Fly Up! 312
切れ味の鋭いドライブが対角線にコートを突き抜けていく。左サイドにいた早坂は右に飛ぶように移動していった。それだけではシャトルの速度に追いつかなかったため、腕を目一杯伸ばしてラケットを届かせる。ラケット面の端でも触れさせれば、ネット前にコントロールして打てる自信はあった。実際に、シャトルは静かにドロップ気味に相手のネット前に落ちていく。だが、早坂の打ち返す軌道を読んでいた有宮は、一直線に駆け抜けてラケットをバックハンドで打ち込んだ。
「はっ!」
シャトル鋭くコートへと落ちていくが、シャトルの軌道が目の前だったために早坂は咄嗟にラケットをバックハンドで握って打ち返していた。
コートの外から見れば、迷いなくネット前に滑り込んだ有宮のように、プッシュの軌道を読んでいるとしか思えなかった。
(よし……体が慣れてきた)
一ゲームを終えて、二ゲーム目も終盤に差し掛かっていた。
スコアは8対8で、あと一点を取った方が追いつかれた際にセティングの権利を得る。ギリギリの勝負をしている二人にとって、延長戦の決定権を得られる権利は喉から手が出るほど欲しい。有宮のスマッシュをクロスで打ち返し、また腰を落として迎え撃つ。
有宮の強力なスマッシュを防ぐのは今の早坂には難しくはない。実際に有宮は二ゲーム目の中盤以降から、全身の力を使って放つスマッシュを封じていた。最大の武器である長いタメが必要なスマッシュに、早坂は鋭いロブやドリブンクリアで対抗する。生半可な鋭さでは有宮の鍛えられた肉体からのひねりには対抗できないため、自分の限界ギリギリのコースを狙い続ける。早坂がコースと鋭さのレベルを上げてシャトルを打ち続けると、有宮も普通のスマッシュしか打てなくなり、ラリーが十分続くようになった。
シングルスとは思えないシャトルの応酬。早坂のスマッシュも有宮とほぼ同等の速度で放たれるものであり、相手も警戒してロブをコースに打ち分ける。
その中で、早坂は自分の体のしなやかさが増していくのを感じていた。体が暖まり、有宮のパワーとコントロールについていけるようになったのが大きい。君長には速さがあったが、有宮には力強さとコントロールがある。それは早坂とほぼ同じもの。まるでもう一人の自分が目の前にいるかのように思いながら、シャトルを打ち込んでいく。
(ここでサービスオーバーを取らないと……)
得点は同点だが、サーブ権は有宮にある。自分がシャトルを落としてしまえば負けだが、それで安全を保つようなショットを打つとつけ込まれる。
自分も最大限にリスクを背負って厳しいショットを打たなければ、とても勝てない。
「やあっ!」
有宮からのドリブンクリアを、勢いが途絶えるところを見計らって打ち抜く。腕はワンテンポ速く振って、しなりをうまく使ってラケットを振り切る。全力とまではいかないが、鋭いスマッシュが相手コートに迫り、白帯にぶつかった。一瞬で青ざめた早坂だったが、勢いに押されてシャトルは有宮のコートへと入り、ぶつかったタイムラグによってタイミングを外された有宮は動き出せずにシャトルが落ちるのを見送っていた。
「サービスオーバー。エイトオール(8対8)」
「やーっ!」
思わず声を上げる早坂。次の一点がそれだけ欲しいということ。恥ずかしさを忘れて、自分の感情を思いきり前に出していく。
これが自分の決勝戦と思わなければ気持ちが負ける。そんな気迫がひしひしとネットを越えて伝わってくる。有宮はシャトルを拾って羽を整えてから早坂へと投げた。シャトルを受け取ってから前を見ると、有宮が笑みを浮かべてラケットを掲げる。いったいどこまで余裕があるのか分からない。その笑みが、まだまだ底を見せていないと早坂に告げているようで胸の内を不安がよぎっていく。
(残り30%って言った。今が、100%の有宮。その言葉を信じても、いいの?)
