Fly Up! 309

モドル | ススム | モクジ
 ――時間は女子シングルス開始まで遡る。
 早坂はユニフォームに着替えてから、ラケットを軽く振りつつコートの中央へとやってきた。ネット前には既に有宮小夜子が立っている。表情には満面の笑みで、これから早坂と戦うのが楽しくて仕方がないという様子を隠そうとせずに視線を向けてきていた。早坂は臆せずにネット前に歩いていき、ネット越しに有宮と視線を合わせる。

「よろしくね」
「こっちこそ」

 差し出された有宮の掌をしっかりと握ると、熱を帯びていた。汗ばんではいなかったが、すでに有宮の体は十分に温まっていて試合への準備が整っていると分かる。早坂は唾を飲み込んで、込み上げる緊張をほぐした。
 審判に言われてじゃんけんをすると、勝ってサーブ権を得る。有宮は周囲を見回した後で今の場所で問題ないと宣言し、レシーブ位置についてラケットを掲げた。

「これより。女子シングルスを始めます」
『お願いします!』

 審判の言葉が最後まで紡がれたところでお互い咆哮する。互いへの言葉の後で、早坂は得点をもぎ取るために「一本!」と。有宮はサーブ権を取り返すために「ストップ!」と、それぞれの目的のために相手を声で押し潰そうとした。早坂はプレッシャーに当たりながらもロングサーブを打つ。腕のしなりを利用して高く遠くへと飛ばしたシャトルは、後ろのシングルスライン上へと落ちていく。自分でも絶妙な位置に落ちると確信した早坂は、次の有宮のシャトルに備えてコート中央へと腰を落とした。
 そして、有宮のラケットが振り切られた次の瞬間。
 シャトルは早坂の右側へと空気を切り裂いて落ちていた。

「――え?」

 早坂は横に落ちたシャトルへと視線を移した。口からは気の抜けた声が漏れてしまったが、止められなかった。審判もスマッシュが決まったのだとすぐには分からなかったため、慌ててサービスオーバーを告げた。すぐに立ち直った早坂はシャトルを拾い上げると、乱れた羽を整えて有宮へと打つ。飛んできたシャトルを空中で、ラケットを使って取った有宮は早坂がしたようにシャトルの羽を指で整えてからサーブ体勢を取った。

「一本」
「……ストップ!」

 今のスマッシュの秘密を知らなければ、これからもエースを取られ続ける。直感的に思った早坂はラケットを高く掲げて迎え撃つ。有宮は一つ前の早坂のサーブと同じように高く遠くへ飛ばしてコート奥へと早坂を釘付けにした。シャトルの真下に入り、早坂は何を打つか考えた後でラケットを振り抜いた。ストレートのハイクリアでシャトルを上げ、再びあのスマッシュを打たせること。序盤のうちに打たせておかなければ、終盤の大事な場面で切り札を連続で使われただけで敗北が決まってしまう。シャトルの速さやタイミングに慣れておく必要があった。

「はっ!」

 だが、有宮はクロスのハイクリアを打って再び早坂をコートの後ろへと押しやる。シャトルに追いついてまたストレートハイクリアを飛ばし、早坂はコート中央に戻る。しかし、またしてもクロスで後ろに追いやられる。三度、四度と繰り返されたところで早坂はハイクリアを打つことが苦しくなり、たまらずクロスのドロップを放った。ラケット面をスライスさせてカットをかけていないにも関わらず鋭く落ちていくドロップに、ラケットを伸ばして取ろうとした有宮あったが、ラケットはあと半歩届かずシャトルは床に落ちていた。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」

 有宮は残念とでもいうように息を吐いてシャトルを拾った。
 だが、有宮は笑みを浮かべたままシャトルを拾い上げて早坂へとシャトルを渡す。中空で受け止めてから羽を整えながらサーブ位置まで行くと、すでに有宮はシャトルをいつでも取れるように軽く体を揺らしながらレシーブ姿勢を取っていた。早坂は今のラリーを思い出して気づいたことをまとめる。

