Fly Up! 313

モドル | ススム | モクジ
 シャトルが早坂の差し出したラケットの先を越えていく。もう半歩届かない足の代わりに必死に伸ばした腕も、関節が外れそうな痛みを伴った結果、無駄になった。シャトルは早坂の感覚的にはゆっくりだったが、実際にはこの試合最速でコートへと叩き落とされていた。東東京からの歓声と観客席からの感嘆のため息。そして拍手。早坂は体勢を崩してコートに膝をついたが、自分のラケットを越えて着弾したシャトルに視線を向けて、一息ついた。

「ポイント。テンオール(10対10)。セティング、どうしますか?」
「します」

 審判からの声に即答して早坂は立ち上がる。有宮の姿は見ずにシャトルへと向かい、拾い上げた。羽はまだ持つと思っていたが、その場で軽く打ち上げるとすぐに羽は折れた。
 自分の手にシャトルを収めてから審判へと申し訳なさそうに言った。

「……シャトルの交換、お願いします」

 シャトルをひらひらと周囲に見せるようにして交換を告げると、審判は頷いてシャトルを有宮へと渡した。早坂はまたコートの横に軽く打とうとして、瀬名の姿が目に入る。

(よーし)

 早坂はいたずらっぽい笑みを浮かべると、瀬名へと向けてシャトルを打った。真剣な目で早坂の試合を見ていたためか、今はどこか気の抜けた表情をしている瀬名の顔にぶつかりそうになり、慌てて手を使ってシャトルを受け止めた。

「こら。ぼーっとしてるんじゃないわよ」

 早坂はわざわざ立ち位置から移動して、瀬名に近づきながら答える。動揺して何も言えない相手の様子に更に頬をほころばせながら、早坂は告げた。

「最後まで私を見ていなさいよ。勝つから」

 瀬名にも、今、試合を見ている選手達、全員に向けた言葉だ。武はすでに吉田と共にダブルスに入っている。向こうの様子も理解しようと思えば分かったが、そちらに思考を割く気はなかった。言葉にしなければ押しつぶされてしまいそうなほどに、有宮のプレッシャーは大きくなっている。せっかくゲームポイントだったのに追いつかれ、セティングとなった。これまでも何度かセティングを選択することがあり、戦略的に考えて選ばない時もあった。
 しかし、今回ほど即答でセティングを求めたことはなかった。
 それだけ、躊躇していられない相手。倒すことに全てを集中させるため、他の雑事には気を張っていられない。

「セティングポイント。ラブオールプレイ!」
『お願いします!』

 得点をゼロに戻して始まるセティングポイント。十点からのため、二点先取したほうが勝つ。
 まずはサーブ権を取り返さなければ、喉元に剣をつきつけられた状態は変わらない。早坂はラケットを掲げて相手のサーブに注目する。前と後ろのどちらに飛ばしてくるのか。その先読みをする思考をまず止めた。
 先読みで外すにはあまりにリスキーな状況。ならば、打った後に反応して最速で打ち返せるようにと全身の感覚を研ぎ澄ませ、集中力を高めた。

「さあ、一本!」

 有宮は全身に闘志をみなぎらせてシャトルを高く打ち上げる。高く。とにかく高く。本当に天井に届いてしまいそうなほどの弾道でシャトルは飛び、落ちてくる。それだけの高さに飛ばしながらもしっかりとコントロールされており、早坂の感覚ではコートの後ろのライン上に落ちてきていた。無論、感覚のみならばアウトの可能性もあるが、この場面で見逃してインだった時のリスクを考えると打たずにはいられない。

(そういうのを考えて、有宮も打って来てる)

 結果的に、早坂が見逃すことはできないと分かってのサーブ。ほぼ真上から落ちてくるシャトルほど打ちづらいものはなく、今、早坂が相対しているのはこの試合が始まって以来、最も打ちづらいものだった。

(有宮は……)

 シャトルの落下地点に移動するのは簡単だった。だが、相手の動きを確認する時に一瞬視線を有宮のほうに移すのは、シャトルが落ちてくる角度が浅いほどやりづらい。眼を素早く動かして有宮の立ち位置を見ると、コート中央にどっしりと構えていた。どう見ても、隙を探すことはできない完璧な位置に、早坂は覚悟を決めてラケットを振った。

「はぁあああ!」

 腕の振りは最速。半分は、失敗してしまっても仕方がないと本気で考えていた。練習でも成功したことがないようなことをしなければ、今の有宮からサーブ権を取り返せない。
 早坂も自分の運と、実力に賭けた。

「はっ!」

 ラケットを思いきり振りきって早坂はシャトルを打った。
 それは腕の勢いをそのまま発揮してのスマッシュ、ではなくドロップでネット前に落ちていった。
 シャトルを斜めから叩いて鋭く、ラケットを振った方向とは別の方向へと落ちていく。ラケットの振る速度を落とす必要がなく、通常のドロップよりも速く落ちていくために取りづらい、早坂の得意なカットドロップだ。これまで、大事なところで使おうと極力使用する機会を少なくしてきた伝家の宝刀を、これまでの最高速度で抜いたのだ。カットドロップは繊細な技で、ただラケット面を斜めにして当てればいいということではない。角度や速度など複合的な条件がそろい、噛み合った時にだけ成功する。早坂はそれを長い修練の上に達成してきた。だが、今回はラケットを振る速度があまりに速い。

(決まって!)

