Fly Up! 299

モドル | ススム | モクジ
 いつから壁が越えるものではなく、寄り掛かるものだと思うようになってしまったのだろう。
 瀬名は越えるべき壁である早坂に、いつの間にか寄り掛かっていたことに気づかされて悔しさに涙を流したことがあった。それを思い知らされたのは二年の学年別大会で、今まで無名だった姫川に圧倒的な差で負けたこと。その姫川が、早坂と良い勝負をしたのを目撃した時だった。
 心のどこかで「早坂には勝てない。だから二位というこの位置を死守しよう」と思っていなかったかと自問自答しても、答えは出ない。そう思っていたかもしれないし、そうではないかもしれない。自分の心なのに、疑ってしまっては何が真実なのか分からなくなってしまった。
 それでも早坂と同じ北海道の代表を決めるチームの一員となり、実際に南北海道代表という肩書きも付いた。そして、早坂の不調という事態に直面した時、瀬名は自分の中に埋もれていた気持ちに気づくことができたのだ。

(早坂を越えるために、早坂には上にいてもらわなければ、困るんだ)

 自分の中には確かに早坂を倒すという気持ちがある。そのために、早坂には調子を戻してもらう必要があり、そのためにサポートする必要があるなら、全力でしてやろうと決めた。ベスト4進出を決める大事な試合での早坂とのダブルスに、迷いはなかった。自分の全てを賭けて、早坂を支えて相手を倒す。
 だからこそ、増してくる右足首の痛みにも耐えることができた。

「――ポイント。トゥエルブセブン(12対7)」

 自分のスマッシュが決まったことでの得点に瀬名はラケットを掲げる。テンションを上げていくために必要な動作だったが、早坂に右足の痛みに苦しんでいることを悟らせたくはなかった。早坂だけではなく周りにいる人間に対しても同じだが。もしも、足を痛めていることが分かれば試合を終わらせられてしまう。そうなれば、途中棄権で負けということで南北海道の敗退が決まってしまう。
 シングルスの二敗からここまで盛り返してこられたのだから、無駄にするわけにはいかなかった。

(この試合が終わったら、たぶんもう無理ね……でも、この試合だけは)

 明日の準決勝を犠牲にしても、ここで負けるわけにはいかなかった。自分はここまでだというのならば、このコートに全てを置いて行く。そのつもりで瀬名はラケットを掲げた。早坂からシャトルがショートサーブで放たれるのを見てから後ろに飛ぶと、ロブが高く飛んできた。瀬名はシャトルの真下に入りこんで、スマッシュを打ち込む。まっすぐ先にいた栄口がクロスのロブを打ち返すことで、瀬名は真横に移動する。体力は底を尽きかけていたが、右足の痛みが皮肉にも瀬名の背中を最後に押す役目を担う。

「やぁああ!」

 左足一本で飛び上がって、中空でラケットを振り切り、ストレートスマッシュを放つ。速度と角度がついたシャトルに反応しきれず、永澤がシャトルを上げてしまう。瀬名は右足を付けて着地してからラケットに向かおうと思ったが、痛みで体を支えきれずに体勢を崩してしまった。だが、上がったシャトルは早坂がスマッシュで相手のコートに沈めていた。

「ポイント。サーティーンセブン(13対7)!」
「ナイスショット!」

 早坂に集まる仲間の応援。瀬名は深く息を吐いて立ち上がり、ふらつきながらも早坂の傍へと寄った。

「ナイスショット」
「大丈夫……?」
「大丈夫……って言いたいところだけど、流石にスマッシュ打ち過ぎて体力がね」

 ふらつきの本当の理由は言わない。体力が減ってきたのも嘘ではない。いつ、いかなる時でも全力でスマッシュを打ってきた結果、中盤以降で差をつけることができた。それだけに体力消費は激しく、瀬名は右足の痛みも相まって動いていないと頭がぼんやりとしていた。

「残り二点。死ぬ気で行くよ」
「……本当に死なれないように、私も気をつける」

 瀬名の言葉に早坂は苦笑して前を向く。瀬名は、早坂に後ろを向いてほしくなかった。コートの外からは、もしかしたら自分の状態が分かるかもしれないが、コートの中で向かいあってもし分かってしまったなら、申し訳が立たない。残り三点を押し切るだけの体力はある。
 足の痛みが限界を超えなければ。

(右足も心配だけど……かばって左足も痛いのがね)