(スマッシュは打ってこなかった。逆に、私は苦しくなってリバースドロップを打った。それを、有宮は取れなかった)

 追い込まれたのは、もしかして有宮の作戦だったのではないかと早坂は考える。早坂が相手のスマッシュに少しでも慣れるために打たせようとしているのと同じように、有宮もまた早坂にドロップを打たせたいのではないか。早坂の得意なショットがドロップなのは試合を調べれば分かること。全国大会では逆に調子が悪く、ほとんどデータは集まっていないはずだったが、それでもどこかから記録を持ってくるはずだ。君長との試合のために身に付けたスマッシュもあるが、あくまで早坂のウイニングショットは切れ味の良いドロップショット。

「さあ、ストップストップ」

 一番初めの時よりも少し気分を落ち着かせて言う有宮。対して早坂は無言でプレッシャーを相手に叩きつける。だが、あっさりと圧力はスルーされて、有宮は眉一つ動かさなかった。
 早坂は諦めて自ら試合再開の言葉を告げる。

「一本」

 サーブは今までと何も変わらない。四隅だろうとそうでなかろうと、高く遠くへ上げてできるだけ長くシャトルを相手のコートへと舞わせる。このレベルになるとほとんど打ち損じというものはないが、それでもまさかということが起こり得る。バドミントンのラケットが垂直に落ちていくシャトルを打とうとすると、どうしてもシャトルコックが打ちづらくてコントロールが悪くなる。

「はあっ!」

 有宮のドリブンクリアは少しだけコートの内側へと飛んで行く。絶好球に対して遠慮する必要はなく、早坂はスマッシュを有宮の胸部へと叩きこんだ。迷わず打ち抜いたシャトルは有宮のラケットで受け止められ、そのままネット前にヘアピンで返される。そこに飛び込んだ早坂は、シャトルをプッシュで手首を使っただけで打ち込んだ。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」

 久しぶりにシングルスで得点して、早坂は下腹部から全身に向けて湧き上がってくる興奮を抑えることができなかった。

「ナイスショット。私」

 一人で静かに自分を誉める。続いてコートの外にいる女子達からの応援で一気にコートが華やいだ。男子は別に行われている岩代の応援をしているらしく、一番見覚えのある武の背中が後ろを向いていた。

(相沢。後で覚えてなさいよ)

 当人が知らぬ間に怒りをぶつけておいて、早坂は次の位置に立つ。一度シャトルのやりとりがあった上での一点。これまで経験したことのある試合とは、また別の感覚がある。有宮はレシーブ位置で軽くステップを踏みながらガットの編み目を直していた。
 そんな有宮を視界に収めながらサーブ位置につく。早坂がしっかりと立ったところで、有宮はステップを踏んだまま器用にラケットを右上に構える。左サイドにショートサーブを打ってしまえば点を取れるのではないか。瞬間的に流れた映像に乗せて、早坂は有宮へとシャトルを放った。ショートサーブはダブルス用に練習していたが、シングルスにも応用できないかと考えていたためか、シャトルの弾道は鋭くほとんど浮かずに有宮のフロントラインを侵す。だが有宮は上からではなく下からラケットを振り、ネットギリギリの位置で裏返るようにシャトルを打った。早坂は返ってきたシャトルに腕を伸ばしてクロスヘアピンを打ったが、シャトルがネットを越えた瞬間にまっすぐ叩き返されていた。

「サービスオーバー。ラブワン(0対1)」

 早坂がこれまで打った中でも一、二を争うほど切れ味のあるショートサーブだったが、有宮は難なく打ちこんでいた。更には下からロブを打つようにヘアピンを打ったのは、早坂が頭から完全に外していたことだ。

(……昨日、ダブルスやったのがまずかったかな?)

