前に落とす。鮫島が前に飛び込んでプッシュを放つと、カウンターの要領で弾き飛ばした。シャトルはコートの後ろを越える前に減速し、鮫島がバックハンドのままクリアを打ち返す。阿部は落としてくると判断して前につめたが、その勢いを消せずにシャトルを追いかけることができなかった。
「サービスオーバー。テンセブン(10対7)」
「ストップ」
シャトルを拾いに行きつつ呟いた言葉は、庄司の耳にはっきりと聞こえた。力強さは、ない。身体を左右にふらつかせながらシャトルの元へと辿りつき、ラケットで掬い上げてから打ち返す。鮫島は既に息を落ち着かせて自分の位置に立っていた。あと五点。勢いに乗って連続得点をしていた時には気づかなかった疲労が阿部を襲っているはずだ。
「ストップだ! 阿部!」
それでも庄司は阿部へと声をかけていた。顔をほんの少しだけ傾けて、頷く阿部の顔に疲労はあっても焦燥感はない。目にはまだ強い意志の光が灯っている。
(あいつの中にもあんなに強い思いがあったんだな)
阿部の試合に臨む姿勢に、庄司は成長を見た。
練習中でも試合でも、阿部はどこか一歩引いた感があった。楽しむために技量を身につけたい。勝ちたい。でも負けたらそれはそれで仕方が無い、と勝利への執着を庄司は今まで見出すことが出来なかったのだ。
それが中学生として最後の出場する大会になって、目覚めたというのだろうか。
(自然なことか……楽しさだけからの脱却)
楽しさだけでは鍛えきれないものもある。追い込まれた時に耐えられる精神力。どんなに技量があっても最後に勝つのはどれだけ強い心を得られるかだ。
シャトルが飛ばされ、それを阿部がドロップで落とす。鮫島は前につめてまたヘアピンの構えを見せた。そこに飛び込む阿部。その姿を見て手首の力でまたシャトルを跳ね上げる鮫島。
先ほどのリフレイン。
阿部はまた身体を支えきれずに倒れる。前に手をついて何とか支えた時にはシャトルはコートのバックライン上に落ちていた。
「ポイント。イレブンセブン(11対7)」
(あれだけのコントロールをまだ持っているとは)
まだ朝一番の試合といえ、一ゲーム目をあれだけ戦ったにもかかわらず狙いはぶれていない。体力の総量があるにせよ、瞬間的に使える体力は限られている。その一瞬一瞬を繰り返してきたにも関わらず、堪えていないようだった。
「ストップだ」
最小限の力で止める意志を表す。庄司はもう、止める気は起こらなかった。どうなろうとここで止めてしまえば、阿部はバドミントンから離れてしまうのではないかと思ってしまった。
そして――
「ポイント。フィフティーンセブン(15対7)チェンジエンド」
第二ゲーム終了の合図。サーブ権が変わってから、阿部は遂にもう一度もぎ取ることが出来なかった。目に見える疲労。身体が思うように動かない様子が庄司には良く分かった。それでも阿部はまだ続ける。試合を最後まで。
「阿部」
ラケットバッグからペットボトルを取り出していた阿部に向けて庄司は語る。阿部は軽く視線を向けただけ。話す体力さえ温存しているようだ。庄司もそれが分かっているからこそ返事は待たない。
「三点だ。三点だけ、体力回復に費やせ。そうすれば後はどれだけミスらないかだ。十対七から最後までほとんどシャトルを追わなかったのは回復のためだろう?」
実際に体力がなくなっているからか、体力温存のためか庄司には分からなかったが、連続得点は序盤の頃とは違って短時間に取られたものだ。何分もラリーをした上でのものではない。
どちらであれ、回復の時間にはなったはずだ。
「三点まで第二ゲームの続きをしろ。そこから、ラストスパートだ」
「先生」
庄司が語り終え、阿部の肩を軽く叩いたところで言葉が紡がれた。しゃべるなと言おうとした庄司の目に飛び込んできたのは笑顔。微笑ではなく、満面の笑みだった。
「あと一ゲーム頑張ってくるっす」
疲れはピークに達しているという中で、どうして満面の笑みなど浮かべることができるのか庄司には分からなかった。少なくとも、先ほどまでの状態ならば微笑むくらいしか出来なかっただろう。何かが阿部を変えたのだ。庄司の言葉か、別の何かか。
そこで庄司は阿部の視線を追ってみた。庄司を捕らえているようで、少しだけずれていたような視線。その先には。
「しゃ!」
スマッシュを打ち込んでエースを取った、武の姿。少し前ならば、今の形を作るためにラリーを続けていたというところだろう。
(そうか。お前らか)
武と吉田の試合も一ゲーム目の大詰めを迎えている。スコアは十三対十三。相手がセティングを審判に申し出て、十八点マッチとなる。金田達の試合と同じく激闘の様相だ。
(そうだな。後輩達があれだけやってるのに自分だけサボるわけにはいかないよな)
庄司が視線を戻したところでファイナルゲームが始まった。そこで、鮫島のサーブに対して阿部は急にしゃがみこむ。