 自分の培ってきた技量ならばできる。
 ここまで来ることができた自分の運ならば成功を引き寄せる。
 全国大会で不甲斐ない試合をしたことで皆に迷惑をかけた自分ならば、ここで打てる。
 いくつもの思いを乗せてシャトルは突き進み、白帯をすり抜けた。

「くぉおおお!」

 有宮は吼えてラケットを伸ばす。十分届いていたことからも、ドロップを読んでいないわけではなかったに違いない。スマッシュかドロップ。どちらかが来ると睨んで前のほうに詰められるようにしていたのだ。しかし、有宮にはそのドロップの鋭さこそ想定外だった。たとえラケットは届いても、シャトルを打ち上げられるスペースがない。無理に上げればロブはネットに引っ掛かってしまうだろう。
 ならばと有宮はラケットを的確な角度で振り、シャトルをクロスヘアピンに変換する。ネットの前をぎりぎり通って横に進んでいく分、シャトルがネットに当たらないままで早坂のコートへと入っていた。

(そこに、打つと思ってた!)

 早坂はその軌道を読んでいた。ストレートに打てばロブを上げる時と同じになるかもしれない。その分、クロスで斜め前に打つことで飛距離を保とうとした。自分ならばそうすると早坂は考えて、有宮が同じ思考をすることにも、賭けた。
 賭けに勝利した早坂は、ネットを越えてきたシャトルにラケットを当てて、ヘアピンで向こう側へと落としていた。

「サービスオーバー! ラブオール!」
「やー!」

 審判のコールに思わず吼える早坂。自分の渾身のカットドロップに、完全に読んだ上でのヘアピン。今のラリーに限れば完全に有宮の上をいったことになる。それを有宮も分かっているようで、早坂がラケットを掲げて喜びを表した後にシャトルを拾おうとすると、それを制して自分から取った。羽を指で整えてからネット越しに渡す。

「完全にやられたわ。でも、また取り返す」
「このまま、二点取る」

 有宮の言葉に言い返した早坂だったが、その口調に含まれる焦りを見破られたかと心配になる。近くで話すと有宮が発する闘気は相当のもので、早坂でも完璧に当てられた。そのために、売り言葉に買い言葉となって言うつもりのないことまでも言ってしまった。有宮に飲まれないようにと反射的に取った防衛手段だったが、それが逆に相手に自分の余裕の無さを見透かされることにならないかと不安になった。

(……過ぎたことをいまさら考えても仕方がないわね)

 早坂はシャトルを持ってサーブ位置に着くと有宮をきっと睨みつける。まずは一点を取る。そして、積み重ねた先にゴールがある。自分はそうするだけと言い聞かせる。早坂はラケットとシャトルを自分の中の定位置につけて、吼えた。

「一本!」

 シャトルを高く打ち上げる。相手のコートの奥まで追いやり、縫い付けるために。そこから打ってくるシャトルには威力があっても距離がある分、返せる。
 たとえ、有宮の最速のスマッシュでも。

「はあっ!」

 有宮は距離があるということは考えていないのか、渾身のスマッシュを放ってきた。早坂はそれでも振り遅れそうになるラケットを力任せに振り切って、逆サイドに鋭いロブを上げる。フォロースルーが大きい有宮のスマッシュが打てない低い軌道を通り、コートへと落ちていく。有宮はスマッシュを打てない代わりに体を思いきりひねり、背中を早坂に見せる状態からバックハンドでストレートに打ち抜いた。

(そこも!)

 ストレートに突き抜けようとするシャトルに、早坂はラケットを差し出していた。どこに打ち返すかを相手のコートを見て決めた時、有宮の顔にはっきりと驚きに染まるのが見えた。早坂のラケットはクロスに振られて、シャトルは有宮から離れるようにコートへと打ち込まれた。シャトルがコートに跳ねて固い音を立てるのが聞こえると、周囲がどっと沸きたつ。

「早坂! ラスト一本!」
「ここで一気に取ろう!」

 瀬名と姫川の応援。そこに続いて安西や岩代の声が届く。藤田や清水も声はあげないが同じように思っているだろう。逆に東東京からは早坂の攻撃を止めようという激励の言葉。
 有宮は親指を立てて「任せて!」と大きな声で応えていた。

(有宮……あんた……どうしてそこまで強いの?)