 思い浮かべたのは無論冗談だが、前に打ったシャトルをプッシュで返すのはダブルスでのことだと改めて思い直す。ただ、有宮の動きからプッシュをされそうだと思ったからこそ、早坂は動きを止めてしまったのだ。それが実際には下からラケットを振り上げてのヘアピン。
 後悔しても試合は止まらずに続いていく。シャトルを拾い上げてから有宮に返すと、ラケットを使って何度か軽く打ち上げてから手に取った。

「さ、一本一本」

 まるで散歩に行くようにサーブ位置につく。手に持ったシャトルを弄びながら早坂が構えるのを待っている有宮には底知れぬ余裕があった。まだまだ序盤でお互いの力を見せているわけではないが、有宮には早坂の数倍の深さと広さがあるように思える。

(……そうだとしても、出す前に勝てばいい)

 弱気か強気か自分でもよく分からない結果をまとめて、早坂はレシーブ体勢を取る。シャトルはすぐに放たれて、早坂はコート奥まで追った。追いついてから、今度はストレートのドリブンクリアでシャトルをえぐるように相手コートへと落としていく。有宮は即座に球種を判断したのか、普段よりも素早いフットワークで回り込み、ラケットを振った。

「たっ!」

 有宮の声とほぼ同時にシャトルが早坂の右足へと突き刺さる。シャトルの流れは見えていたが、ラケットを出すまでに反応ができなかった。あまりの速さに悲鳴を上げそうになったが、ぐっとこらえてシャトルを拾い上げる。ボロボロになりかけている羽を審判に伝えて、新しいシャトルに交換してもらうと早坂はコートの外に古いシャトルを打った。ちょうどそれは座っていた瀬名の胸元へと飛んでいき、驚きながらもキャッチする姿が見える。

(瀬名。見てなさい。絶対勝つから)

 スマッシュはまだ脅威だが、最初は見えず、今は軌道が見えた。試合中に取れるようになる可能性は十分にある。
 得点は1対1と並び、有宮は新しいシャトルを早坂へと打った。試し打ちのつもりだろうと早坂も軽く打ち返す。二人の間で短い距離を何度かクリアで打ち合い、ラケットに当たる感触を確かめる。やがて早坂から打たれたシャトルを手にとって、有宮は次のサーブを放とうと移動する。早坂も次こそは取ると決めてレシーブ位置で右腕を掲げた。シャトルと有宮に意識を集中する。
 そしてシャトルが放たれたと同時に前に出た。

「――はっ!」

 モーションがいつもと違うように思えたために、思いきって前に飛んでみた早坂は読みが完全に当たった。プッシュをしようと突き出したラケットの前にシャトルが向かってきて、右足を踏み込むことでシャトルは押し出されて落ちていく。しかし、有宮はシャトルを拾ってクロスヘアピンで打ち返していた。後ろに打つと早坂は踏んでいたが「ここで前に来るとは」と思考が揺れる。次の瞬間には、右足を引いて体勢を整えてから横へと飛んだ。ラケットはぎりぎりシャトルに届き、ヘアピンを打って前に落ちる。追いつこうと移動していく早坂の真正面で、まるで合わせ鏡のように似た移動速度で移動する有宮は、早坂がシャトルを打ったところでラケットを振った。シャトルがネットを越えてからすぐに打ち込まれて早坂のコートをえぐる。あっという間の逆転に、早坂も背中を冷たい汗が流れた。

「ポイント。ツーワン(2対1)」
「しゃ!」

 小さくガッツポーズを放つ有宮に早坂は素直に「ナイスショット」と言って離れる。シャトルを拾い上げて打ち返し、すぐにレシーブ位置へと着いた。早坂は有宮の分析を更に強くする。より早く、より正確に相手の傾向を分析して、突破口を見つけなければいけない。あのスマッシュの対抗策を。

