Fly Up! 323

モドル | ススム | モクジ
 姫川がハイクリアを打った瞬間に、藤田はそのシャトルに込められた意思のようなものを感じた気がしていた。不確かな感覚の産物であり、直ぐに目の前の相手が身構えたのが見えて意識をネット前に集中すると霧散したが、脳の片隅に不安と共にこびりつく。

(ここは落とすわけにはいかない)

 藤田は息を鋭く吐くと、シャトルの真下に移動した高崎がラケットを振りかぶる所にタイミングを合わせる。
 ラケットが振り切られた時に放たれるショットは二種類。
 自分が届く範囲に来るか、来ないかだけ。
 手の届くところにシャトルが飛ばされるならどんなシャトルでも取ろうと、藤田はシャトルの動向に集中する。ハイクリアでも飛び上がれば届くかもしれない。スマッシュでも同様。ネット前だろうと高い場所だろうと、迷わずラケットは差し出す。
 そんな藤田の決意を飛び越えるように、綺麗な弧を描いてシャトルが自分達のコートへと入ってきた。シャトルを追うのは当然姫川。

「はあっ!」

 これまでと変わらずにハイクリアを打つ。今度はクロスでシャトルが飛んでいき、コートを斜めに切り裂く。これまでと同じ戦略ではあるが、違うのは相手の陣形だった。
 これまで相手は基本に忠実なローテーションを組んでいたのだが、今のラリーの開始から藤田と姫川と同じようにトップアンドバックに変更した。スマッシュやドライブのような強い攻撃を藤田達がほぼ仕掛けないことから、攻撃の陣形であるトップアンドバックを崩さないまま試合をするというのは戦略的にあるかもしれない。ただ、そうなるとこちらが空いているスペースへと積極的にシャトルを叩き落とす作戦に変更すれば良いだけなのではないかと思える。
 藤田の目から見て、敵チームには姫川ほどの機動力はない。自分達がローテーションをしないままで来られたのは、姫川の軌道力と防御力に支えられていたからだ。誰もが取れる戦法ではない。

(それでも、姫川はスマッシュを打たない)

 あからさまに空いているスペースに対して、姫川はスマッシュではなくハイクリアを打ち続ける。クロスに打ったシャトルがストレートに返ってきて、姫川は迷わずストレートに打ち返す。相手と同じ、綺麗な軌道を通ってシャトルが飛んで行く。その先にいる高崎の眼が鋭く藤田を捉えたように思えた。

(来る!)

 ラケットを自分の目の前に掲げたと同時に向かって来るシャトル。これまではサイドを狙っていたが、明らかに藤田自身を狙ってきた。ラケットを顔の前に掲げてシャトルを弾き返すと、そこに小川が突進してくる。上手く返せたが小川がプッシュを打つには十分の間があり、藤田は判断を迫られる。
 躱すか、取るか。
 選択肢が生じた時点で藤田は思いきり体を沈めた。迷った状態でシャトルをちゃんと打てる自信はなく、姫川に任せることにする。
 藤田の即断に驚いたのか、小川が前に飛び込んできた動きが少しだけ鈍り、プッシュでシャトルが飛んでいくも藤田の想定よりは弱まった。
 速度が弱まれば、たとえ際どいコースでも姫川に取れないシャトルはない。藤田と姫川がいた場所の中間地点に落ちようとしていたシャトルは藤田の予想通り、姫川がロブを打ち上げることで危機を回避する。足は肩幅に開いて腰を落としたままで、藤田は次の相手のショットを待った。ネット前でインターセプトすることだけに意識を集中すると、自然と後ろへと移動するようなことはなくなっていた。

「はあっ!」

 姫川と同じポジションを選んだ高崎がスマッシュを放ってくる。今度は左サイドぎりぎりを通過するシャトルだったが、藤田はスピンをかけた時と同じく、左側へと体ごと飛び込んでラケットを差し出す。飛んでくるシャトルにタイミングを合わせて横からラケット面をスライドさせればシャトルコックにかかる力のベクトルによって鋭いスピンがかかる。少なくとも、自分の技量不足で上手くかけられないスピンよりは。
 成功した時と同じ感覚を信じた藤田はラケットを伸ばすと、シャトルにこすれる。乾いた音を残してシャトルは勢いをなくし、急に回転して相手側のエンドへ落ちていく。
 藤田の中に成功したことへの歓喜が生まれ、次には焦燥へと変わった。
 相手のスマッシュをヘアピンで落としたまでは良かったが、そこには既に小川が迫っていた。前とは違い、藤田の行動を完全に読んでいた小川は今度こそプッシュを強く叩きこむ。

「取るよ!」

 それでも背後から姫川の声が聞こえたと共にシャトルが弾き返される。コースは藤田と小川がいた場所の反対側へと放たれた。藤田の体がブラインドとなり、打ち筋は見えなかったはずだ。シャトルがプッシュされた後で追いつくのはいくら姫川の速度でも厳しいはず。それでも現実にシャトルはしっかりと奥へと返されて高崎が追っていった。予想をこえたラリーに体が硬直したのは、ほんの一瞬。すぐに藤田は所定の位置へと戻り、次のショットに意識を向ける。
 またしてもスマッシュは藤田の顔面を襲い、同じように返すと小川が打ち、姫川が拾う。
 前衛で守る藤田を躱すのではなく、真正面から打ち抜こうとしてきた相手に対して、藤田は小刻みに呼吸しながらチャンスを待つ。相手の動きにほころびがでることを。

(ずっとトップアンドバックしてるから、きっと高崎のほうに疲れがたまっていくはず。逆に、小川はローテーションしないからストレスが溜まってるはず!)

