Fly Up! 53
ついに、その時がやってくる。
* * *
客席の椅子に横たわる吉田の姿を見ながら、武は先ほど終えた試合を振り返っていた。予想通り、小島との試合で体力を消耗しただろう吉田に向けて相手ダブルスは集中攻撃を仕掛けてきた。
吉田は上手く前に落として相手にシャトルを上げさせ、それを武が叩き込むというパターンに持ち込むことに成功。見事勝利を掴むことができた。
(でも、吉田はこうして疲れてる。これじゃ……決勝は勝てないかもしれない)
決勝は明光中の安西・岩代組。バドミントンの経験が中学からというのに経験者を含めた大会で決勝までコマを進めてきた。試合中に隣りのコートの彼らの試合を視界に入れたが、吉田が本調子でも接戦になりそうな実力を持っていた。
(個人の実力は吉田や、俺に劣ってる。でもダブルスはそれだけじゃ勝てない)
互いが互いの呼吸を読み、合わせるコンビネーションがダブルスの強さを生む。まだ吉田に助けられている部分が多い武は、本当の意味でパートナーにはなっていなかったと感じていた。
「ふぅ」
「おぉ、起きたか」
吉田が顔にかけていたタオルを取って、吉田は深く呼吸を繰り返す。武は自分の後ろ向きな考えを悟られないように気をつけながら声をかける。
「体力はどう?」
「結構きついけど、あと一試合ならいけるわ。相沢」
身体を起こして武の目をじっと見つめる吉田。目から放たれる光の強さに武は身動き一つ出来なくなる。口の動きだす瞬間までもスローモーションに見える、一瞬。
「決勝戦も同じように行こう」
「同じって……吉田が上げさせて、俺が決める?」
「そう。それが俺達が一番強さを発揮できるパターンだ」
まだ額に残る汗を拭きながら吉田は笑う。その考えに躊躇など全くない。それがどれだけ吉田の体力を削るのか分からない武ではなかった。落ちてくる『足手まとい』という考え。吉田の上でしか羽ばたけないプレイヤーに価値はあるのか。
「俺って、そんなに頼り、ない、か?」
「……え?」
武の言葉に吉田も笑みを止める。二人の間に、少しだけ広がった溝。その正体を問いただそうと吉田が口を開いた瞬間、試合を告げるアナウンスが体育館に響き渡る。
『学年別一年ダブルス決勝、吉田君、相沢君。安西君岩代君。第一コートにお入りください』
アナウンスに途切れる吉田の声。それは数秒のことだったが、武は何分にも感じられた。
時が経つだけ吉田との距離が離れる。心の距離が。
「決勝、頑張ろうな」
「ああ」
吉田が何を言おうとしたのか武には分からない。ただ、今のままでは負ける確率は高いだろうということ。余分な考えを消して試合に集中しなければ勝てる相手ではない。それでも武は迷う。
(俺は俺のバドミントンを出来てるのかな……)
何故急にそんな想いが噴出したのか。吉田の後ろを歩きながら考え、武は一つの結論に至る。
準決勝が始まる前から武の中にあった、微かな不安の正体。
(やっぱり、俺は足を引っ張ってるのか?)
