Fly Up! 58
「え」
川岸の言葉に固まる武。足は動いていたが、意識は一時にとどまっていた。大地は感心しながら先を促して、川岸も目を煌かせながら続けた。
「学年別大会の時、たまたま近くで田野と他の友達とで遊んでたんすよ。で、帰るときに体育館でバドの大会やってるって言うんで田野だけ分かれたんす。で、俺はそれについて行ったんす。バドミントンってオリンピックの競技の割りに見たこと無かったし」
徐々に饒舌となっていく川岸に硬直が解ける武。確かに、と思っていた。バドミントンは五輪競技にも関わらず、認知度は低い。最近は人気と実力のある美女ペアをバドミントン協会が前面に押し出して人を惹きつけようとしているが、まだ途上だろう。
だからこそ、こうして興味がなかった者がバドミントンをやるということが武は嬉しかった。しかも、それが武達の試合を見たからという。
「ちょうど決勝戦だったんすよね。ダブルスの。それで、相沢先輩と吉田先輩がこう、びゅんびゅん! って動きでどんどん点を取っていったのがもうかっこよくて!」
川岸は身振りを加えながら話す。足取りも徐々に速度が上がる。体力は走れる程度には回復していると武は思ったが、今の語りを止める気にはならない。自分のことを褒められて嬉しくない者はいない。
「それで、田野に聞いたんす。『田野もあれくらいできるの?』って。そしたらあいつ、『あれは無理』って。そこで相沢先輩がうちの小学校の出身だって聞かされてもう、感動したんす!」
「相沢ファンを前にして何か一言」
大地は笑いながら武へとコメントを求める。わざわざマイクを向ける動作をして。少しだけ考えて、武はかけるべき言葉を探し、特に思いつけない。
「んー、えーと、ありがと」
川岸ほどの好意を向けられたことは初めての経験だけに、武は頭の整理がつかない。今まで憧れる側だった自分が憧れられる。自分が中学のバドミントンに感動や畏怖を抱いた大会で、今度は後輩が憧れを抱く。
感動の連鎖。
(きっと、川岸に憧れて入部する後輩も、いるはずだ)
来年。あるいは武が卒業した再来年。今度は川岸が誰かに感動を与える立場になるかもしれない。
そのためには川岸が部にいる必要がある。
初心者でも耐え切れる部活。優しくはなくとも、手を伸ばす部活。
「川岸君。あと半分、走ろう」
「あ、はい!」
軽く腕を振って走り出した武に向かうように、川岸もランニングを再開する。後ろからは大地。その隊列のままマラソンコースを駆けていく。すでに先頭はゴール傍まで行っているだろうと武は思っていたが、焦りはなかった。人のペースはまた、それぞれなんだと思ったから。
武にとってはゆったりとした時間。川岸にはおそらくいつ終わるか分からないほど長い時間だったろう。ランニングコースはついに、最後の直線を残すのみとなっていた。
直線に入り、大地がスパートをかけた。武も更に速度を上げ、ついていく川岸も腕の振りを大きくした。すでに他の面々はゴール地点で柔軟運動を行ったり軽く雑談をしているなど各々の時間の過ごし方をしていた。そこに武は一年前を見る。
(一年前は俺達がああしていたよな)
今、先にいる二年生は吉田のみ。他の面々は体育館へと戻ったのだろうと当たりをつけた。
「あと十秒以内ー!」
吉田が唐突な宣言をする。その意味を捉えたのか、大地はより速く走ろうとストライドを大きくする。武も川岸も同時に行い、吉田の叫ぶカウントが一をさしたところでゴールを割った。
「お疲れさん」
「いきなりすぎ」
軽く息を乱しながら武は吉田に笑いかける。大地と川岸は体力がなくなったのか、言葉を発することが出来ない。大地はまだ歩きながら息を整える余裕があったが、川岸はその場に座り込んでしまった。
「大丈夫か? 良く頑張ったな。お疲れさん」
「あ、あり、が」
「ごめん。しゃべらなくていいよ。相沢。大地と一緒に体育館入ってて」
