Fly Up! 31

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「もっと早く移動しろ! 攻めきれないとやられるぞ!」
「すまん!」

 ハイクリアでサイドに広がりつつ、吉田はスマッシュを打てなかった武に叫ぶ。それに答えながらコートの半分をカバーするべく構えると同時に、金田が放ったスマッシュが胸元へと飛び込んできた。

(取れる!)

 後ろに少し下がり、胸の前にバックハンドでラケットを構えた武は手首と腕の振りで相手コートの奥に飛ばす。意図せずクロスに返すこととなり、縦並びとなって攻撃態勢だった金田はシャトルを追って素早く移動していく。

(あれが俺には足りない動き……)

 先ほど攻めていた際にスマッシュを打っていた武は相手ペアの防御を突き崩せず、左右に振られて最後はハイクリアを上げるしかなかった。結果、攻撃の主導権を握られてしまっている。内心でその動きに魅せられつつも、相手のスマッシュ攻勢を凌ぐべく、シャトルの行方と相手ペアの動きに意識を集中していった。
 西村が転校し、中学も夏休みを終えて新たな段階に入っていた。二年がコートをメインで使い、短い時間だけ一年の相手をするのは変わらないが、吉田と武が正式なペアとして始動したことは最も大きな違いだ。最初は全く二年や吉田の動きについていけなかった武だったが、夏休みから一月も過ぎると足や体力がついていく。甘い部分を指摘されながらも慣れていった。

「よし、ここまで!」
「一年はコート片付けて!」

 庄司の号令に続いての金田の指示。試合を終えてコートから去ろうとした吉田と武だったが、武はふら付いてその場に尻餅をついてしまった。

「大丈夫か?」
「ん……なん、とか!」

 気合を入れて身体を起こす。流れ落ちる汗を拭いて変わらずよろめきながらも武は壁際に歩いていく。その後姿に吉田は笑いかけた。

「コートの片付けはやっとくから、少し休んでモップがけしろよ」
「ありがと」

 壁際の自分のラケットケースのところまでくると、武はその場に腰を降ろす。水分補給ためのペットボトルの中身を飲み干してタオルで汗を拭いていると徐々に体力が戻っていった。

(辛いけど、充実してる)

 何とか歩けるくらいまで回復したことを確認して、武は立ち上がりモップを取りにいく。その姿を見つけた橋本がモップを二つ手に取り、片方を武へと私に近寄っていった。

「お疲れ」
「ありがと」

 手に取った場所から並んでモップをかけ始める。部員達の汗や靴底の汚れが落ちていく様子を橋本は楽しみながら見ている。武も汚れが落ちるという感覚は分かるが、橋本ほど喜びを顔に出せはしないだろう。

「それにしても、相沢強くなったな」

 視線は床に向けながら橋本が唐突に言葉に出す。そのタイミングに武は少し動揺しながらも、返答した。

「ん? そう?」

 返答、と言っても自分ではなかなか分からない。確かに強くなったと自覚しているが、どの程度まで強くなっているのかは本人は理解しづらい。
 その内心を読み取ったのか、橋本から言葉を続ける。

「前はお前と同じくらいだったけど、今は点取れるかな」

 その寂しそうな声音に武は少し気後れする。由奈や早坂と同じように、橋本も小学校の時から一緒にバドミントンに取り組んできた仲間だ。部活の他に市民体育館で練習は続けているが、その中で早坂と試合する回数は増えている。休日に吉田と行くことが少ない分、同年代で全力で打ち合える相手が彼女しかいなくなっているのは事実。
 異性ならまだしも、同性が追いつけない位置にいる悔しさは吉田を見ている武には分かっていた。

(俺が吉田に思う悔しさを、橋本が俺に持ってるんだな……)

 少し前まで隣にいた男が、一気に見えなくなる。それは自分の努力の結果だったが、寂しい気持ちもある。

「ま、俺は俺で頑張るしな。追いかけていくさ」

 橋本の言葉に、自分の立ち位置が変化したことに今更ながら武は気づいていた。


 * * * * *


「それで変わったって落ち込んでるの? ナイーブだね、武も」
「そこで横文字かよ」

 由奈の速度に合わせて、武は自転車のペダルを漕いでいく。制服も冬服に代わり、春先の格好に戻っているのを見て、時間が逆戻りしたのかと錯覚してしまうほどだ。
 ただ、由奈の髪の毛は春先よりも多少伸びていたし、何より顔立ちも大人びている。

(成長するんだよな、誰も)

 西村の転校。吉田とのダブルス。
 そもそも、西村がいたのならばダブルスパートナーは橋本になっていたはずだ。スライドしてきた位置に慣れるために、そして強くなるために少しずつ橋本ら他の一年との時間がずれていく。その感覚を寂しいと思う気持ちは甘いのかと気分が沈む。

「環境が変化したから慣れないだけだと思うよ?」
「そうかな……なんか、一年と壁が出来そうな」
「もしそうなら、武が作ってるんじゃない?」
「俺が?」

 由奈の視線はひたすらに優しい。向けてくる笑顔を見ながら走らせていたことで赤信号に危うく飛び込むところだった。
 急ブレーキを踏んだことで頭にすっと入ってくるイメージ。
 自分と他の一年を阻む壁。
 でもそれは、武の側に近づいていた。