すべてを見せて勝つと有宮は言う。だが、有宮の人となりを知らない早坂にとって、その言葉は口約束の可能性も十分にある。全力と油断させておいて更に上があるというのはよくあることだ。君長も自分自身にセーブをかけていて、何回もこちらが最高だと思ったプレイの上を行った。
それでも、有宮の言葉が嘘とは思えない自分がいる。ほとんど人物像を知らないのに、彼女は嘘をつかず全力で早坂を倒しに来ていると信じていた。
「一本!」
目の前の一点を取るために、早坂はラケットを構えて立つ。
シャトルは前に。ラケットは後ろに。
ラケットが前に出ると共に手放したシャトルは、ラケット面の中心にジャストミートして高く跳ね上がった。綺麗な弧を描いてシャトルが有宮のコートへと落ちていくと、有宮は腕を思いきり後ろへと引き絞り、前に飛び込むようにラケットを振った。
「はぁああああ!」
それは早坂がよく見たことのある光景だ。あくまで自分のイメージのままで。
シャトルを打ち抜いた有宮はそのまま前に出る。早坂が前にしか打ち返せないと最初から最後まで分かるように。だからこそ、早坂は自分も前に出てシャトルを取る。
「やっ!」
来ると読んでいたコースからシャトルは外れたため、体勢を崩しかけながらも何とか打ち返す。相手のスマッシュやドライブに向かっていく場合は相対速度の錯覚がある。速度を保って自分へと向かってくるシャトルに追いついた時には体感する速度はかなりのもので、早坂には残像しか見えなかった。
「はああああ!」
有宮は横に飛んで腕を伸ばし、強引にロブを打ち上げていた。明らかに体勢が崩れて早坂ならネット前か中途半端にコート中央に打ち上げるくらいしかできない。
何度追い詰めても一発のロブやドライブで戦況を互角に戻されてしまうというのは、男子シングルスの刈田のことを思い出す。小島が何度、力や技で追い詰めても必ず一発のショットで互角に戻す。丁寧に組み立てた展開を力技で逃されるというのは見ていて残念な気持ちもあったが、そんな相手と女子で対戦できるのは嬉しかった。
(それでも……苦しいけど……絶対に、勝つ)
後方に飛んだシャトルに追いつくのが厳しく、早坂は有宮並に体をのけぞらせてラケットを伸ばす。見えたのは瀬名のリストバンド。柄にもなく借りて一緒に試合をするという感覚を味わった。気休めであったり、錯覚だとは思ったが、それでも瀬名の力が右腕に宿るように思える。
「やああああ!」
自分が気合を入れて、瀬名以上に吼えることができれば、力は届く。そう信じてラケットを伸ばし、振り切る。
早坂のショットは上体が反ってほとんど前を見ないで打ったとは思えないほど、正確に有宮のコートへと叩き込まれる。速度があるとは思っていなかったのか、有宮は打ち返すことはできたがこれまでのように厳しいショットではなく中途半端にシャトルが浮かんでしまう。まるで一本の細い糸の上を歩くような二人の攻防だけに、一瞬のずれが大きな誤差となって相手に向かった。
「はぁああ!」
早坂はラケットを振りかぶって飛びあがる。高く飛んだその姿は、南北海道の選手から見てある選手を想起させる。早坂自身も外から見てきた彼の姿を自分に重ねて、ラケットを振り抜いた。
(――相沢!)
