Fly Up! 52

モドル | ススム | モクジ
 吉田のコート内にシャトルはあったが、わざわざ小島がラケットをネットの下に通して取った。
 普通ならばそんな状況でも吉田自身がシャトルを取りにいき、小島へと渡す。義務ということはないが、自らのコートにあるうちはできるだけ自分でシャトルを取り、相手へ渡すことが礼儀だと思ってきた。
 しかし、吉田はサーブを迎え撃つ位置に戻るのも気合を入れなければならないほど体力を消耗していた。今まで気力でカバーしていたものが、集中力が途切れたことで一気に疲れが噴出していた。

(くそ……)

 今までに十分伏線はあったはずだった。小島が相手の攻撃パターンを真似してくること。それならば、自分の試合展開を真似することも予想は出来た。
 だが、吉田は錯覚していたのだ。小島自身は第二ゲームで吉田の体力温存のためにわざと動きを制限していたことについて騙されていなかった。だから自分が相手の温存策に騙されることに頭が回らなかった。

「ストップ!」

 再び集中力を取り戻そうと咆哮する。構えを取って小島のサーブを待つが、バランスの取れた体勢で固まったまま。その姿はまるで中世に作られた彫像のごとく、綺麗に見えた。

(この終盤でまだあれだけ綺麗なフォームを保てるのか)

 勝負からの一瞬の思考の緩み。その狭間を狙い打つように、小島のサーブが放たれた。一瞬遅れつつも足は動く。今までとは違い、身体は重く腕も上がりにくくなっていたが、シャトルを打ち返すと少しだけ力が戻る。小島から返ってきたバックハンド側へのスマッシュをタイミングを合わせてコート奥へと弾き返す。
 限界かと思われていた身体は、まだ動いていた。

(まだいける。まだ、戦える!)

 前に落とされたシャトルに追いつけず、ポイントは遂に並んだが吉田の闘志は折れていない。

「さあ、ストップだ!」

 先ほどよりも強い言葉に、小島の顔が少しだけ歪んでいた。



 ――試合が始まって、時計の針がついに一周と少し。その間もシャトルは少しの間をおいてラケットに弾かれ続ける。
 時に荒々しく、時にほとんど音もなく。
 全てのショットを最大限に使い試合を繰り広げる二人。
 十点を過ぎた頃から、誰もが応援のために声を出すことを躊躇していた。それほどまでに、二人の集中を削いではいけないと感じさせる試合だった。
 しかし、どんな試合にも終わりがやってくる。

「ポイント。サーティーンフォーティーン(13対14)」

 吉田のスマッシュが対角に決まり、拳を振り上げる。肩で息をすることを止められないほど消耗していたが、目の光は濁っていない。

(あと一点でセティング、だ)

 もう一点取れば三点追加のセティングに持ち込める。最も、橋本が行ったようにあえてしないまま続けるという選択肢を小島も選ぶことが出来る。
 吉田もどちらを選ばれてもいいように先入観を持たずにプレイするように意識をしていく。

(その前に、セティングに持ち込めなければ意味がない!)

「一本」と小さく呟きサーブを飛ばす。声を出す体力さえもなくなっている本当の終盤。
 サーブ権を取られた時にもう一度取り返せるか吉田には自信がなかった。諦めるつもりはなかったが、かなり難しいことになるのは間違いない。

(ここで取れれば、小島は必ず焦るはずだ!)

 吉田のハイクリアを追っていく小島の顔には疲労が色濃く出ていた。体温の上昇から顔は赤くなり、ワンプレイが終わるたびに汗の量は増えている。それでもポーカーフェイスが崩れないことは凄いと吉田は思ったが、他の点で限界を感じ取っていた。
 自分が騙された『振り』ではなく、本当の疲労が小島の身体を蝕んでいる。
 放たれたスマッシュをコート奥へと返す。それも試合の初期には中々出来なかったこと。体力が限界に近い今でさえも防御力は落ちてはいなかった。逆に小島のショットは正確さはあるが威力が落ちてきている。むしろ、この終盤でコントロールが変わらないことのほうが脅威だった。

(最後の勝負だ――!)

 ハイクリアが吉田のコートに飛び、真下に回り込む。ちょうど良い高さに、タイミング。

「はぁっ!」

 振りきられるラケット。

 そして――


 * * *


 シャトルがゆっくりと床に落ちる。
 ことり、と羽のひとつひとつが床に落ち、音を立てたような錯覚を覚えるほど周りの音は消えていた。
 消えてはいなかったのかもしれない。
 実際には試合が終わったことへの歓声が響き、拍手がまき起こっていたのかもしれない。
 しかし吉田の耳に聞こえてくるものは己の心音と筋肉のきしむ音。そして審判のコールだった。

「ポイント。フィフティーンサーティーン(15対13)。マッチウォンバイ、小島」

 自分の敗北を告げる声と共に、身体から力が抜けていく。集中力によって持続させていた体力は遂に底をついて、吉田は立つことができない。
 シャトルを拾おうとしてしゃがみこんだ体勢のまましばらく息を整えていた。

(き、聞こえる……)

 自分の息遣いの合間から、何かが強く弾ける音。耳の奥がクリアになっていくと共に、その音は大きく多くなっていく。一度思い切り深く息を吸い込み、吐き出して立ち上がった吉田の前には、拍手の洪水が押し寄せていた。
 小島と吉田を取り囲む拍手。他コートの試合はもう終わり、フロアに残っていた選手や審判を務めた生徒も客席にいる各校の生徒達と共に手を叩く。

「お疲れさん」

 差し出された手は小島のもの。ネットの下から吉田へと手を伸ばす。汗にまみれた右手をハーフパンツに擦り付けて拭くと、力を込めて握った。 ある力を思い切りださなければすぐ離してしまいそうだったから。

