Fly Up! 59

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「はは。まさかな」

 武はタイミングの良さに笑いながら歩き出す。ちょうど考えていたところに相手の顔が見えたのだから、仕方が無い。

(タイミングいい? いや。ある意味最悪かもな)

 早坂の顔はばつが悪いのか歪み、視線を武から逸らした。しかしその後の行動を決めかねていて、動かない。
 一歩を踏み出せば簡単にこの場を去ることができるが、その理由を見つけていないというように武は感じた。

「早坂」

 相手が動かないならば自分が動くしかない。武は少しだけ緊張して、声をかける。早坂は一瞬だけ身体を震わせたが、次にはもう普段通りの顔をして武を見ていた。

「相沢がランニングなんて珍しいわね」
「いつもしてるよ。ただ、時間が合わなかったんだろ」

 武は中学に入って雪が溶けている間はランニングを続けていた。体力不足が原因となってからは特に続けることを意識していた。ただ、部活があった日は体力を考えてない日よりも距離を短くしていたが、今日は早坂のことを考えていたため、距離が部活がない日と同じになっていたのだ。

「早坂こそ。ランニングするってことはそれなりに体調いいみたいだな」

 早坂は答えない。自分のした質問はかなり厭味だと、言ってしまってから後悔する。事実、非難するような視線が武を貫いた。それでも。

「そんな目するなよ。なんで部活休んだ?」

 いつもならば萎縮する要因となっていた威圧感を、武は覚えない。今の早坂にそこまでのものがないこと、そして武自身もこうして会って、苛立ちを隠せなかったことが彼の意思を強くしていた。

「体調悪いなら納得いくけどさ。なんで休んだ? なんかあったのか?」
「どうして相沢に言わなきゃいけないの?」

 早坂も負けてはいなかった。言葉に怒りが宿り、武とぶつかり合う。問いかけに答える考えを武は持っていない。だからこそ次の言葉を探すのに時間がかかった。

「私、もういくわ」
「待てよ」

 話は終わっていない。しかし、次にかける言葉も見つからない。武の言葉に早坂は一瞬足を止めたが、次がこないと知ると背を向ける。

「待てよ」
「何よ。特に言うことないなら――」
「バドミントン」

 とっさに出た単語。早坂も、言った武でさえ動きを止める。しかし二人の間で異なったのは次の行動。早坂は振り返り、武は一歩踏み出して紡ぐ。

「強くなりたくないのかよ。休んでたら、強くなれないだろ」

 その言葉が紡がれた瞬間、武の背筋に悪寒が走る。何かが起こったわけではない。武自身、背筋を凍らせたものが何なのか理解するのに時間がかかった。
 それは昔、感じたことのある感覚に似ていた。

(これ、もしかして)

 あまりにも、というほどの年月は経っていない。しかし、すでに遥か遠いところに消えたものだと思っていたため、気づくのが遅れた。

(早坂への怖さ)

 小学校時代から、視線を向けられるたび身体を震わせた。特に何をしたというわけでもない。生理的な嫌悪。気の強いところが苦手ということもあるが、早坂が異常に迸らせるオーラはいつも鋭かった。冷えた空気を走って、早坂の視線は武を貫く。

「なんで相沢に当たり前のこと言われなくちゃいけないのよ」

 静かに言葉が宙を舞う。口調自体は教室や部活で会っている時のもの。しかし、外灯に照らされているだけの夜の公園での早坂の言葉は、肌がちりちりと焼ける錯覚が起こるほど武を打ちのめす。

「あ」

 それでも。武は口を開く。重圧に負けず。自分を抑えようとする早坂への怖さを、逆に押さえ込む。

「当たり前のこと、言わせるな、よな」
「なんですって?」

 一度滑り出せば、後は流れに任せるだけだ。今までくすぶっていた感情が噴出して、早坂へと向けられる。今よりも更に一歩前に踏み出して武は続けた。

「当たり前のこと言わせるなよ、早坂。スポーツでもなんでも続けないと鈍るだろ? 早坂くらい強いなら、一日でも休むのはやばいんじゃないか?」
「だからなんで相沢に――」
「早坂には強くなってほしいからだよ!」

