Fly Up! 311

モドル | ススム | モクジ
 椅子に座った早坂はラケットバッグの中からタオルを取り出して、頭にかぶせてから顔を拭いた。自分のペースで何度か呼吸をしてゆっくりと心臓を落ち着かせていくと、体の中に熱がこもっていく。更に深呼吸を続けると、体中の空気を新しいものに入れ替えていった。

「ぷはっ……ぁ……」

 最後に頭からタオルを取って、口を思いきり開けてから空気を取り込む。まだ息は切れていたがタオルを被った当初からは回復していた。タオルを再び入れたラケットバッグを掴んで背負う間、誰も自分に声をかけないことが不思議で一番近くにいた瀬名に話しかける。

「どうしたの?」
「いや……なんか話しかけていいのかなって」

 早坂は瀬名の視線を追ってスコアを見る。
 11対8。有宮小夜子の第一ゲーム奪取という結果を受けて、東東京のベンチは有宮が戻ってきたところで沸き立っていた。男子シングルスの状況を見ると、もう少しで岩代が負けそうな点差になっている。男子シングルスの勝利を確信しているのだろう。その上で、有宮もセカンドゲームを連続して取って勝利。
 東東京はシングルスだけで二勝し、勝利へ王手をかけようとしている。

「瀬名。大丈夫だよ。応援してて」

 早坂は笑顔を向けてからセカンドゲームのために歩き出す。時間もないためそれだけ呟いて移動しようとすると、背中から瀬名が声をかけた。早坂が振り向く前に「まず一本」とだけ声が聞こえる。冷静な、力強い声はダブルスの時に何度も聞いた声。その時は自分のものにするために時間がかかってしまったけれど、今度は大丈夫だった。

「なんだか、今の私。負ける気がしないのよね」

 勢いよく振り向いて自分の中に生まれている想いを、素直に口にしていた。それは東東京側にも聞こえたようで、早坂のほうを何人かが睨みつけていく。その視線を受け流しながら早坂はコートへと近づいて、ラケットバッグとタオルを置いてから中へと戻った。右手には瀬名の付けていたリストバンド。それをしっかりと左手で握りながら、早坂は考える。

(一ゲーム目のスコア。負け。ラリー。すべて無駄じゃない)

 ファーストゲームのことを思い返す。終始、攻められっぱなしだったが、最後の展開は逆に攻めていた。8対5からの追い上げは最後までは続かなかったが、勢いは早坂にある。第二ゲームはその勢いに乗ってシャトルを打ち続けるだけ。準決勝ということが体力的には少し辛かったが、今までの起用方針だと決勝でシングルスとしては出ない。ここで倒れてもいいと思うくらい、燃焼し尽くそうと早坂は覚悟を決める。
 考えている間に有宮がコートへと入ってきて、自分の斜め前に立った。置かれていたシャトルを拾い上げて、シャトルコック部分をつまんでくるくると回す。早坂も何度か屈伸をして下半身を柔らかくしてから身構えた。同時に有宮はサーブ体勢を取り、シャトルを自分の頭上よりも高く上げた。

「セカンドゲーム、ラブオールプレイ!」
「お願いします!」
「お願いします」

 審判の言葉に合わせて二人も気合いを押し出す。
 有宮は早坂よりも多少ゆっくりと口から言葉を発して、シャトルから手を離した。
 通常よりも高い位置から落とすシャトルに意味はあるのか早坂は考えて、意味はないと結論付ける。シャトルの重力加速度がどうであろうと、最後にシャトルを弾くラケットのタイミングと力、スピードによって決まる。力が強くてもタイミングが悪ければアウトになったり弾道がおかしくなる。速度もラケットの振り方一つで違って飛んで行く。
 だからこそ、有宮のパフォーマンスだと決めつけた。
 有宮のラケットから弾かれたシャトルは、早坂の頭上を越えてコート奥へと飛んで行く。コントロールを重視するには可能な限り手からシャトルを離さないままで、すぐに打つこと。即ち、ダブルスのような打ち方と軌道が一番良い。だからこそ、有宮が何を考えているのか気になってしまう。

(パフォーマンスなら!)