吉田という男の強さをまざまざと見せつけられた。
自分が負けた刈田。そして小島との試合。現在見られる最高のシングルスは試合を見た誰もの心に深く刻み込まれたはずだ。
そして武の心にも現実が突き刺さる。
(俺はどれだけ吉田との差があるんだろう)
刈田と会話した際にも「狙われるのは自分だ」と言った。弱いほうを狙うのがダブルスの常。吉田より実力がないことを素直に認めていた。
だが今、吉田の体力が落ちて狙われる対象となった時。武は自分の弱さをはっきりと自覚した。吉田を助けてダブルスを共に勝とうと決めても、結局何も出来ずに準決勝は終わり、決勝をむかえている。
(初めてだ。こんなに自分が弱いことが辛いなんて)
吉田は何も言わない。話す体力さえも温存して試合に臨もうというのか、フロアに下りてコートの横にラケットバッグを置いてからも口を開くことはない。奇妙な沈黙の中、武はラケットを軽く素振りするしか場を繋ぐことが出来ない。
少しして相手の二人が現れる。これから始まる試合が楽しみなのか、笑いあいながら試合の進め方を決めているようだった。武には微かに聞こえてくる声が吉田を狙おうと言っているような気がしていた。
「吉田」
「ん?」
フロアに下りてから初めて交わす言葉。だが吉田の顔を見て、武は息を止めてしまう。言いたかった言葉が喉の奥に押し戻される。
(何とかフォローするって、俺程度が言っても意味ないよ)
「試合を始めます」
審判の声に反応し、吉田は首をかしげながらもコート中央へと進んでいった。
(言葉より行動で示すしか……ないよな)
ため息を一つ。武も後に続いていった。
* * *
「一本!」
「おお!」
吉田の咆哮に応える武。だが、声の強さとは違い気持ちは乗り切れていなかった。ネットぎりぎりにシャトルを飛ばしたショートサーブ。飛ばされたロブの下に回りこみ、ラケットを振りかぶる武。
「はっ!」
構えからインパクトまで。最大限に力が伝えられ、空気が弾けるような音と共にシャトルが相手コートに吸い込まれる……はずだった。
シャトルは吉田の前を通り過ぎ、ネットに突き刺さって勢いを完全に殺されていた。
「ポイント。テンファイブ(10対5)」
ポイントが入るたび、明光中の部員達が歓声を上げる。決勝に進んだ部員が他にいないため、全員が安西・岩代組の応援にきていた。
「気にするな」
シャトルを拾って相手に返した吉田は、武の肩を軽く叩く。ユニフォームの布地が肌についたところで、自分が思った以上に汗ばんでいることに武は気づいた。心臓の動悸も速さを上げている。
(なんだ、これ……)
自分が弱気になっていることは分かる。何がそうさせているのかも。
だが、どうすればこの感覚を制御できるかということが分からない。身体と心が全く別々に動いていた。
「と、言っても気にするよな」
吉田は軽くため息をついて武を即した。試合を止めるわけにはいかない。しかし、武は流れ落ちる汗の一滴一滴を感じ取れると錯覚するほど、止まった時の中にいた。一人だけ周りから隔絶されている。自分が今いる場所の遺物と化したような不安。目の前の世界が夢の出来事ではないかとさえ思えた。
(なんか、もう、疲れた、な)
諦めのため息をつきかけた瞬間。背中に衝撃が走った。ため息が咳に変わり、時が動き出す。
「えほっ……な、なんだ?」
「いい加減落ち着けよ」
いつの間にか吉田が隣に並んで背中を叩いていた。軽く叩かれる背中。どうやら咳き込んだ時も同じような力だったらしい。周りを見ると武が構えないことに対しての白い目線がいくつか突き刺さった。
「あ、すみません!」
急に恥ずかしさがこみ上げてきて、武は謝罪のあとで自分の位置に立つ。吉田も笑みを浮かべて自分に来るサーブに備えた。
(この感覚は……)
背中から伝わる吉田の思い。部活の間にも何度となく行われていた行為。
(部活も試合も、同じバドミントン、か)
そう感じてはいても、まだ武の身体は主の元へと帰ってこない。
吉田はシャトルをネット前に落とし、相手ペアに上げさせようとしたがサーブを打った安西が更にヘアピンで応戦する。吉田も負けじとヘアピンでシャトルを浮かせない。目立たないが、ネットぎりぎりの戦いは神経をかなり使う。少しでも浮けば相手も目の前にいるからこそ叩かれてしまう。それだけに集中力へと体力は吸い取られる。点数的にまだ余裕がある安西は、吉田の体力を減らす作戦に出たのだ。
(このままじゃ、吉田が体力減らされるだけだ)
ほんの少し浮いたシャトルを吉田は見逃さずに安西の肩口を抜かしてコートへと叩き付けた。ナイスショットと上から来る歓声。いつもならば武も合わせて叫ぶところだが、タイミングが外れてしまう。
「ナイス」
ネット前から戻ってくる吉田に向けて軽く手を掲げる。
「次もストップだ」
「うん」
肩を軽く叩かれて、武はサーブラインぎりぎりに構える。サーブを待つ間に思考を埋めるのは吉田の表情。辛さを見せてはいなかったが、その裏側にどれだけの疲労を蓄積しているのか。それを考えるとまだ不敵な笑みを浮かべる吉田に同じような表情を返すことが出来なかった。
「ストップ!」
声だけが、威勢がいい。ネット越しに見る相手の姿。自分とあまり変わらない身長にもかかわらず、頭一つ分大きく見えていた。
(緊張してるからだ。サーブの瞬間だけ見ろ!)
