Fly Up! 62
五月に入る直前の日曜日。武は一人、市民体育館に向かっていた。数日前の部活の後、唐突にバドミントンに誘われた。いつもならば由奈や早坂、橋本がいるところだが、今回はいない。
吉田と二人だけ。
(吉田と、シングルスか? それともダブルスで誰か相手がいるのかな?)
急の申し出に初めは動揺した武だったが、時間が経つにつれて疑問のほうが大きくなる。
何故、橋本達を誘わないのか。何故、他の者に秘密にするのか。
今回はばれるまでは自分から話さないように、と吉田に釘を刺されていた。だから武も周りに気づかれないように、特に若葉には分からないように家を出てきた。ラケットバッグが無いからバドミントンに出かけたというのは分かるだろうが。
そこから疑問が広がることは予測できたが、それ以上の隠蔽工作は同じ屋根の下に住む相手には不可能だった。
(仕方が無いよな)
自分を納得させるように、内心で呟く。特にやましいことなど武には無い。それこそばれたのなら素直に言えばいいのだ。
それだけでモヤモヤした思いは消えた。
「お、いたいた」
体育館が近づき、入り口の前で上半身を伸ばしている吉田が見えた。少しペダルを漕ぐ足に力を込めて、速度を上げる。元から武を待っていたからか、吉田が視線を向けるのは速かった。更に速度を上げて吉田の前に滑り込むように止まる。タイヤがブレーキで削られた後が綺麗にアスファルトに描かれた。
「おっす」
「よっす」
自転車から降りて、挨拶に答える。自転車置き場まで歩きながら、武は口を開く。
「今日って誰か来てるの?」
「おお。途中からな。最初は俺ら二人だな」
「なんで?」
一番にして、唯一の疑問。誰が後から来るのかなどはどうでもいいことだた。何故秘密にして、休日に体育館に呼んだのか。
「秘密」
「おい」
あっさりと問いを無意味にする吉田に、武はむっとしながら再び言葉にしようとする。しかしその前に真剣な眼差しに止められた。
「今日はシングルの試合したいと思ってな。誰にも邪魔されずに」
空気の質が変化した。そう錯覚するほどの、吉田の気合。自転車置き場について自分の愛機に鍵をかけ、深呼吸をしてから振り向いた。そこには変わらず気合が入っている吉田の顔。
「楽しみだよ」
答えて差し出した武の手は、震えていた。
強い者と対戦する際に味わう無力さへの恐怖と、自分の力がどれだけ通じるのか試したい欲求が混ざり合う。武者震いともそうでないとも取れる。武自身も、自分が一体何故震えているのかを把握は出来なかった。ひりつくような吉田の気配が武の喉を渇かせる。
(どっちか分からないけど、結局は吉田と試合するんだよな)
後ろをゆっくりとついていきながら、考える。頭の中には学年別でのシングルスの試合が流れていた。刈田と小島相手に戦った吉田の姿。正直、勝てる気は全くしていなかった。
(まあ、仕方が無いよな。それでも)
仕方がない、と思うだけで気分は楽になる。それが逃げの気持ちからだとしても試合前から緊張でがちがちになった身体には有効だった。心臓の鼓動が体育館の扉をくぐるところで収まる。
「うっし。じゃあ、先に行ってポールとか立ててるから」
「あれ? 着替えは?」
「家から着てきた」
吉田はそう言って着ていたジャージの前を空けた。そこには試合で着るようなユニフォームがあった。無論、浅葉中のユニフォームではない。白地に青い線が走った、吉田のプレイにふさわしい鋭いイメージを持ったもの。
「ニューユニフォーム?」
「まあね。試合用のユニフォームってかっこいいじゃん。買うの趣味なんだよね。実際は浅葉中のユニフォームだけどさ、試合で着るの」
「ほんと、吉田ってバドミントン馬鹿だよなー」
その通り、と笑いながらフロアへと消える吉田を見送り、武も着替えるために更衣室へと入った。壁にかけられた時計を見ると午前十時を回っていた。ロッカーも数箇所以外は空いている。
夏に向かう頃の、暑くなりかけの季節。頭に引っかかるものを感じて、武は少し動きを止める。
「そういや、刈田と試合したのもこの時期じゃなかったっけ」
正確な時期は覚えていないが、五月か六月だったように武は思った。その時も、自分が成長していると実感できた。刈田相手にいい勝負をし、結果的にはノーゲームだが名前を覚えられるところまで行ったのだ。小学校時代無名だった自分が。
ならば、ほぼ一年経ったこの時に吉田と試合をするのは次の段階に進むチャンスなのかもしれない。
(燃えて来た……燃えて来たぞ!)