 足が痛くてもできるだけバランスが崩れないようにフットワークを続けてきたつもりだったが、やはり左足のほうに負担をかけていたのだろう。左足のふくらはぎもパンパンに張り、いつ爆発するか分からない。ただ、今のスマッシュによる右足の踏み込みで、足首は痛くてもふくらはぎはまだ耐久力はありそうだと分かった。できる限り床に強くついて、普段と同じようにフットワークをすれば余分な負担がかかることなく、動くことができるのではないか。そう思った瀬名はあえて辛い方向へと向かう。
 腰をしっかりと落として、両サイドどちらにでもダッシュできるように両足を肩幅に広げて構える。早坂は「ラスト二本!」と今までとは異なる咆哮と共にショートサーブを打った。シャトルがネット前に向かったところで、プッシュで打ち込まれる。早坂は序盤こそシャトルをインターセプトし続けたが、それが逆に相手にタイミングやコースを掴ませることになった。特に永澤は早坂のラケットの届く範囲の隙間を縫って後ろへとシャトル飛ばす。けして速くはなかったが絶妙な個所とタイミングで打ち込んでくるために、瀬名は動かない足を何とか動かすことだけでも体力を削られ、足が痛んでいく。

(それでも、あと二点!)

 シャトルを取るためにラケットを伸ばす。バランスを崩して倒れながらもシャトルをすくい取り、ネット前に浮かせていく。瀬名の打ったシャトルに対してまた永澤がラケットを掲げるも、今度は早坂がコースを塞いだ。永澤はコースを変えてクロスヘアピンを打つが、その軌道さえも早坂は読んでいた。真横に沿うように移動してヘアピンを即座に放って相手コートへとシャトルを運ぶ。その速さに対抗したのは、栄口だ。

「はっ!」

 二人がかりのネットプレイで早坂を抑えようとする。だが、栄口が次に打ったのは早坂の頭を抜けるようなロブ。
 何度もインターセプトしてシャトルを沈めてきた軌道だった。

「やあっ!」

 シャトルへとラケットを被せて叩きこみ、栄口の足元へと打ち込む。ロブを打った姿勢から動けないまま、栄口はシャトルを視線だけで見送っていた。

「ポイント。フォーティーンセブン(14対7)。マッチポイント!」

 第一ゲームから苦しかった試合が終わりを迎えようとしていた。
 復活した早坂が決めたマッチポイント。嬉しそうに後ろを向いた早坂に、瀬名は答えられなかった。

「瀬名!?」

 その場に膝をついて荒い息を吐く姿を見せてしまい、言い訳が頭の中に渦巻く。まだ試合は続行できることをアピールしなければ中止にされるかもしれない。残り一点まできて、それだけは避けなくてはいけない。

「なに……を……大きな声、出してるのよ」

 瀬名はゆっくりとだが立ち上がり、笑顔を向ける。少しひきつっているのは仕方がない。遂に右だけではなく左足の痛みも堪えられないところまできたことも、仕方がない。ただ、全力であと一点を取りに行く間だけ持てばいい。そのためにまだ動けることをアピールする。

「確かに限界近いけど。まだ大丈夫」

 まだ、体力が減っていると思ってもらえればいい。そう思って瀬名は左右に何度かフットワークを使って移動してラケットを振った。足は痛んでいたが、それまで自分を支え続けている足はまだ動いた。瀬名の意思を乗せるかのように。

「でも、しんどいから。ここで決めよう」
「……うん。任せなさい」

 痛みは隠して本音を告げると、早坂は力強く頷いて前に出る。審判も瀬名の様子に試合をストップさせるほどではないと判断したのか、試合続行を指示した。南北海道としては試合を中断させられれば負けが決定するために安堵の息が漏れる。更に、大阪からもほっとした声が漏れていた。栄口と永澤へ「実力で勝て!」と激が選手達だけではなく監督も声援を送っていた。

(油断してくれたら、楽だったんだけどね)

 瀬名は腰を落として早坂のサーブを待つ。おそらくはこの試合最後のサーブ。ショートサーブをプッシュされたとしても、自分が取って早坂に繋げれば勝てる。そう信じて、最後の一足を踏み出せるように力を貯める。

「ラスト一本!」
「一本!」

 そう叫んだと同時に、視界が狭まる。自分が思う以上に限界が近く、痛みが意識を奪いかけている。足元に溜まる熱さと痛みの塊。まるで鉛を付けているかのように重く、瀬名は早坂がシャトルを放ったであろうタイミングで体のバランスを崩していた。

(――痛い!)