自分に言い聞かせ、シャトルを持つ左腕とラケットに意識を向ける。
シャトルが手から離れ、ラケットに弾かれて――
(なっ!?)
サーブに反応して前に詰め寄った武だったが、先にシャトルはなかった。空しく響く足音。振り返った先に、ダブルスのロングサーブラインへと落ちていくシャトル。
そのまま見送ることしか出来なかった。
「ポイント。イレブンファイブ(11対5)」
『ナイスサーブ!』
身体に染み込んでくる明光中の応援。緊張と、手元だけに意識を集中していることが見抜かれていたと気づくのにさえ時間がかかる。
「ドンマイ」
吉田の声が聞こえる。身体の奥から込み上げる感情は、武を不快にさせた。
(初歩的なミスして怒らないのかよ……俺のミスなんて想定内ってことか? 怒る価値もないのか)
「ごめん」
吉田に一言告げて、シャトルを取りに行く。
武の心は短時間でその彩を変えていった。
無力感、羞恥、そして怒り。吉田に対する感情が安定しない。自分自身への感情が崩れていく。今のロングサーブも試合に集中できていれば騙されても追いついて何とか打てるシャトルだった。それでも追わずにただ立っていただけの自分が恥ずかしい。
「相沢」
「ストップしよう」
吉田の言葉に振り向かず、ただ自分の意見を押す。相手に届いたかなど関係ない。今の武はコミュニケーションなど無視し、試合に戻ることだけが大事だった。最後まで吉田の目を見ずに構える。
次は吉田へのサーブ。
だが、受け手である彼はラケットを見て目を細めていた。
「審判。タイムお願いします。ガットが切れました」
吉田はそう言ってラケットバッグに向けて歩いていく。張ってあるガットが切れたのは小島と試合をした時のラケットだったと気づいて武は納得がいった。凄まじい死闘を演じたラケットなのだから、ガットが磨耗するのは当たり前だ。
しかし、吉田は自分のラケットバッグを一通りあさった後で、客席に向けて声をかけた。
「ごめん。俺のラケットが近くにあるはずなんだけど、持ってきてくれる? 出したまま置いてきちゃって」
吉田の言葉にざわめき。その間に審判に向けて吉田は事情を説明し、試合を中断することを詫びた。
「あった。これ!?」
そう言ってラケットを掲げたのは早坂だった。吉田が頷くと早坂はフロア階段へ走っていく。
「相沢。時間がないから簡単に言うぞ」
審判と安西達に謝罪した吉田は武の傍に来て口を開く。ばつが悪く目を逸らそうにもタイミングを外してしまい、真っ直ぐ見ることになる。
「俺をカバーしようと思うな」
「え、で、でも」
自分の考えを知られていたことも驚きだったが、それでは吉田の体力が切れてしまうのではないかという思いが武の口を開かせる。しかし、吉田は畳み掛ける。
「お前はどうしたい? 俺は勝ちたい。今、このペアで。未来はどうなるか分からない。だから今、やりたいことを精一杯したい」
「吉田……」
「相手の隙を見つけることだけにしろ。攻撃は最大の防御だ。それがカバーになる。お前はカバーの仕方を間違って考えてるだけだ」
吉田の掌が背中を軽く叩く。同時にフロアの扉が開き、ラケットを持った由奈が走ってきた。
(由奈?)
早坂ではなく、由奈。由奈は吉田にラケットを渡した後で武に向けて呟いた。
「勝って」
吉田の言葉。由奈の言葉。
一つ一つが、武の心に突き刺さっていた。
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