俺は一年の面倒見る。続く言葉がなくても、武は頷く。吉田の指導方法への信頼は一年次から。特に必要とされない限りは吉田に任せることを学んだ。それほど最初の頃の基礎訓練の成果を武は感じていた。
一回戦負けがダブルス優勝まで行けるようになったのだから。
「あの中で何人残るかな?」
中に入る途中で、大地が呟く。無論、一年生に聞こえないようにするため。武は視線を一年生達に向けて数を数えた。総勢、十五名。見ただけでは経験者かそうではないかは武には分からない。同じ町内会だった田野や、他に数名小学生時に見たことがあるような面々がいる以外は。
「皆残ってくれればいいんだけど」
そう呟いて入ろうとすると、ちょうど女子が走りこみを終えて帰ってきた。若葉を先頭に一年生と二年生が共に駆け込む。自分達は違って後ろに早坂が控えているんだろうと武は思いそのまま武は校舎内へと入っていった。
若葉に早坂が来ていない事を知らされたのは、部活が終わった後だった。
* * * * *
「早坂が休んだ?」
「そう。珍しいよね」
自転車を押しながら武と由奈、そして若葉は部活帰りの道を歩いていた。ランニング後には体育館で三年と共に練習していたことで女子のほうを見る余裕もなく、今、早坂の欠席を知った。
「確かになぁ。なんかあったの?」
「なっちも今日は元気なかったよね」
「なっち……ああ、清水か」
武を挟んで右に由奈。左に若葉という隊列。左から聞こえてきた単語に、女子の中でも特に早坂と仲が良かった清水香奈の様子を思い出した。春休み中に早坂とよくいた光景を目の当たりにしていただけに、武の思考は悪いほうへと向く。
「二人の間でなんかあったんじゃないの? 喧嘩もあるだろ」
「でもそれで練習休むって早さんらしくないじゃん」
それもそうだ、と感じて武は黙る。バドミントンに対して早坂は真摯だと武は思っていた。だからこそ小学生の頃から同学年でも憧れに近い感情を抱き、勝ちたいと思ってきた。
だからこそ初めて勝利し、学年別でダブルスで優勝し、同等の存在になれたと喜んだのだ。
自分で言っておきながら、部員と不仲だからといって部活を休むとは思えなかった。
「清水なら何か知ってるんじゃない? 今、俺達が何か考えても埒あかないし」
「武ってたまに冷たいよね」
「そうだよ。早さんは昔から友達なのに」
両側から来る非難の視線。わざわざ武が両方を視界に入れられるように、二人は少し武の前に出てから睨む。居心地の悪さを感じつつ、武は自分なりに理由を考えてみた。
(その一。恋わずらい)
最初に浮かんだことが、早坂に最も似合わないと思うもので武は噴出した。いきなり唾が前に飛び、由奈と若葉も悲鳴を上げて飛びずさる。
「汚いわねー。いきなり何よ」
「前に立ってるからだろ」
武は考えていた内容を聞かれることをごまかして、足を速めた。すぐに二人の間を抜き、前に出る。
「単純に具合悪かっただけだろ? 清水も早坂もさ。それが最初にこないってのも俺達馬鹿だなーと思って笑ったのさ」
「そうならいいんだけどね」
若葉の呟きに上手くごまかせたとほっとする反面、武も不安は拭えなかった。
家路の間も、家についてからも。武の思考は早坂について考えていた。そこまで心配することはないと思う心と、あの早坂が部活を休むことはただことではないという心が反発しあい、腹から気持ち悪さが込み上げてくる。
「腹減ったからか」
部活後に着替えてベッドに倒れているだけ。階下に行けば食事は用意されているはずだったが、食べる気分にならなかった。
「ていうか、俺が気にすることもないんじゃないか?」
武にとって早坂は何かと聞かれれば、友達と答えるだろう。カテゴリとしては由奈や橋本と同様ではあるが、二人よりも少しだけ、離れている。
言葉を語る気恥ずかしさを我慢するならば、憧れの対象と言っても過言ではなかった。バドミントンプレイヤーとして最も身近にいた強き者。いつか勝ちたいと思っていた存在。