 体が覚えているローテーション通りに動かないことによるストレス。それは精神を先に蝕んで体に作用する。
 体に染みついた感覚に従って、反射的に動こうとする体に気づいて抑え込む。それはまだダブルスの動きが甘い藤田だからこそ最小限に済んでいた。東東京のダブルスのように理想的で、教本に載るような滑らかなローテーションをする二人にはどれだけの精神的負荷がかかるのか。

(その負荷に耐えられなくなるまで、私達が耐えたら、勝ちだ!)

 藤田はここで自分のなすべきことを感じ取った。
 どんなに現状を崩そうと相手が隙を見せてきても、自分達の戦法を変えない。相手の陣形に隙があっても、そこは相手の罠。ひとたびシャトルを打ち込めば先んじて反応されてカウンターをもらうだろう。
 今までラリーを続けていられたのは、シャトルに触れるだけという限定的な動きしかしていなかったからであり、シャトルにスピンをかけてヘアピンをしても今のように取られてしまう。決まったのは初めて打ったからであり、相手の思考の隙を突けたからにすぎない。
 高崎と小川は全てのシャトルに反応しようと、神経の網をコート全体に張っている。少しでも甘いシャトルを打てば叩きこんでくるに違いなかった。

「はっ!」
「やあっ!」

 姫川がハイクリアを打って、高崎がスマッシュを放つ。藤田がネット前に落とし、小川がヘアピンで返してくるのをまたヘアピンで落とす。同じような光景が繰り返されていき、徐々に周りも静まり返っていった。コートの外から自分達を見る仲間の視線が次第に緊張していくのが感じられたような気がした。

(そんなの感じ取れるわけ……ないのにね!)

 藤田は分からなかったが、その感覚は武や早坂が感じたことがあるものに近い。相手のシャトルへの集中力を高めたことで感覚が鋭敏になり、自分に向かう意識を感じ取っている。自分よりも実力が高い三人に囲まれることで、一時的にかもしれないが、藤田もまた上の領域へと足を踏み入れていた。それもダブルスのスピードについていけている証ではあるが、今の藤田のそのことを喜ぶ余裕はない。

「はぁあああ!」

 高崎が渾身の力を込めたといわんばかりの咆哮を上げてスマッシュを打ち込んでくる。シャトルの軌道は藤田の顔面を貫いていた。これまでよりも一段階上の速度に対してラケットを掲げるタイミングが遅れ、衝撃を殺しきれずにこれまでで最も高くシャトルを弾いてしまった。

(しまっ――!!)

 明らかなミスショット。その時、ネットを挟んで向かいにいる小川の表情が明るくなった。ラケットを掲げて飛び上がり、藤田に向けてシャトルを叩きつけようと振りかぶる。
 シャトルに向かってラケットが振られた瞬間、藤田が取った行動は一つだった。
 その場から飛んで逃げること。
 シャトルをぶつけられては取ることができない。
 自分が逃げるのに誰が取るのかということは全く考えなかった。それはただ一人しかいなかったから。

「はあっ!」

 小川がシャトルを藤田へと振り下ろした瞬間、ラケットがシャトルを弾く音が二つ重なって響いた。
 藤田は横に着地を気にせずに飛んで尻もちをつく。床とぶつかった衝撃音にまぎれて聞こえた二つの音の結果は、目の前の光景が教えてくれた。
 シャトルは小川の目の前に落ちている。そして、自分がいた場所には姫川が出現していて、息を切らせながらラケットを自分の目線の高さへと水平に上げていた。

「ぽ、ポイント……サーティン、エイト(13対8)」

 審判が遠慮がちにカウントする。今、目の前で展開された光景が衝撃で簡単に信じることができなかったのだろうか。藤田もまさかの展開に目を疑ったのだから無理ないかもしれない。当の本人が、まさか打ち返せるとは思っていなかったのだから。

「な、ナイスショット」

 打ち返した当人も放心状態からまだ戻ってはいないようだった。打ち返された相手も、打ち返した姫川も、自分達の間に何が起こったのか頭の中で整理するのに時間が必要のようだった。
 藤田はゆっくりと立ち上がり、もう一度姫川に言う。