 生じる迷いをパフォーマンスと割り切り、早坂はドライブ気味にシャトルを打ち抜く。スマッシュのラケットの振り方でドライブを打つように、シャトルを打つ位置を斜め後ろから真っ直ぐにして自然と弾道を調整した。スマッシュと思っていたならば反応は遅れるはずだと視線を向けると、有宮は体をのけぞらせながらシャトルを追っていた。そのまま後ろへと飛び、ラケットを届かせてドロップを放つ。着地をしてから前に打たれても大丈夫なように駆けだして、早坂がラケットを突き出すと共に突進してくる。

(あんたにスマッシュを打たせないようにすれば――)

 前に出てきた有宮を再び後ろに追いやるようにドリブンクリアを打つ。今度は少しだけ弾道を高めにしてシャトルに追いつかせた。そこで振りかぶった有宮だったが、次に打ったスマッシュはそれまでよりも遅い弾道。シャトルをコントロールして斜め前に落とすと有宮もついてくる。足を伸ばし、手を伸ばして手首だけで際どいヘアピンを打ち返してくる。早坂も似たような体勢になって相手の頭上を越えるようなヘアピンを打った。
 上手く有宮の頭上を抜けたシャトルはコートへと落ちていた。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」

 審判がサービスオーバーを告げると、有宮は舌を鳴らしてからシャトルを拾い上げる。

「ちぃっ! やるわねー」

 してやられた、と言わんばかりの表情に早坂も自然と笑みが浮かんでくる。素直に口にはしないが、試合を続けるたびに引っ張られていくような気がしていた。先ほどのヘアピンも、ラケット軌道の微調整も、この準決勝に入ってコツを感じられるようになってきている。無論、抽象的なものでイメージはない。実技を持って結果を見せてこれている。

(自分と似たスタイルの人がいることで、私はあれだけできるんだってイメージができた。なら、そのイメージを追い、追いこすだけだ)

 シャトルを受け取った早坂はバックハンドサーブの姿勢を取る。有宮もラケットを構えてロングとショートどちらに打ってくるか思考を読もうとしていた。しかし、早坂は眼を見開いてシャトルを素早く打つ。ショートサーブがネット白帯にぶつかって飛んでも、有宮は加速してネット前でヘアピンを打った。シャトルがころりと落ちそうになるところを、同じくヘアピンをして打ち返す。
 その場で始まったヘアピン勝負。早坂が四回目にシャトルを押し出して有宮側のエンドへと沈んでいた。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」
「ナイスヘアピーン!」

 審判の声の後に続けて叫ぶ南北海道の面々。最も大きな声を出した武を視線の中心に添えて手を振るが、すぐに武と吉田はその場から去った。隣のコートを見ると、男子シングルスで戦っていた二人が握手を交わしていた。早坂の一ゲームと少しが相手の二ゲーム。天井の高さを思い知ったのか、岩代は足取りが元気なく進む。だからこそ、その思いは受け取ったということを知るために早坂は気合を入れる。

「よし! 一本!」

 シャトルを持った早坂は次のサーブ位置で待つ。シャトルはまだボロボロになっていない。早坂は再びショートサーブの構えを取り、緩やかに打つ。シャトルが白帯を越えたところで、今度は有宮がヘアピンで綺麗に打ち返してきた。集中力を全く乱さないヘアピンをしかし、早坂は半ばあてずっぽうでラケットを振り、打ち上げた。

(しまった――)

 慌ててコート中央に腰を落として有宮の次を待つ。十分な滞空時間を与えてしまったことで、至近距離で超速スマッシュを打たれることになってしまったが、頭は自然と冷えていく。
 これまで何度かエースを決められてしまっている。それでも最も体重を乗せたスマッシュは真っ直ぐにしか打てない。ここで来るショットを予測して信じた方に足を踏み出すしかない。そう考えているとすぐに有宮がラケットを振りかぶり、振り下ろす。シャトルをインターセプトしようと前に出た早坂の裏をかくようにして、シャトルは軽い音をたてて早坂の後ろに落ちていった。
 早坂がスマッシュをレシーブするということを完全に読まれ、スマッシュに見せかけた飛距離の短いクリア。完全に裏をかかれ、コントロールされてしまった早坂はしかし、反射的に右足を前に強く突いて反転した。