シャトルが力強く有宮のコートへと叩きつけられてから、遅れて早坂が着地する。怒号にも似た歓声が早坂へと向かい、それに向かってラケットを掲げて答える。
小島や瀬名達のような南北海道のメンバーだけではなく、観客席から見ていた一般客や同い歳の中学生。少し年上の高校生までもが拍手で早坂のことを称えていた。早坂が抱いている想いが現実になったかのように、まるで決勝戦のコートに立っているかのような錯覚を早坂は得た。
調子を取り戻した早坂と、現時点での女子シングルス全国最強である有宮の試合は、確かに現状の中学女子バドミントン界の一位を決める戦いには違いなく、そのことに注目が集まるのも無理はない。
「……ふぅ」
周囲からの視線、プレッシャーが増す中でも早坂はシャトルを持って呼吸を整える。得点は9対8と遂に一歩リードして、セティングの権利を行使できるところまで来ている。順調にいけばあと二点で第二ゲームを取ることができる。
そんな思考を早坂は自分で打ち消した。未来を考えていれば、今に足をすくわれる。目の前の有宮から一点を取ることだけを考える。点を取るための一本のラケットになるかのように、意識を先鋭化し、集中させる。
「一本」
静かに呟いた声は早坂と有宮に注がれる歓声にかき消される。かと思いきや、有宮の口がゆっくりと「ストップ」と動いた。早坂に合わせての有宮の小ネタだろう。まだまだ相手に余裕があることに早坂はもう一度だけ息を吐いて、心の中の温くて濃くなるドロドロとした何かを溶かしていく。
いつも通りのロングサーブでシャトルを打ち上げる。無論、高さよりも遠くに速く進むような弾道のサーブだが、有宮は流れるような動きであっという間に落下点にたどり着く。君長のほうが移動速度は上だとしても、一定以上の移動速度を超えれば誰もがシャトルの下でベストポジションが取れる。
「はあっ!」
「――っ!」
そのスマッシュは久しぶりの有宮の全力だった。腕のしなり。体のひねりを存分に使ったスマッシュ。
だが、早坂はシャトルを完璧に受け止めてヘアピンを返していた。
あまりにも完璧に返したことで周りは時が止まったかのように動きを止め、シャトルがコートに落ちるまでそれが続いた。
「ポイント……テン、ゲームポイント、エイト(10対8)」
声にならない叫びをあげて早坂は俯きながら両拳を腰だめに引いた。気合を漲らせて、もぎ取った十点目に乗せる。
遂に先にたどり着いたゲームポイント。第一ゲームを取られ、後がなくなった第二ゲームで先にゲームポイントを迎えたことで精神的にも優位に立つ。だが、余裕があると思った時点で早坂は頭を振ってその考えを捨てた。少しでも後ろ向きな気持ちがあれば、あっという間に形勢を逆転される。
それが有宮という相手。
自分のプレイに沸き立つ周囲を、自ら破り捨てるように吼える。
「一本!」
ラストとは言わない。あくまで十一点目。第二ゲームを終える得点ではあるが、試合を決める点ではない。これで勝ってもまだ先はあるのだ。その時、有宮に自分がついていけるのかも分からない。それでも、目の前の勝ちだけを目指して飛び込んでいく。
勝ち方は見えていた。後は、純粋に勝利を目指すだけ。
「ストップ!」
有宮も気迫を押し出してラケットを掲げる。ここで止めてサービスオーバーにすればチャンスはある。
早坂が有宮と対峙して感じるのは心の強さだ。自分と似ているからより強く思えてしまうのかもしれないが、有宮は全く自分が負けるというイメージを抱いていない。この状況でも彼女にあるのはゲームを取られるというプレッシャーよりも、ここから逆転勝利を収めるのだという確固たる自信だ。
(あとは、私がここで飲まれないようにするだけよ)
大事な一本。ここでもしサービスオーバーになってしまえば、追いつかれてセティングを合わせて12点まで伸びる可能性が十分ある。それでも、追いついてきた有宮の勢いを殺すのはファイナルゲームに注ぎ込む力を使ってしまいそうだった。
ここで何としても決めなければならないと思った瞬間に、早坂の肩に重さがかかる。
(――っ)