「姫川。ナイスショット」
「……あ、うん」

 姫川は藤田の方を見て頷く。ようやく呆然とした状態から戻ったのか、藤田が上げる左手に自分の左手を軽く打った。その音が再開の合図になったかのごとく、小川も自分の前に落ちたシャトルを拾って藤田へと投げて渡す。不機嫌そうな顔を隠さずに自分のレシーブ位置に戻り、脛にラケットを叩きつけることで自分への怒りを発散していた。

「まさか返せるとは思わなかった」

 藤田にシャトルがぶつけられるということは藤田自身も、後ろで見ていた姫川にも理解できていた。二人の理解の速度と次への行動がほぼ同時に行われ、藤田はその場から離れ、姫川は藤田がいた場所へとラケットを突き出して進んだのだ。もし藤田を狙うということを小川が考えず、最短距離でプッシュを叩きこむという思考だったならば間に合わなかったか、軌道上にラケットを乗せることができなかったか、どちらにせよラリーは負けていた。
 相手の狙いが分かりやすかったこと。そして、小川がネットまで振りかぶったことでシャトルを打つ時間が少しだけ遅れた。それら相手の要因と、自分達で取り決めた事を互いに実行しようという意識が、明暗を分けた。

「言ったでしょ。責任、取ってくれるって」
「我ながらびっくりしたよ」

 神がかり的なフォローを決めたことを自覚して、姫川はまた興奮してきた。だが、藤田はラケットで軽く背中を叩くとシャトルを見せて言う。

「ラスト二本、フォローお願いね」
「うん。任せておいて!」

 姫川が後ろに回り、藤田はシャトルを整えてサーブ体勢を取る。斜め前で構える高崎の表情はこれまでと異なって暗く沈んでいた。必死に掴んでいたロープを手放してしまったかのように。高崎から視線を外してシャトルを意識し、ラケット面を添える。

「一本!」
「一本ー!」

 変わらずに後ろから来る声。自分の疲労と、シャトルと、ラケットの位置と、相手との距離。いろいろな要素が一瞬で藤田の中へと入ってきた結果、彼女の手が動いてシャトルが放たれた。
 シャトルは綺麗に白帯スレスレを通って向こう側へと落ちていく軌道を取る。藤田の今の感覚では、外すことは考えられなかった。自分が打ったシャトルが軌道に乗るというよりも、透明な筒が相手コートに伸びていて、そこに自分はシャトルを打って入れるだけという錯覚を覚えるほどに、力加減を間違える気がしなかった。これまでの調子の良さを崩すことなく、逆に相手の調子を崩してきたからこそ見える何か。藤田には、前に出た高崎のプッシュがネットを越えるイメージが見えなかった。実際に、高崎の返球はネットに当たり、自分の方へと跳ねかえっていた。

「ポイント。フォーティンマッチポイントエイト(14対8)」

 あっさりとマッチポイントが告げられる。藤田は放たれたシャトルを受け取り、羽部分がボロボロになっていることに気づいてシャトルの換えを要求した。審判から真新しいシャトルを受け取って最後のサーブへと赴く。

「ラスト一本。行こう!」
「……うん」

 藤田は最低限の返事をして息を深く吐いた。肺の中の酸素を全て外に出してから、ゆっくりと深呼吸をして空気を入れ替える。血液を通して新鮮な空気が体中に広がっていくような気がしたところで、藤田は小川へと視線を向けた。
 高崎と同じように焦燥感が浮かんだ表情。一気に追い詰められて、自分達の敗北だけではなくチーム全員の敗北まで背負うことになってしまった相手の感情は藤田にも分かった。
 それでも藤田は静かに「一本」と言ってシャトルを放った。
 ネットを越えて相手のコートへと落ちていくシャトル。前に飛び込むということはもうなく、小川はシャトルを見送りながらラケットを構える。そのラケットが躊躇するように止まり、シャトルはそのままコートへと落ちた。
 実際にはありえないが、コートに落ちたシャトルが立てた小さな音が耳に入ったような気がしていた。

「ポイント。フィフティーンエイト(15対8)。マッチウォンバイ、藤田姫川。南北海道」

 試合時間だけならば今大会でも上から数えた方が早いような長い時間の、あっけない幕切れ。
 審判の声が意味しているところ最初、藤田は理解できなかった。意味も分かるのに、それが告げる事実はどうしてもすんなりと入ってこなかった。しかし、藤田に肩を叩かれ、次にはコート内に押し寄せた仲間達に押しつぶされそうになったことで藤田の中へと押し込まれていく。

「勝った……次、進めるんだ……」

 許容量がけして多くはない胸の中に入ってくるもの。仲間達の喜びの声や、決勝進出という事実に胸が苦しくなって藤田は泣いた。不快なものではけしてなく、涙を流すほどに心が暖かくなる。苦しさから逃れるようにして口を開いて声にならない声を漏らしていた。

 全国バドミントン選手権団体戦。
 南北海道、決勝進出。

 優勝まで、残り一戦。
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