「一本!」
「ストップ!」

 有宮に呼応して吼えると、シャトルがネット前に飛ぶ。ラケットは思いきりスイングされたように見えたが、シャトルに当たる直前で完璧に止めたらしい。まったく早坂に気づかせない精度の寸止めは脅威だが、それでも反応できないほどではない。早坂はシャトルの下にラケットを入れて、ロブを上げようと腕に力を込める。
 しかし、早坂は右足をぐっと踏み込んでラケットをほとんど動かさずに打ち返した。ネット前にヘアピンで返るシャトルはほとんど浮かない。そこに有宮はラケットを構えていてシャトルを一瞬前に突き出した。
 しかし、早坂は更にラケットを上げて、プッシュを打ち返していた。

「!?」

 有宮が驚く気配が伝わってくる。シャトルは有宮の頭上を抜けてコートへと落ちる。審判は驚いて固まっていたが、サービスオーバーを告げて得点が入れ替わった。

「サービスオーバー。ワンツー(1対2)」

 ゆっくりと立ち上がる早坂に向けて有宮が呆れた顔で呟く。

「読まれてた?」
「何となくね」

 早坂は素直に言ってから踵を返す。
 少しだけだが有宮のショットの傾向が見えて、真っ直ぐにスマッシュやプッシュを打ってくると考えて咄嗟にラケットが出ていた。結果的に弾き返せたわけだが、単純な手はもう通じないだろう。
 サーブ位置についたところでシャトルをもらい、羽を整えてから構える。有宮へロングサーブを上げると、滑らかな動きでいつの間にか真下へと向かっていた。フットワークに無駄な動きがなく、まるで氷の上を滑るようにして移動した。

(凄い……見とれて動きが止まりそう)

 有宮が打つ前に正気に戻り、前に出る。有宮はクロスドロップを放ってコート中央へと切れ込んでいった。早坂は半分以上勘で前に出たことで一歩速くシャトルへと追いつき、ラケットを突き出す。有宮は中央から斜め前に出て打ち返されるであろうシャトルを打とうとしたが、早坂は手首を使って強引にプッシュへと変換する。

「や!」

 しかし、有宮もヘアピンからの変化を読んでいたのか、あまり前に出てきていなかった。斜め前にまっすぐではなく、少し角度を浅くして移動距離を少なくしている。サイドラインへと飛び出してきたシャトルへとラケットを届かせて、振り抜く。
 シャトルはストレートではなくクロスへとドライブで運ばれていった。手を伸ばした状態で無理な体勢からのショットだったにもかかわらず、威力を保ってコートを切り裂いていくシャトルに早坂は何とか追いついて、ストレートのドライブを放った。早坂にはクロスに打ち返す芸当はできない。明らかに、有宮のスキルによるものだ。

(少しずつエンジンかかってきたってこと!?)

 早坂は中央に戻りながらシャトルの行方を追う。すでに有宮が回り込んでいて、ラケットを構えて打ち抜く体勢に入っていた。弾道としてはドライブ。クロスかストレートか。迷った結果、ストレートに決めて横に移動するのと有宮がシャトルを打つのは同時。空気が破裂したような音と同時にシャトルがストレートに突き進んできた。

(速い!?)

 ラケットを出してシャトルに当てることだけで精いっぱいだった。早坂は体勢を崩してコートから出てしまい、シャトルはふらふらとネット前に落ちようとする。そのまま入れば早坂の得点だが、有宮が落ちることを許さない。前に出てきてプッシュでシャトルは早坂側のコートへと落ちていた。

「サービスオーバー。ツーワン(2対1)」
「しゃ!」

 喜びを隠しもせず早坂へと向けていく有宮。早坂は翻弄されつつある自分を感じていたが、全身を満たす気力は十分であり、これからの勝利に向けて濁っていないことを確信する。
 間違いなく過去最高のコンディションで試合に臨んでいることを自覚して、吼えた。

「ストップ!」

 全国バドミントン選手権大会団体戦。準決勝。
 東東京、有宮小夜子 対 南北海道 早坂由紀子。
 2対1で有宮がリード。

 試合はまだ、始まったばかり。
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