「さすがに強かったな」
「それはこっちの台詞だよ」

 すぐネットに阻まれたが、その後は自力で身体を起こした。少しふらついたものの、もう倒れはしない。

「正直言って、もっと楽に勝てるかと思ったよ。三ゲーム目の点数追いついてから」
「多分、試合始める前の俺なら負けてたな」
「俺が強さを引き出したってか?」

 冗談めかして呟く小島に吉田は真面目な顔で頷いた。そこから、小島も顔を引き締める。

「俺もこの地区で一位だったからな。俺より強いやつが同年代でいないから、なかなか一つ段階を超えられなかったんだ。でも、一気に三段くらい飛ばした気がするよ」
「なら、俺も感謝しないとな」

 手を離して小島は一歩離れる。その顔には次に言う言葉への羞恥があった。
 吉田にはその先がなんとなくであるが分かっていた。それを思うと口元に笑みが浮かびそうだったが、小島の羞恥を考えて何とか押さえ込む。

「俺も、三段飛ばしくらいは出来たみたいだ。お前がいてくれてよかった」

 それだけ言うと小島は顔を俯かせて去っていく。その足取りは目に見えて弱弱しい。それが体力の限界は相手も同じだったのだと吉田に気づかせる。

(同じ一年だし、な)

 気が抜けると倒れそうになったが、自分にはまだそれは許されないと吉田は気を張り詰める。これから少し休憩の後にはダブルスの準決勝がある。元々はこちらが本命だったのだ。

(そう。相沢とダブルスで一位を取る。それが、学年別の目的なんだ。本番はこれからだ)

 ふらつく足を軽く叩きながら吉田も自分のバッグへと近づいていく。耳に入るのはアナウンスの声。これから二十分の休憩の後にダブルスの準決勝を開始するとのこと。

(二十分でどこまで回復させられるかな)

 吉田はゆっくりと息を吸い、吐く。繰り返しの中で酸素を身体中に循環させていく。回復力を高める練習は親に指導されていたが、吉田自身ここまで体力を削られた上での回復というのは経験がなかった。

(それでもやるしかない。ダブルスは一人じゃ出来ないんだ)

 今の凄まじい試合はダブルスに出場する選手達も当然見ているだろう。そして、体力が低下した自分を狙ってくるだろうと吉田はビジョンが見えていた。弱いほうを狙うのがダブルスの基本。体力の低下で技術力は落ちていくだろう。

(あいつに足りない経験を、俺は積ませる。そうすればあいつは……)

 掴む手に力が入らず、バッグが下に落ちようとする。それを止めたのは武の手だった。下まで降りてきた武は「お疲れ様」と言うとバッグを肩に背負った。

「悪い。偉そうに言ったけど負けた」
「いーや。十分見せてもらったよ」

 武の瞳に灯る光を見て、吉田は身体の奥底からくる震えを感じていた。武の全身からみなぎるのはこれからの試合に対する闘志。今まで部活や今日の試合を通して初めて見せる気迫。

「吉田はゆっくり休んでくれ。試合はきっと狙われるだろうけど、なんとか俺がカバーする」

 拳を握って胸元に近づける。その動作はとても力強く吉田の中に張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

「二人で勝とう」
「……ああ」

 自分が何とかしようと思っていた。
 武のことを信頼していないわけではなかったが、弱いほうを狙うのがダブルスの常ならば、武が狙われるのは明白。少しでも自分が良い配球をして、武にチャンス球を上げさせる。そうすれば攻撃が激しくなり、それが最大の防御となる。
 今まで部活でやってきたことはそれ。吉田がコースをつき、相手に上げさせ、武がスマッシュを相手に打ち込む。
 攻撃力ならば武のほうが上。それを持続させる体力がなかっただけ。
 体力をつけ、吉田の配球の上にあれば最大限に力を発揮できた。
 だが、今。
 初めて吉田は武を自分と対等のプレイヤーと認めた。
 実力ではまだまだ武は下だろう。しかし、初勝利を上げ、刈田とも熱い勝負を演じ、吉田の試合をその目で見た武は一日で凄まじい成長を遂げたと吉田は思っていた。

「次の相手は……」

 片手に持っていたプログラムを眺めながら呟く武。それを横目で見ながら、吉田は声に出さず笑った。
 人の成長する過程を見ることの楽しさが吉田を包んでいく。

(相沢はどこまでいけるんだろう?)

 ダブルスでの最高のパートナーは西村だった、という事実はまだ変わらない。しかし、このまま武が経験を積めばそれ以上の頂に昇れるかもしれない。
 そう期待をしながら、吉田は武の後ろをついていった。


 ◆ ◇ ◆


(はやく試合がしたい)

 武は吉田のバッグを握る手に力を込める。少し遅れて歩く吉田の靴音が弱々しいのは、体力の低下からくるものだと武は想像する。二十分でどれだけ体力を回復できるか。

(そんなに回復できるはずない。なら、俺も吉田くらいやらないと)

 自分がどれだけ吉田に頼ってきたのか。それをシングルスの試合を見ていて武は思い知らされた。
 角を突く技量。思考を止めず、配球を続ける体力。
 その背中に乗ってスマッシュを打っていればよかった自分。もちろん、武なりに考えてはいたが、吉田と比べれば明らかに足りない。攻めが続いている間はやはりスマッシュに気を取られてコースを突こうとする思考が働かなくなった。

(考えて打つ。何度も言われてきた。俺も少しはやってきた。……でも、ここで通用するのか?)

 武の闘志が燃え上がる。勝利の先にあるものを掴むために。
 だがその裏に広がる不安にまだ武は気づいていなかった。
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