Fly Up! 314
早坂は背筋を伸ばしたまま座り込んで、自分が打ったシャトルをネットの編み目越しに見ていた。そこに人影が割り込み、見上げると有宮が笑顔で見下ろしている。眼で「立てる?」と問われた気がして、早坂は何でもないように立ち上がった。実際に体力が尽きたわけでもなく、単に気が抜けただけだ。試合は終わっていないが、追い詰められていた自分がイーブンに持ち込めたことには素直にほっとしていた。勝とうという意思は十分あったが、相手も自分以上の実力者であり、最後までどうなるかは分からなかった。だからこそ、セカンドゲームを取った最後のラケットの動きは、自分でもどうやったのか記憶がはっきりしない。
「手首、大丈夫?」
「え、ええ……」
「あんな動きで打たれて痛めたらファイナルゲームが楽しめないしね」
有宮は笑ってコートから出ていく。早坂も次のゲームは向こう側のためにコートから出るために有宮とは逆側に向かった。そこには南北海道の仲間がいて、早坂に笑顔を向けていた。コートを出てから立て続けに掲げられた手にハイタッチをして、早坂はそのまま進んでいく。背中に「勝ってきて」と瀬名の声がかかり、早坂は顔だけ向けて左手の親指を立てた。
コートに再び入ってシャトルの所へと行くと、綺麗にサーブ位置に立てられていた。有宮がいつの間にか設置したのだろうが、律儀なものだと思いつつ手に取る。羽は少しささくれていたが、まだまだ使えそうだ。スマッシュを何度も強打すればすぐに散ってしまうだろうが。
(遂にファイナルゲーム……か……)
早坂は不思議な感覚を得ていた。ここまでくるのに、もう何年も経った気がする。実質はひと月くらいしか経っていないのに、君長凛に何とか勝ち、ここでも有宮に1対1までもつれこんでいる。中学二年の最初のほうはおそらくここまで強くはなかった。練習をしてきたつもりで、最初の頃のままでもないが、それでも自分の成長度が少し前もはるかな過去にしているのかもしれない。
(有宮小夜子に勝てたら……またひとつ進める気がする)
練習で鍛えてきたことを、実戦で更に強化する。その繰り返しで、自分はここまでやってきた。ならば、有宮との試合でもきっと得るものはあり、自分はまたひとつレベルアップするに違いない。
「ファイナルゲーム、準備してください」
セカンドゲームとファイナルゲームの間には数分のインターバルがある。だが、所詮は数分でありすぐに訪れる。それでも気持ちの切り替えにはちょうど良い時間だった。セカンドゲームで勝ったことは忘れる。ファーストゲームで負けたことも忘れる。ファイナルゲームはファイナルゲーム。これに勝ったほうが、勝ち。状況はよりシンプルになったのだ。
(私の他のことは考えない。仲間がきっと勝つと信じてる)
この時には既に岩代が負けているのは分かっている。だからこそ、ダブルスは武と吉田が勝つ。次の姫川と藤田も勝ってくれる。ならば、自分が勝たなければ。
(……そんなことも、今は置いていこう)
チームのため、という思考さえもコートの外に置いて。
早坂はただ有宮に勝つということだけを考えて立ち向かう。自分に吹きつけてくる激しい闘志。ただ立っているだけで押し潰されそうになるほどのプレッシャー。そんなプレッシャーを叩きつけていても、有宮自身は不敵な笑みを浮かべ続けている。
「さあ、一本」
小さく呟いてサーブ位置につき、有宮もレシーブ位置へと立つと、審判が告げた。
「ファイナルゲーム。ラブオールプレイ」
『お願いします!』
二人同時に吼えて身構える。早坂は有宮の立ち位置を見てから弾道を低くしてロングサーブを打った。低さから有宮はすぐにラケットを掲げてシャトルを捕らえるとネット前に落としてきたが、それは早坂も読んでいた。ラケットを前に出してストレートのヘアピンを打つが、有宮もすぐにネット前に来てヘアピンを打つ。クロスを打ち合い、すぐにストレートに打つ。ネット前で小刻みな攻防を繰り広げた末に、有宮がロブを上げた。
(くっ……!)
早坂はできる限り速く足を動かして何とか追いつくとハイクリアをストレートに打った。有宮のバックハンド側に飛んだシャトルを、有宮は真下に入ってストレートスマッシュを打ち込む。全力ではないが速度に乗ったシャトルはシングルスライン上へと落ちていく。軌道を読んでクロスに勢いよくドライブ気味にロブを上げると、シャトルを打った位置から飛ぶように移動してラケットを伸ばした。
「はっ!」
腕を入れてラケットを伸ばしたことで稼働域は少ないと思われた有宮のシャトルワークだが、しなやかな筋肉を動かして、クロスに打ち返した。並の選手ならばストレートに前へと落とすくらいしかできないであろうシャトルの軌道。早坂はそれでも目の前にやってきたシャトルにラケットを伸ばし、ヘアピンを打った。シャトルは綺麗に弧を描いて落ちていく。更にまた有宮とのヘアピン合戦の狼煙。
(有宮――!)