 早坂はふと、有宮のことが頭をよぎる。
 自分で自分にプレッシャーをかけて勝ち抜くという確固たる意思。自分に置き換えればどうかというと、まだ少し勇気がいる。昔、自分は精神的に弱かった。中学一年生になったある日、武と試合をして初めて負けてからバドミントンを止めようとしたこともある。その時は思いとどまり、以降に止めたいと思ったことはなかった。敗北が自分を鍛えてくれたのだと思っていたが、そこから特に自分は精神的に強くなったとは思っていなかった。実力が付いて、自信がついたからこそ厳しい場面でも踏みとどまれるようになったが、プレッシャーを跳ね退けて勝利を狙うことは本当に身についたのか。
 有宮小夜子を見ると、自分が身につけた精神的な強さなど弱々しく薄暗い光のように感じてしまう。早坂が相対するのは、圧倒的に輝く光。
 有宮が放つ意思の光はどんな劣勢でも何とかしてしまいそうに思えた。

「一本」

 静かに呟いて、ラケットを構える。自分の立ち位置を確認し、ラケットを振る時の軌道を確認する。一つ一つ、ちゃんとした位置にあることをチェックしていくと共に、有宮の気配が大きくなる。早坂のサーブ準備が整うと同時に戦闘モードになるようだ。

(ここで、取る。取れないと、ファイナルゲームにもつれ込んだとしても乗りきれない)

 たとえここでサービスオーバーとなり、次にまたサーブ権を取り返した後でセカンドゲームを取ったとしても。おそらくは勝てない。早坂は直感的に思っていた。このチャンスを生かせずに力づくでもぎ取ることができなければ、次のステージには行けないと。

「一本っ!」

 再度、叫んでからサーブでシャトルを飛ばす。今度は鋭く奥へと打ち込むと、有宮は最初からオーバーヘッドストロークで打つことは諦めてフォアハンドでサイドスローを打とうと体勢を作った。

「はっ!」

 バックハンドの時よりも速いドライブ。しかし、速くてもコースが分かっていればインターセプト出来る。早坂は先ほどと同じようにラケットを掲げてシャトルの通り道に置いた。先ほどと似た展開。有宮のいない方向へと打ち返そうとして、早坂は咄嗟にストレートに切り替えた。有宮は斜め前にまっすぐ進んできて早坂が一瞬前まで打とうとしていたコースに向かっていたが、即座に体を反転させてシャトルを捉えた。

(何!?)

 先ほどと同じコースに打つならば、同じ軌道に早坂が打つということは予想がつく。だからこそ有宮は斜め前に迷いなく進んできた。しかし、早坂がその動きを見て咄嗟にコースを変えたところに合わせてくるのは理解の範疇を越えていた。
 まるで、早坂が有宮の動きを見きった上でストレートに打つ場所を変更することを読んでいたかのようだ。

(私が読んだみたいに、読んだってこと?)

 有宮が捉えたシャトルはしっかりとロブで飛んで行く。早坂はシャトルを追って体勢を立て直そうとハイクリアで返した。一度ラリーが落ち着く間に頭の中を整理する。浮かんだ考えを否定しかけて、早坂は首を振る。

(有宮は……本当に私の動きを読んだのかも)

 一つ前と同じように打とうとして、有宮の動きをちゃんと目でとらえた上でストレートに打つ方向を変更することも危うい選択のはずだった。有宮の動きを捉えられないかもしれないし、中央に移動する有宮を早坂が見たとして、そのままクロスにプッシュするかもしれない。プッシュされてからではいくらなんでも有宮はシャトルには追いつけないだろう。ならばやはり、最初からストレートに山を張って斜め前に出る動きはフェイントだったに違いない。

(私が有宮の思考を読んだように……?)

 自分に対して疑心暗鬼になってくる。もしも読まれたとしたら有宮の望む方向に自分が動いてしまう。そうならないようにまた逆を突けば。しかしその思考こそ有宮の掌の上かもしれない。
 堂々巡りする思考を、早坂は一度外へと追い出した。

「はあっ!」

 有宮から返ってきたハイクリアを渾身の力を込めてスマッシュで打ち込む。迷った自分の思考を一緒につけて。考えだしたらきりがないことより、目の前の一点を取ることに全力を尽くすしかない。有宮はクロスに打ち込まれたシャトルに追いついて、クロスヘアピンでネット前に落とす。早坂は打った場所からまっすぐに前に出て、ラケットを届かせる。腕が伸びきった状態で威力あるプッシュは打てないまでも落とすことはできる。
 そこに、ネットプレイをするために飛び込んでくる有宮の姿が見えた。

(――どっちなの!?)

 自分で頭に浮かべた瞬間、早坂は選択していた。
 フォアハンドでラケット面をシャトルに差し出そうとしていた早坂は一瞬でラケットグリップを持ち変えて面を縦にすると、シャトルをスルーしていた。そして落ちていくシャトルよりも右腕を素早く下に移動させて、バックハンドでシャトルを斜め上に押し出していた。
 自分でも何をやったのかすぐには分からないほどの咄嗟のプレイ。ただ、有宮の動きを外したいと思って夢中になって振った結果、シャトルは前に出た有宮の頭上を越えてコートへと落ちていた。

「セティングポイント。ツーラブ! チェンジエンド!」

 審判の声に早坂はその場に座り込んでいた。
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