シャトルを受け取り、サーブ体勢まで整えたのにもかかわらず、早坂は動きを止めてしまう。指先がシャトルを離そうとせずに、サーブ体勢のまま固まってしまった早坂に審判もサーブを促す。
「……はぁ」
胸にたまっていた空気を一度吐いて、息を吸ってからサーブを放つ。十点目を取ったサーブと同じ軌道。そして、そこから打ち返された有宮のスマッシュを完全に打ち返して時を止めた時と同じ状況。
そして、有宮は映像を再生したかのごとく、同じようにラケットを振りかぶってしならせ、体のひねりを加えて渾身の力を込めたスマッシュを放っていた。
「はあっ!」
速度十分でスマッシュはコートへと叩き込まれ、早坂のラケットはシャトルを捉えることができず空を切っていた。同じように時が止まる。今度は、早坂が金縛りにあう番だった。シャトルが羽をまき散らしてコートを転がり、手に持って確認するまでもなく交換が必要となるのを視界の隅でとらえながら、早坂は自分の体が動くまでが長い時間のように感じた。
「そんなサーブで、私のスマッシュを封じたと思わない方がいいわよ!」
有宮は周りからの歓声を押し返すような声で早坂に吼える。体からみなぎる闘志を隠そうともせずに、コート上から解き放つ。観客席で見ていた人達も有宮の熱にあてられるようにテンションを上げていく。早坂と有宮に同じくらいに声援が飛ぶ中で、有宮は曇ることのない笑顔で言った。
「さあ、120%行くわよ!」
気にしていた有宮の力。100%のその先。残り30%だけではなくそれ以上の力を見せると宣言する有宮に、早坂はただただ驚きを隠せなかった。まるで自分を追い詰めるかのようなビックマウス。その自信に答える力。自分で自分を進化させるように、常に自分自身を相手に戦っているような有宮の強さは一体どこから来るのか。
早坂はほとんど知らなかったこの相手のことをもっと知りたいと思い、自然と顔がほころんだ。
自分のコートに散らばったシャトルを片づけて、コートの外に置く。ゆっくりとコートに戻る中で有宮はラケットをフォアハンドで構え、早坂が立ち位置に着くのを待っていた。
サーブを打つというところまで来ると観客も声をひそめ、有宮の第一打を待つ。早坂が構えた瞬間に放たれたシャトルは大きな弧を描くロングサーブ。そうすれば早坂もまた強烈なスマッシュを打てるというのに、堂々とシャトルが弧を描く。早坂はシャトルに追いつくと、お望みどおりという様子で思い切りスマッシュを放っていた。有宮のスマッシュに勝るとも劣らない速度。しかし、有宮はシャトルの着弾する位置にスムーズに移動して、正確に打ち返していた。完璧に捉えられて打ち上げられたシャトルに、早坂は即座に反応する。
(取られないと思う方がおかしい。シャトルは、取られる!)
どんなに速いスマッシュでも体勢が崩れていなければ取られる。だからこそ、相手を動かして隙を作り、弱くなった所へと打ち込むのだ。
「はっ!」
早坂はドリブンクリアをストレートに打って、有宮のバックハンド側をえぐる。シャトルがコートと平行に進んだ状態から、有宮のラケットが背後に振られたところで、ちょうどいい打点から落ち始める。それでも有宮のスイングスピードによって、結果的にシャトルは完璧にミートされて早坂へと飛ばされた。
「!?」
速度に乗ったシャトルをドライブで返そうとしたが、ラケットのフレームにあたってしまい、そのまま後ろに飛んで行って落ちていた。
「ポイント。ナインテン(9対10)」
審判の声がやけにはっきりと耳に届いた。追い詰めたと思ったが、逆に追い詰められている。有宮は早坂があと一点取れば勝つということに対してプレッシャーは感じていない。むしろ自分から周りの圧力を吸い取って力に変えているかのようだ。
転がったシャトルを拾い上げて、有宮へと返し、早坂は深く息を吸い、吐いた。
「本当に、強いなぁ」
自分の口調に喜びが混じっていることに気づいて、早坂は苦笑した。
Copyright (c) 2016 sekiya akatsuki All rights reserved.