ファイナルゲームになったとたんに細かくなった有宮のプレイスタイル。これまではスマッシュやドライブなど強打を軸にしてきたにもかかわらず、今になってネット前での攻防へとシフトしていた。際どいならロブを上げて避ければいいが、ロブを打つにも失敗する危険のあるようなギリギリのラインにシャトルを落としてきている。それに対してヘアピンで厳しく打ち損ねれば相手にプッシュやロブを打たれる可能性が上がる。先ほどロブを打たれたのは、早坂がヘアピンでほんの少しだけ甘く返してしまったからだ。
(――そこ!)
有宮から返されたシャトルが自分の視界の中でほんの少し、浮く。そこを狙ってラケットを一瞬だけ動かしてロブを飛ばす。距離は出なかったが有宮をネット前から引き剥がすことに成功し、早坂はコート中央へと体を戻した。だが、有宮は無理な体勢からまたストレートにドロップを落としてくる。早坂は前に出て今度はヘアピンを打たずに高くロブを打ち上げた。
有宮の執拗な前への攻めに早坂の集中力も途切れることはない。今の早坂のようにロブを上げて間を空けることができたならば一瞬は気を休めさせられるが、ネット前での攻防は神経も疲弊させる。体力以上に針の穴を通すようなコントロールを求められる前衛の攻防は、精神的な疲れがひどくなった。
それでも、有宮はまたドロップを打ってくる。ストレートに、早坂がいる場所から離れるようにして、ライン上を狙って落としてくる。早坂からすれば守備範囲にあるのだが、有宮が前に来るのが見えていることで余計に緊張が高まる。シャトルを前に落とすかロブを飛ばすか。
早坂は短い時間の中で必死に頭を回転させて、結果としてロブをクロスへと打ち上げた。
有宮はシャトルを追ってコートの奥へと移動する。一方で早坂はコート中央に戻って、腰を落として待ち受ける体勢を取った。
(根比べよ……有宮が追えなくなるか、私が耐えられなくなるか)
普通に考えればロブを上げる自分のほうが有利のはず。有宮がシャトルを追って無理な体勢で打つということを繰り返していくならば、体には自然と疲れが蓄積していき、ダメージに繋がる。
だが、早坂は心の中がささくれ立ち、自分がロブを打つのを失敗するのではないかと思い始めていた。どうしてなのかは考えるまでもなく、肌で感じる有宮のプレッシャーだ。自分はどんなことをされても前に打ち続けるぞと、気迫が伝わってくる。その圧力に体が屈しようとしているのを強引に抑えて何とか打ち返しているのだ。
(いくらプレッシャーをかけられても……私のほうが有利なんだ。だから、負けるわけには――)
次の瞬間だった。早坂がシャトルをロブで鋭く飛ばし、有宮がシャトルに追いついて振りかぶる。早坂はコートの中央に戻って次のシャトルがどこに打たれるのかを待った。そして、シャトルはドライブで早坂の肩口を貫いて飛んでいき、そのままコートへと着弾していた。
早坂が動けたのはコートにシャトルがぶつかった後。振り向くとそこにはコートの上を転がるシャトルがあった。いつ打たれたのかもどうやって決まったのかも分かる。しかし、体が全く反応できなかった。
「サービスオーバー。ラブオール!」
審判がサーブ権の交換を告げる。早坂はシャトルにゆっくりと近づいて拾い上げた。シャトルにはおかしなところはなく、羽が壊れているわけでもないため速度は自分が親しんだものに近いはず。シャトルが目に入っていたのに全く動けないということは普通ならばありえなかった。ならば、今は普通ではないことが起こったということになる。
(あの女……)
早坂は完全にドロップ勝負だと思い込んでいた。しかし、有宮の狙いは前に意識を集中させておいてのドライブで早坂を抜くこと。勝負にこだわらず、勝利にこだわっている有宮を見て、早坂は怒りが湧き上がってくるがすぐに抑えた。その姿はどこか、自分に似て必死に勝利を掴もうとしているように見えたからだ。
(有宮はほんとに、勝とうとしてるんだ)
有宮の勝利へと突き進む意思は、自分よりもあると早坂は認める。しかもそれはただ目指すのではなく、自分を鼓舞し、周りから「負けられない」というプレッシャーを受け取った上で、全てのマイナス感情や過剰なプラスの感情を受け止めた上で行う。厳しい点を躱すのではなく、真正面からぶつかって打ち勝つというプレイスタイルは自らの体を傷つけていくようなもの。早坂には理解できなかったが、有宮は試合の中で困難に立ち向かい、乗り越えることで成長しようとしている。全道大会で、早坂や武、小島が行ったような、自分に制約を課して試合に向かう。
有宮の制約は意図的に自分に注目を集めて、負けられないような状況にした上で打ち勝つこと。
そんな博打を全国大会の準決勝というステージで行おうとしている。
「一本!」
有宮が一言吼えると、周りから歓声が飛ぶ。既に有宮のプレイは観客の心をひきつけていた。早坂の応援に南北海道の面々も専念するが、人数的に不利であり、会場の熱気まで味方につけた有宮は更に吼えてからサーブを飛ばした。
天井にあたりそうなほど高いサーブ。早坂は流れを断ち切ろうとラケットを振りかぶり、一瞬、有宮の立ち位置を見た。すると完全に左側に寄っており、ストレートのスマッシュかドロップに備えようとしているところ。
あからさまな誘いに早坂はあえて乗った。渾身のスマッシュをストレートに叩きこみ、すぐにコート中央へと近づいて次のリターンを待ち受ける。すると立ち位置についたとたんにシャトルが飛んできて、早坂はバックハンドで体勢を右側に倒しながらラケットを横薙ぎの形で振り切った。シャトルはドライブ気味に低い弾道で飛んで行くも、有宮が再びストレートドライブを放つと十分な速度に乗ってシャトルが打ち返る。
(このタイミングなら!)