そして、ようやく並んだと思えた。
「早坂、ねぇ」
思考の渦は回転数が上がるたびに濁っていく。どうしても考える先に何が出るのかが分からない。どのような答えに収束するかある程度分かっていれば思考も安定するが、出したい答え、出るだろう答えが武の中で固まっていないため、結論へと考えをまとめようとする以前に崩壊する。
何度目かになる腹の音を聞いて、武はベッドから起き上がった。
「あー。とりあえずご飯」
言い聞かせなければ動けない自分に、武はうんざりしながらも身体が欲するままに食卓へと向かった。
* * *
「あれ? 武。どこいくの?」
食事を終えてから一時間。風呂上りで髪を拭きながら若葉は玄関にしゃがみこんでいる武に尋ねた。武の格好は学校指定のジャージ、ではなく休日に市民体育館でバドミントンをするときのもの。その上に黒いウインドブレーカーを羽織っている。
「あー。ちょっと走ってくる。なんかもやもやしててさ」
「もしかして早さんのこと?」
「そう」
自分のことに鋭い若葉に、隠し事をすることへ意味を見出さず、武は素直に答える。後方を振り向かずとも若葉が笑っている気配が武へと伝わった。
「由奈っちと早さん。どちらかにしなよ」
「馬鹿なこと言うな」
靴紐をしっかりと結ぶと共に若葉の言葉を切り捨てて、武はドアを開けて出て行った。
走り始めればただ足を進め、流れる汗や風を感じることだけだと武は思っていた。しかし、思考を覆う靄は濃度を薄めたものの、晴れることはない。春夜の空気は澄み、空は高い。外灯が照らすアスファルト上を走っていく中で武は思考しないことを諦めた。
(気になるなら仕方が無いよな。明日、会えたら聞いてみるか)
同じクラスで、話しかけるチャンスがないわけではない。だが、武の中に躊躇が生まれる。元々、町内会のサークルに入っていた六年間でも話した回数だけ見れば百はいかないだろう。中学に入ってからの会話と比べて、その密度の違いに武は改めて驚く。
(苦手意識は消えたわけじゃないんだけどな)
目の前に立たれるたび、言葉を発せられるたびに身体が萎縮する。緊張に包まれて喉が渇く。特に何もしていないのに怒られるというような気になるのは苦手意識が消えないからだろうと思う。それでも早坂に初めて勝った時から、距離は近くなったと武は感じていた。
(うん。多分、あっちもそう思ってるはずだ)
上にいた者に追いついた。実力が近づいて、気兼ねも消える。
(やっぱり、あいつは特別だったんだろうな。俺の中で。あ、いや、恋愛対象とかそういうんじゃなくて)
特別、という言葉に自分で突っ込みを入れる。本当に特別という意味を使うならば由奈だが、早坂は別の意味で特別だった。同じ町内会でも、早坂だけ違う場所にいた。立っている場所が違う。才能が違う。
(んー、なんで休んだんだ。一回休んだら駄目だって言ってたし)
学校を休むほどの風邪を引くなどしない限り、早坂はサークルを休むことはなく、中学一年の間も一度も休まなかった。一回でも休めば、身体が覚えていることを忘れると小学校時代に言っていたことを思い出し、首を捻る。
「よし。明日聞いてみるか!」
意を決するために短く言って、武は速度を上げた。少し先に見える公園をゴールとみなして、全力疾走に入る。風が耳元で唸り、息遣いだけが聞こえる。思考は足を動かし、目的地に着くことだけとなって早坂のことは忘れた。
公園の入り口で急カーブし、中に入って速度を緩めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
徐々に速度を落として心拍数を治めていく。身体中に酸素が行き渡るまで目を閉じ、歩みを止めない。
ようやく落ち着いたところで目を開けると、月明かりに人影が伸びていた。
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