 早坂の言葉を遮る自分に武も驚いていた。冷静な自分が感情的になっている自分を分析する、ということはなく、思うがまま言葉を連ねていく。

「俺さ。お前に憧れてたんだよ。多分、由奈や若葉や橋本。町内会の下級生もさ。早坂は凄い強かったから。バドミントンに対して凄い真剣でさ、俺達は勝ちたいとか思ってるだけで実際に練習は早坂ほど真面目にやってなかった。だから負けてた」

 体力が無いからランニングが苦手。そして、放置。小学生の間に一勝も出来なかった理由は簡単なこと。
 体力が無かったから。
 それを補えた時、勝てるようになった。勝つ喜びを知った。

「今なら分かる。早坂は努力をしてた。俺達が見えないところで。だから俺はバドミントンをする人間としてお前を尊敬してる。だから」
「勝手な言い草よね」

 早坂が武の言葉を切り裂いた。
 口調は変わらない。内に宿る思いは変わる。今まで冷静に武へと返されていた言葉に感情が宿っていく。

「私を尊敬しているから練習サボらないでってことでしょ? なんで相沢の思い通りに動かなきゃいけないのよ。あんたのは単なる自分の意見の押し付けでしょ」

 違う、と武は口を開こうとしたが、喉につかえてしまう。自分の言葉を思い返すと早坂の言う通りだと納得してしまった。憧れは憧れのままでいてほしいという願望を、早坂に押し付けている自分に気づいてしまった。

「あ、いや、その」

 急に気持ちがしぼむ。早坂への怖さを押さえ込んでいた気持ちが一気になくなり、右足を一歩後ろに下げた。そのまま早坂は走っていってしまうだろう。そう思った武だったが、早坂は逆に一歩自分のほうへと足が踏み出した。

「私だって完璧じゃないんだから。バドミントン嫌になることもあるし、部活がめんどくさくなることもある。すっきりしないからランニングしたくなる時もあるんだから。相沢とか他の人の理想に重ねられるだけ迷惑よ」

 瞳に映るのは怒り。それは単純に武の身勝手を糾弾するものではない。何に対しての怒りかを想像し、武は一つの答えにたどり着いた。

「ごめん」

 畳み掛けようとしていた早坂の動きが止まる。ちょうど言葉の途切れる場所で謝罪をしたことで、タイミングを抑えられた早坂は前のめりになっていた体勢を戻す。

「ごめん。確かに押し付けてたよ」
「わ、分かれば……いいのよ」

 武が素直に謝ったことが予想外なのか、どう言葉を返したらいいのかと模索するように返答する早坂。その行動が武に少しだけ勇気を与えた。

「お前も俺らと同じ中二なんだって、忘れてた。強くてさ、大人びてて、なんていうか……特別視してた。アニメか何かのヒーロー? みたいで」
「……私ならヒロインじゃないの?」
「そうか」

 自分の言い間違いにも、早坂が真面目に間違いを指摘してきたことにも笑ってしまった。今までの感覚からは考えられない。

(そうだよな。早坂も同い年の女の子なんだよな。由奈や若葉と同じく)

 身体が軽くなる。苦手意識の根幹が揺らいでいく。

「じゃあ、次の部活は来るんだ?」
「ええ。少し悩んでたんだけど、もうどうでもよくなったから」

 やはり何かを悩んでいたのか、と武は言いそうになったが何とか抑えた。それを聞けるのは最も早坂の傍にいるだろう由奈だと思ったからだ。しかし、早坂の次の言葉に武は耳を疑った。

「私ね、強くなれるのか、悩んでた」
「え?」

 早坂の口から自分の限界を表す言葉が出ることもそうだが、武へと語り始めたということも驚きの要因だった。

(考えてみれば、早坂のバド以外って知らないよな)

 好きな食べ物やテレビなど。由奈や橋本のことは分かる。しかし、早坂だけはたまに由奈と話したり食事を共にしたときに見聞きする程度だ。バドミントンプレイヤーとしての早坂しか知らないことに、武は愕然とする。