どこに打とうかという迷いを振り切ってのラケットは、シャトルを思い通りの場所へと打ち返す。有宮も今までのショットとは違うことに気づいたのか、打ちかえすことがきついように顔をしかめながらロブを上げた。
(ロブがあがった!)
明らかに有宮がラリーから逃げて体勢を立て直そうとしている。相手の誘いに乗らずに自分の初志を貫徹すること。早坂はまた一つ攻め方を決めて、上がったシャトルをスマッシュで打ち込んだ。シャトルは有宮の顔の横を抜けるような浅い弾道で突き進む。顔の傍にシャトルが来たならばたいていの選手は反応する。しかし、有宮はついさっきの早坂のように反応できず、シャトルはコートへと突き刺さっていた。
「さ、サービスオーバーラブオール」
審判が驚きながらも告げる。有宮は我に返って後方に倒れているシャトルを見ると、頭をかきながら参ったというポーズを取った。
「完全に動けなかった。どうやら、私と最低でも互角かもしれないね」
有宮はそれだけ言って、シャトルを拾い上げる。羽を整えて早坂へと渡してからは一言も話さずに、レシーブ位置にまで戻った。早坂も息を吐いた後に一言も口に出さずにサーブ体勢を取る。熱気に包まれた会場に、冷やかな風が入り込んでコートの周りが冷えたような感覚。
早坂は一点に意識を集中してサーブを打ち上げた。シャトルは高く遠くへと運ばれていく。一つ前の有宮の天井サーブのように。高く上がるサーブのコントロールは難しいが使いこなせば武器になる。早坂のシャトルはシングルスコートの中に入るギリギリの位置で落ちていき、有宮は躊躇なく下に入ると、渾身のスマッシュを解き放つ。早坂のコートの端へと打ち込まれるシャトルに追いついた早坂は、力一杯にクロス方向へと打ち返した。シャトルがストレート。そしてクロスへと打ち返されるのは普通に存在するシチュエーション。だが、有宮が返そうとしたシャトルは、途中で不規則に落ちていた。シャトルを追っていた有宮の顔に驚愕が浮かぶ。
シャトルを打つ時に斜め上にカットするようにラケットを振った結果、シャトルに不規則な回転がかかり、弾道が変わったのだろう。半分は駄目元で打った早坂にとって幸運な変化。シャトルは打ち返されたものの、有宮にできたことはネット前にギリギリ打ち返すことだった。
白帯から浮かんだシャトルに対して早坂はラケットを伸ばし、手首の返しだけでプッシュを打ち込んでいた。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
ようやく一点目。二度のサービスオーバーを繰り返しての一点に早坂は嬉しさよりも安堵が込み上げた。セカンドゲームをとってファイナルゲームに持ち込んだ故に、勢いのまま掴みたかった。サービスオーバーは許したとはいえ、取り返しての得点は悪くない。試合の流れは自分のほうにある。勢いで攻めていけば、十分勝てる。
早坂はさっきとは逆のサーブ位置についてラケットを構える。早坂へと叩きつけられる有宮のプレッシャーはもう変わることなく、早坂を刺激し続けていた。その圧力をぶつけられること自体に鈍感になり、注意力が散漫になっている自分に気づいた。
(危ない……忘れるな。有宮は、勝つためならなんだってする)
シャトルを前に出して「一本!」と口にする。有宮は左足を前にして、斜め上に右腕を掲げながらシャトルを待っている。ストレートの大きなロブを意識してラケットを振ると、シャトルはまた高く飛んだ。自分の天井サーブが徐々に精度が上がっていると思えるが、その喜びより先に有宮の次のショットを受けるのが急務。有宮はラケットを身構えてスマッシュを打つ体勢を整えていた。早坂は数歩後ろに下がってスマッシュを取れるように腰を落とす。無論、途中でドロップに返還したとしても前に飛び出せる準備は整えていた。
だからこそ、スマッシュが解き放たれた次に見えた光景が、ストレートに進むシャトルだということに早坂は驚くしかなかった。
(ドライブ!?)
スマッシュを打つとばかり思っていたが、シャトルは床と並行に飛ばされた。前に出た早坂をあざ笑うかのように右サイドをまっすぐに突き進んでいた。
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