先ほど感じた恐怖は武の中から消えた。今、武にあるのは早く吉田と試合をしたいという欲求だけ。バッグを勢いよく下に起き、早速着替え始めた。
武の着替えは普通のTシャツとハーフパンツ。吉田に比べれば見劣りするが、見た目と実力は比例しない。何故、試合をしようと言い出したのかも気にならなくなっていた。
「よっしゃ!」
ロッカーに衣服を預けてラケットバッグを背負い、フロアへと向かう。扉を開けるとそこにはもう数名、バドミントンをしている人々がいた。武の目から見て、社会人。明らかに自分の母くらいの年齢に見える女性や男性が気ままに打ち合っていた。
「おーい」
手を降る吉田を見つけて、傍に走る。すでにネットも張っていて試合をする状況は整っていた。
「よし。じゃあ、準備運動やって基礎打ちやってでいこう」
「おっけ」
緊張からか周囲の温度からか、武は汗を感じながら柔軟を始める。アキレス腱から徐々に上に行くように、身体を解す。約五分ほどで肩を回すところまで終了すると、ラケットを手にとってコートに入る。
「ドロップからー」
打ち上げられたシャトルがゆっくりと相手コート前に落ちるよう、コントロールする。自らの手に連結するラケット。日によって調子が変わり、生まれる微妙なずれをこの間に修正していく。一日、一試合のための調整。一球一球打ち返すごとに誤差を消していく。
基礎打ちは単純に身体を温めるだけではなく、それ以上の価値があると武は改めて思った。いつもは単純に打ち返していただけだが、今、この瞬間にそう思えたのだ。急にではなく、もやもやと頭の中にあった考えの欠片が一瞬で凝固したような感覚。
(強い人との試合、か)
バドミントンに対して新しい扉が開かれるのは、決まって強い者と試合をする時。早坂や刈田。安西達。そして、吉田。
(思い切り、胸を借りよう)
スマッシュの番となり、武は思い切り吉田の胸元へとシャトルを叩き込んだ。速度と威力を兼ね備えたスマッシュは吉田の防御をかいくぐってちょうど心臓の部分に当たる。痛みに顔を微かに歪めたが、特に支障はないようで「ナイスショット」と言いながらシャトルを拾い、基礎打ちを再開する。
十分ほどして、基礎打ちも一通り終えた。
「よし。始めるか」
「……ああ」
一瞬だけ、心臓の鼓動が早まった。
じゃんけんでシャトルを取った武は一つ呼吸をしてサービスラインに立つ。ネットには背を向けたまま。振り向いた瞬間に試合は始まる。始まりの会話を交わしてから早まる鼓動。落ち着くよう言い聞かせてみてもより酷くなるだけ。
(ええい!)