(俺が、壁を作ってた、か)

 由奈の言葉が壁を浮かび上がらせる。そして、次になすべき道が生まれる。幼い頃からの友人だからこそ、武が分からなくても客観的に見ることができるのかもしれない。

(貴重な存在なんだろうな)

 そう考えると共に、西村が消えた吉田を思う。林がいるにしろ、バドミントンに関しては今、吉田は孤独なのかもしれない。

「そうだ。そろそろ誕生日でしょ」

 由奈の問い掛けに意識は現実に戻り、投げられた物をしっかりと受けとる。その間に信号は青になり、由奈は武を置いて先に走りだした。

「それつけて頑張って!」

 スピードを上げて小さくなる由奈の姿を見つつ、手元に残った物を見た。
 新品のリストバンドを。

「ありがと」

 呟きは暖かさに満ちていた。




 家に帰り、食事を終えてから武は机に向かう。両親の談笑する声。若葉が風呂で奏でる鼻歌を耳に入れながら頭を動かす。部活をしながらの勉強は少しきついものがあったが、元々頭の良い武にはまだ余裕がある。
 出された宿題を片付けて夜十時を回ったところで、ペンが完全に止まった。

「ふぅ」

 頭の中から数式を取り除いて、武はノートを閉じると明日の授業の準備を始める。
 あとは風呂に入って寝るだけ。
 足首につけた湿布から広がる熱さを感じながら、背伸びをしているとドアがノックされた。

「武?」

 湯気に濡れた若葉の声。多少熱っぽい声色を聞き流して用件を尋ねると、部屋の中に入ってきた。中学になってから使い始めたらしい、シャンプーとリンスの香りが髪の毛から発散され、部屋全体に染み込んでいく。

「勉強終わった? 一つ分からないところあるんだけど」
「どこ?」

 水色の上下のパジャマを着た若葉がベッドに座る。すぐ横に勉強机があるため、武は椅子に座ったまま若葉の前にノートを広げた。しかし、相手の視線は差し出されたそれではなく机の上に向かっていた。

「なに?」
「それ、誕生日プレゼント?」

 指差されたのは真新しいリストバンド。表面にメーカーのロゴが入った黒い物。
 ゴミ箱には入っていた袋が捨てられている。

「そうみたい」
「明日だもんねー。武。何ねだるの?」
「靴といいたいけどまだ使えるし。とりあえず必要になった時に買ってもらうのに保留」

 武の答えに若葉は手を口に当てて笑いをこらえようとしたが、結局は噴出してしまった。意味の分からない笑いに不快感を示す武だったが、その理由は若葉から伝えられる。

「バドミントンしか考えてないねー。花の中学生でしょ? もっと他のことないの?」
「今はバド強くなることしか考えてない――」
「私、彼氏出来たさー」

 青天の霹靂。あまりの衝撃に頭が殴られたように揺れる。
 武を揺さぶった犯人は笑みを崩さないまま続ける。

「バドミントンも勉強も、青春も謳歌しないと。ぐずぐずしてると由奈ちゃんも誰かに盗られちゃうかもよ」
「なんで由奈だよ」

 曖昧な笑みを浮かべたまま、若葉はノートを手に取ると立ち上がる。部屋から去る前に呟いた。

「少し、根詰めすぎなんだよ。武は」

 それは言葉通り、少しだけ心配そうな言葉だった。
 静かに後ろ手でドアを閉めた若葉。かすかに見えたその背中に、武だけが見えるもやがある。
 双子だけの感覚なのか。心の動きがぼんやりと視覚化して見える、気がする。

(根詰めすぎ、か)

 壁を作っていた、と由奈に言われた時のことを思い出す。今までとワンランクは違うレベルの中で必死に頑張ってきた結果、いつしか出来てしまった他の一年との壁。見えず、存在しないはずのそれは武が手を伸ばせば触れる。
 バドミントンと勉強、友人との関係。いくつも真面目に捉えた結果、疲れてしまっているのかもしれない。
 しかし。

(若葉もじゃない?)

 去っていく背中に感じたことは、そんな気持ちだった。
 彼氏が出来たと言った時に見せた笑み。それはおそらく、由奈や早坂。他の友達が見たならば幸せの色にしか染まっていなかっただろう。
 でも、武だけは分かる。おそらく、両親にさえ分からないものを。

(やっぱり、同じかもしれないな)

 好きなこと。好きな人に対して全力で考える。それは悪いことではないだろうけど、とても疲れること。
 ただ、武は疲れを見せてしまい、若葉は幸せのヴェールで顔を隠す。
 大切なものを失わないために。

「大切なもの、か」

 リストバンドをはめてみる。大切な友達から送られた、プレゼント。何故か由奈の掌が手首を包んでいるような気がして、自然と顔が赤らむ。
 身体の奥からも力が湧く。

「若葉のほうが偉い。俺も頑張らなきゃな」

 軽く頬を叩いて、武は風呂へと向かった。身体を覆う倦怠感を洗い流すために。
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