足を怪我してしまったのかと焦る庄司だったが、単純に靴紐がほどけていただけらしい。阿部は審判と鮫島に謝り、靴紐を縛り始める。タイミングは微妙だった。審判の裁量一つで得点にもノーカウントにもなる。
「ノーカウントで。今回だけですよ」
「はい。すみませんでした!」
結果は減点ではなかった。靴紐を縛り終えてから阿部は元気良く答える。アキレス腱を伸ばし、身体を捻るなどしてほぐしてから今度はゆっくりと構える。気負いなく、自然体で。
「ストップ」
「一本!」
鮫島のサーブがコート奥を襲う。阿部は急ぐことなく追っていき、そのまま落下点から身体の軸をずらした。完全に見送る構えだ。鮫島が「入れ!」と叫ぶ声にも反応することなく、阿部はシャトルが下に落ちるのを見た。
「あ、アウト!」
「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
ラインズマンのアウトの動作に従って審判はコールをする。だが、その口調はどこか弱弱しい。
(計算された位置取りか)
今の阿部の位置取りはラインズマンの視界を微妙に遮っていた。ライン上に落ちたのか本当にアウトだったのか、庄司の位置からも審判の位置からもはっきりとは確認できない。ラインズマンも一瞬躊躇して判断を下した。審判を責めることは鮫島にも出来ない。不可抗力ならば仕方が無いのだ。
(そこを、狙ってきたか)
第三ゲームに来て、阿部の思考に切れが戻ってきた。シャトルの落下位置とコートの広さ、ラインズマンと審判の位置取りまで確認し、どの角度からもシャトルの落ちた位置が見づらい場所に立った。もしインだとして、正しい結果を出されても阿部にダメージはない。今回の結果は最高のものだったはずだ。
「いっぽーん」
気の抜けた声を出しながら、サーブは力強く高く上げる。鮫島がやったようにシャトルは後ろにラインへと向かう。鮫島がシャトルを打とうと落下点にたどり着いた時、阿部が叫んだ。
「入れ!」
先ほどと全く同じ。鮫島の言葉をそのまま返す。それはけして鮫島に向けて言ったわけではない。ここにはいない誰かに向けての望みの声。
しかし鮫島も躊躇なくスマッシュを打つ。鈍い音を引きながらシャトルは阿部の右サイドへと進み、ネットに引っかかった。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
ポイントに阿部は何も動かず、鮫島のコート側にあるシャトルをネットの下から自分へと引き寄せた。阿部は一度視線を鮫島に向けたがすぐに逸らし、サーブ位置に立つ。一点を取ってもまだ十四点。最後のゲームはまだ始まったばかりだ。
「一本だ」
静かな言葉から瞬時にラケットを振りぬく。一瞬に力を集中させて放たれたシャトルは低い弾道で鮫島を襲う。一ゲームの最初の頃に打ったサーブ。時間を置いた一撃に鮫島は反応できず、ラケットはシャトルを弾いていた。
「ポイント。ツーラブ(2対0)」
鮫島は動かない。身体ではなく、心が。
プレイには動揺が現れているように庄司には見えている。しかし、ポイントを取られても感情を出すことなくシャトルを返している姿を見たことで庄司は少しだけ不安に駆られた。
必ず鮫島は巻き返してくる。その時、阿部にそれを防ぎきるか逃げ切るだけの体力は残っているのかと。
「一本だ!」
急な阿部の叫びに身体が硬直する庄司。
その身体を切り裂くように飛び出していくシャトル。音に弾かれるようにして硬直から解けた庄司だったが、次の瞬間の爆発音にも似た音を立てたスマッシュに黙るしかなかった。
シャトルは阿部の足元へと突き刺さり、羽をぼろぼろにして転がった。
「さ、サービスオーバー。ラブツー(0対2)」
審判も呆けた状態から戻って、シャトルの状態に気づいたのか自分の横に置いてあった筒から真新しいシャトルを取り出し、鮫島へと放る。阿部は自分の傍に落ちたシャトルをラケットで拾ってコートの外に出した。顔に浮かぶのは焦燥。
(ポーカーフェイスを保つだけの体力がなくなってきているか)
庄司の心配が現実となる。誤算なのはタイミングがあまりに早いこと。第二ゲームを終えた時点で既に限界間近だったということか。ならば、鮫島の落ち着きようも庄司は理解できる。
(あいつは限界を見極めていたのか。だから静かに待って、集中して。阿部に体力低下からの隙が出来る瞬間を狙った)
そしてそこに最大威力のスマッシュを叩き込む。視覚的にも音的にもタイミング的にも。全てにおいて相手の気勢を削ぐようなスマッシュを打つことで試合の主導権を握るために。
「ストップだ!」
しかし、阿部は叫んでいた。自分の勝利へ続く糸を、自らの力で手繰り寄せるために。
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