「うぉああああ!」

 早坂は自分でもどうして叫んだのか分からない。だが、早坂は後ろ向きに飛んでからシャトルの横に回り込み、ラケットを振り切った。シャトルはドライブで進み、打ち終わっていた有宮の真正面に向かう。ラケットを軌道上に出そうとした有宮だったが、あと半歩遅くシャトルが右肩へとぶつかってしまった。

「いたっ」

 小さな悲鳴をあげて後ろにのけぞる有宮を、早坂は倒れた体勢から見てしまった。
 立ちあがってネット前まで駆け寄り「大丈夫?」と声をかけると、有宮はゆっくりと立ち上がって問題ないと手を振った。そしてシャトルをラケットで拾い上げ、早坂へと渡す。どれも右手一本でのやりとりだ。

「ポイント。ツーラブ(2対0)」

 審判が試合のカウントを告げて再開する。早坂がショートサーブで有宮の前へとシャトルを落とすと、今度は足を力強く踏み込んでクロスヘアピンを打ってきた。早坂はシャトルを追いかけ、ネット前ぎりぎりでヘアピンをすることに可能する。しかし、有宮もストレートにヘアピンを打ち、お互いにヘアピンを打ち合う展開になった。

(先に……隙を見せた方が……やられる……)

 いつクロスヘアピンにするか、あるいはロブを上げるか。その隙を狙って有宮も早坂もプッシュをしようと神経を研ぎ澄ませていく。見栄えが少ない勝負だが、続いていくヘアピンに南北海道も東東京も言葉をなくしている。
 やがてヘアピンの打ちあいは一分を過ぎ、有宮も早坂も額に汗をにじませていった。先に集中力を切らせた方が負け。互いに精神力がぶつかり合う中で、シャトルが白帯に当たって跳ねた。

「あ――」

 失敗に洩れる声を聞きながら、早坂はシャトルを手首だけのプッシュで有宮のコートへと叩き込んだ。
 ヘアピン合戦を制したことで南北海道サイドからも歓声が上がる。小島や瀬名。姫川に。藤田と清水。安西と岩代。コートに試合に出ていない二人以外に向けて早坂は左手を掲げて吼えた。

「しゃあ!」

 男言葉が自然と出たが早坂は気にしなかった。湧き上がる熱さを体外に放出するためには生半可なことじゃできない。だからこそ、一番身近な気合を乗せるのが上手い男の真似をする。その効果か、体の隅々まで熱が通っているように思えて、体の動きがよりよくなる気配もしてきた。
 むろん、それは相手もそうかもしれないが。

(有宮もだいぶ温まってきたころだ……そろそろ、しかけてくる)

 一ゲーム目を取った有宮がこのまま早坂の独走を許すとは思えない。流れは確かに早坂へとあるかもしれないが、そんな流れなど吹き飛ばすのが本当に強い選手なのだ。

「一本」

 今までよりも一段階静かに声を出す。シャトルをバックハンドで構えて有宮のコートの一角へロックオンする。鋭く吼えて右手をぶれさせるとシャトルはコート奥のシングルスラインへと向けて飛んでいった。有宮の立ち位置からならバックハンドで打つしかなく、その威力も第一ゲームで確認済み。何もなければインターセプトできると前に出たところで、早坂の中に違和感が生まれた。

「はぁああああ!」

 シャトルを低い体勢で追った有宮は、早坂の予想通りバックハンドで打つ体勢を作った。しかし、予想を超えていたのはその体のひねり。バックハンドでシャトルを打つために、上半身全部を使ってラケットに力を送り込むよう。背中を早坂に見せてからでもラケットを振るのが間に合うのは、柔らかさと強さを同時に兼ね備えた有宮の才能。

「はっ!」

 有宮の中の『力』が結集して打ちだされたシャトルは早坂の予想通りの軌道。しかし予想以上の速さによって追いつくのが遅れ、シャトルはラケットから弾かれてコートの外へと飛んで行った。
 その場にいた誰もが言葉を失い、シャトルが落ちた先を見ている。一番初めに回復したのは小島で、小走りにシャトルまで駆けよってとりあげると早坂へ向けて投げる。早坂はそのシャトルを見てそのままダイレクトに有宮へとパスした。有宮は中空でシャトルを絡め取り、自分の手に戻す。