(付き合いは長いんだけれどな)

 苦笑しそうになり、話の流れを断ち切りそうだと思った武は咳払いでごまかした。結局、一瞬だけ早坂の動きは止まったが、すぐに再開する。

「相沢に初めて負けた時から、思ってた。相沢はもっと強くなるだろうけど、私はどうなんだろうって。実際、私は自分が思ったほど強くはなれなかった。一年間やってきて、私はこの程度なのかなって、思った」
「学年別一位だし、そこまで弱くはないよ」

 その言葉に意味が無いことは口に出して分かる。早坂は結果自体には不満を感じてはいないのだ。

「相沢がダブルスで優勝した時、思った。もう相沢には勝てないかもしれない。シングルスでもきっと。それって悔しいじゃない。小学生の時なら絶対私のほうが頑張った自信がある。中学でも負けてない。それでも……差がついていくのを見るのは、辛かった」

 言葉に帯びる熱が武へと伝わる。同時に、早坂由紀子という偶像が崩れ去る。自分の思い違い。早坂も同い年の女子であり、悩みに押しつぶされそうなことがあるのだとはっきりと自覚する。

(俺、本当に馬鹿だ)

 小学生の間、ずっとバドミントンをやってきた仲間ならば、早坂の悩みに気づくべきだった。尊敬する対象だけとしか見れていない者を本当に仲間と呼べるのか。

「だから、少し離れたんだよね。それで気づいた」
「……何に?」
「やっぱり、バドミントン好きなんだなって」

 それは初めて語られる言葉のように、武には思えていた。

「なんか、負けないようにバドミントンをするようになってた。強くなって、負けたら恥ずかしさで死にたくなるくらい。だから、相沢に負けた時なんかほんと、落ち込んだんだよね」
「そう、なんだ」

 腕を組み、空を見あげる早坂の顔はしかし、清清しさを感じさせた。すでに過去の事と割り切っている雰囲気が武にも伝わる。

「でもやっぱり、バドミントンが好きで。だから、続けるんだよね。強くなるためにバドをするんじゃなくて、バドが楽しいから強くなれると思う」

 月明かりに照らされて自分のことを語る早坂を、素直に武は綺麗だと思った。今まで透明な幕が張られていたかのように見えなかった早坂の内面が、透き通って見えたからかもしれない。
 見惚れていたことで、早坂の動作に反応が追いつかなかった。急に視線を武のほうに向けたことで、視線がぶつかる。

「何、見てるの?」
「あ、いや、その。なんでもない」

 あからさまに不振な言動で場をごまかす武に、早坂は眉をひそめたがすぐに顔を緩ませた。

「まあいいわ。そろそろいくね」

 そう言って屈伸を始める早坂に何か言わねばならないと、武は言葉を捜した。ちょうど夜気も冷えてきて、先ほど火照った脳も冷めてくる。

「早坂」
「何?」
「強くなろう」

 動揺が収まれば、言葉は自然と口から紡がれた。首をかしげる早坂に、武は続ける。

「一緒に強くなろう。由奈や若葉や、橋本とも。一年間、確かに早坂は自分が思ってるよりも強くなれなかったのかもしれないけど……今年もそうとは限らないだろ?」

 自分が思っていることを精一杯伝えようとする。あまり口が達者のほうではなく、つっかえながらも。

「諦めないで頑張ってれば強くなれるって、俺自身が体験したからさ。早坂も……『強くなれること』を信じて、さ。一緒に頑張ろう?」

 武の言葉に早坂は答えず、背中を向けた。アキレス腱を何度か伸ばし、背伸びをしてから動きを止める。その間、武もまた動きを止めていた。自分の台詞が恥ずかしかったこと。そして早坂の次の行動までどう動いていいか分からなかったことで。

「ほんと、相沢に慰められるなんてね」

 振り向いた早坂の顔には、今まで武が見たことのない笑顔があった。

「じゃ、また明日ね」

 その言葉を残して走っていく早坂。後姿を武はしばらく見たままだった。
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