勢いに任せて振り向き、両足をサーブ体勢に構える。吉田も左半身を前に向けて、シャトルを待ち受けた。
「お願いします!」
身体の奥からほとばしる熱い想いを、声に乗せる。口だけではなく、腹のそこから放射状に広がるような咆哮。周りでバドミントンに興じていた人々も、ただならぬ気配に動きを止めた。
「一本!」
ラケットを思い切り振り切る。打ちあがるシャトル。武の狙い通りシングルスコートの左奥ぎりぎりへと向かっていく。
「はっ!」
ジャンプしてシャトルにラケットを届かせる。吉田はそのままクロスにハイクリアを放った。最も遠い位置同士を繋ぐショット。滞空時間の長さで体勢を立て直し、コート中央に構える。
(隙が、ない)
シャトルを追いかけてスマッシュを打ち込もうとした武だったが、打つ瞬間に頭によぎった考えにハイクリアへと変えた。打つ方向を読んでいたかのごとく、吉田は動いて真下に入ると武の左側へとクロススマッシュを打ち込んだ。
ラケットを伸ばすも届かず、武のコートへと突き刺さってシャトルは回る。威力が十分殺されるまでその動きは止まらなかった。
「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
ラケットでシャトルを拾い上げ、そのまま弾くように返す。吉田は起用に落ちてくるシャトルにラケットを垂直に合わせて、中空で掬い取った。
「よし、一本」
シャトルを持ち、サーブ体勢に入る吉田。その目はもう武を見ているようで見ていない。試合に集中し、相手を倒すために思考を使う。どこを打てば防御に穴が開くか。相手の思考の死角はどこか。
「ストップ!」
吉田は全力で武を倒しに来る。それを肌で感じたからこそ、武は自らを奮い立たせた。そうしなければ、心が飲み込まれそうだった。大きなフォロースルーから放たれる、ショートサーブ。一瞬、虚を突かれた武だったが反応は早くロブを上げる。
その時、武の瞳は吉田の笑みを捕らえていた。
シャトルを追う次の瞬間には、笑みは消えた。見た武も錯覚だったのではないかと疑ってしまうほど吉田の表情には緩みがない。シャトルに追いつき、ラケットを構えた瞬間に武も全方向に意識を集中する。どこに飛ばされても対応できるように。
「はっ!」
鋭い声と共に振りぬかれたラケットはシャトルを武の左奥へとシャトルを飛ばした。ハイクリアよりも少し弾道が低い、ドリブンクリア。相手の様子を見る気などなく、攻めるのみ。
(吉田がこんなバドをしてくるなんて、な!)
武はシャトルが速い分、追いつくことが遅れた。それをカバーするために水平方向にジャンプしながら上半身を捻る。普通ならばバックハンドでなければ取れないシャトルも、武には十分射程距離内だった。
「いっけ!」
強引にスマッシュに持っていき、着地と同時に前に出る。取れるとはいえ無理な体勢には変わらず、ストレートにしか打てなかった。つまりは、吉田の目の前に。
吉田の真髄はその防御力にある。並大抵の攻撃で突き破れる防御ではなかった。スマッシュだけならば中学生でも上のほうに入る武でも、簡単に無効化される。
案の定、武の対角線である右前にシャトルは落とされる。最初から読んでいたことで武もヘアピンでネット前に――
(吉田!?)
ヘアピンでシャトルを浮かせた瞬間、吉田が走りこんできた。後悔とシャトルの衝突音は同時。床を再び転がったシャトルが、武の後ろで空しく音を止めた。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
ネットを挟んで前に立つ吉田がカウントする。武は一瞥してからシャトルを取りに戻る。拾うところで顔には笑みが浮かんでいた。
(楽しい!)
シャトルをラケットで跳ね上げ、吉田に返す。ちょうど立っていた位置に落ちていき、手の中にすっぽりと収まった。
武は笑みを抑えて構える。内から来る熱い衝動を抑えながら。少しでも早く発散したい。シャトルにラケットからこの衝動を叩き付けたい。そう思う。
(凄い楽しい。ちょっとでも気の抜けたプレイしたらすぐ叩き込まれる。刈田とやった時……それ以上だ)
吉田から来るプレッシャーに、もう武はひるまなかった。
「ストップ!」
「一本!」
二人の声が呼応した。
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