「サービスオーバー。ラブスリー(0対3)」

 審判がようやく我を取り戻して得点を告げる。有宮は深く息を吐いてから早坂へと言った。

「これが、残り三十点分。埋められないなら、早坂は勝てないよ」

 ファーストゲームで有宮から告げてきた言葉。百点中の七十点。
 有宮小夜子と早坂由紀子の間にある三十点の差を、遂に見せてきた。

「出し惜しみ、しないんだ」
「元々、どんな相手も全力で倒したい性質なのよね。そうして、私が勝つのが最高に気持ちいいの」

 自分が負けるとは少しも思っていない、力強い言葉。そして気迫。早坂は巻き起こる風に充てられて左手が震えた。
 突然、有宮が高い壁に見えて早坂は頭を軽く振った。再び見ると背丈が自分と変わらない彼女が見える。一瞬でも、有宮が放つ気迫に飲み込まれたことを知って早坂はふくらはぎを軽くラケットで叩いた。
 現時点の女子シングルス全国二位。
 君長凛に最も近い存在。
 早坂は改めて自分の中の慢心を捨てる。あるのかないのかは分からなかったが、どこで自分の優位を信じているか分からない。

(心から挑戦者になれ。君長にそうしたように)

 迎え撃つものではなく、立ち向かう者。自分は守りよりも攻めのほうが合っている。
 全力で挑んで打ち勝つために有宮に向けて早坂は吼えていた。

「ストップ!」

 有宮が発した気迫に負けない風を巻き起こすように、早坂はラケットを突きつける。普段の彼女が全くしたことがない動作にコートの外からどよめきが上がった。しかし、有宮は笑いながらサーブ位置につき、早坂を挑発する。レシーブ位置につき、自分を迎え撃つようにと。
 早坂はゆっくりとレシーブ位置につき、ラケットを構える。有宮はシャトルを思いきり前に出して、シャトルを落としたところへ下から跳ね上げた。高々と舞うシャトルはぐんぐんと飛距離を伸ばして頂点に到達する。これまで早坂が受けたサーブの中で最も高く舞い、自分に向けて急降下してくる。高く打ちあげてもコートのバックラインぎりぎりに落とすコントロール。素直に賞賛しつつ、早坂はラケットを振りかぶる。自分の渾身のスマッシュを放つために、腕をしならせて前に踏み出す。

「はぁああああ!」

 前に踏み出す勢いと、腕のしなりを十分に発揮してラケットを振り切る。シャトルは強烈な音を立てて相手コートへと突き進んだ。空気を切り裂き、コートに向かう弾丸。だが、有宮は余裕で着弾位置に追いつくとラケットを振りかぶる。そのフォロースルーは早坂へと背中を見せるほど大きく。それだけ振りかぶっても、有宮のラケットは確実に早坂の打ったシャトルを捉える。速度は倍に、鋭いロブとなって打ち返されるが、早坂は即座に追っていた。自分の最高のショットであろうと打ち返される。それでも、シャトルを打ち続けなければ勝利はない。

「はっ!」

 強打と見せかけてのドロップショット。クロスに切れ込むカットドロップはこれまで何度か有宮に通じてきた。しかし、有宮の動きはまるで読んでいたかのように素早くネット前へと飛び込んでいく。足はしなやかにコートを蹴って、有宮を前衛へと押し出した。

「甘い!」

 閃光のようなプッシュがコートへと突き刺さる。シャトルは固い音を響かせて宙に浮き、羽を散らした。衝撃に耐えられなくなったために羽が散らばる中で、早坂はシャトルではなく有宮を見ていた。

(……凄い)

 間違いなく、君長と同等の圧迫感。全ての力を開放して自分を倒しに来ている有宮に対して、早坂は自然と顔が綻んだ。

「ストップよ!」

 早坂は再び吼えて、壊れたシャトルを外に出す。新しいシャトルを審判から受け取ってサーブ位置につく有宮へと挑むように、レシーブ位置でラケットを掲げて迎え撃った。
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