 電流のように足から頭へと駆け上った痛みにとうとう涙が溢れる。それでも、瀬名は自分の目の前にある背中を見た。凛々しく立つ背中。自分が目指してきた最高の選手の背中を見た時、突きぬけていくシャトルが見えた。

「――ぁああああ!」

 ドライブで飛ばされてくるシャトルに、瀬名は横っ跳びでラケットを振り上げる。上体を思いきり横にそらして、横側を通り抜けるシャトルをオーバーヘッドストロークで打つような、アクロバティックな動き。既に下半身もコートから離れて完全に宙に浮いていた。

(スマッシュを、打つ!)

 体勢は完全に崩れて、体は投げっぱなしになる。それでも、ラケットを構えて左手を突き出すのは変わらず、瀬名は渾身の力でラケットを振り切った。シャトルは文字通り弾丸と化して打ち返される。ドライブの軌道をスマッシュで打ち返され、速度の乗ったシャトルに栄口はラケットを出してヘアピンを打った。
 そのシャトルは、白帯から離れて浮かび上がる。即座に反応してラケットを掲げた早坂が、吼えた。

「ラスト!」

 早坂はラケットを振り切った先にぶつかったシャトルの衝撃が、今までシャトルを打ってきた中でも一、二を争うほどのタイミングだったことに体が震えた。体の中に湧き上がる興奮そのままにラケットが振り抜かれて、シャトルが相手コートの奥へと突き進む。永澤がシャトルを追ったが、苦し紛れにラケットを振って当てたのが精一杯。シャトルは、コートを外れて飛んでいき、外へと落ちた。

「ポイント。フィフティーンセブン(15対7)! マッチウォンバイ、早坂・瀬名。南北海道!」
『うぉおおっしゃああああ!!』

 審判の声の後に続いて吉田をはじめとした男子を中心にわき起こる咆哮。早坂と瀬名以上に勝利に対して喜びを露わにするのを見て、早坂も普段の彼女にしては珍しく天井を向いて叫んでいた。

「やったぁああ!」

 瀬名は倒れた状態から上半身だけを起こして早坂を見ていた。その咆哮は長いトンネルを抜けたことによる開放感に満ちていて、彼女が完全に復活したことを示している。瀬名の目から見ても、おそらくは全道大会の時以上になっている。閉塞した期間が長かった結果、またひとつ蓋が開いたのだ。

「……また、差をつけられちゃった」

 小さく呟かれた瀬名の声は誰にも聞こえない。試合の勝利を祝う声に消えた声を見送りながら、瀬名はふらつきながら立ち上がった。早坂は瀬名の様子を見て慌てて近づき、肩を支える。

「大丈夫!? 瀬名!」
「大丈夫……とは言えないかも。でも、勝ててよかった」

 笑顔を見せて言うと早坂は申し訳なさそうに顔に陰りを生んだ。また口から謝罪の言葉が出る前に瀬名は早坂から離れる。また手を貸そうとする早坂に向けて瀬名はしっかりと言った。

「まずは整列でしょ。さっさと挨拶してコートから出よう」

 そう言って先導するように早足で歩いてネット前に行くと、栄口と永澤が泣きながら待っていた。真剣勝負の末の涙だったのだろうが、どこか申し訳ない気持ちになる。自分達の力で勝ったのだから申し訳なく思うこともないのだが。

「ありがとうございました」
『ありがとうございました!』

 瀬名が先に応えてしまい、続けて三人が言った言葉には、嬉しさと悔しさがちょうどよくブレンドされていた。

「あんたのスマッシュ。凄かった」

 コートを去ろうとした瀬名の背中に声をかけてきたのは永澤だった。振り向いて礼を言うと、少し顔を背けた後で視線を逸らしながら呟く。真正面だと気おくれして言えないのかもしれない。

「足、大丈夫? たぶん、第一ゲームでシャトル取ろうとした時から痛めてたでしょ」
「……そうだけど。大丈夫。おかげで勝てたようなものかもしれないし」

 永澤が気にやまないように、関係ないことをアピールする。
 アピールが成功したかは分からないが、もう永澤は何も言ってこなかった。無論、栄口も。二人はベンチに戻って仲間達に負けたことを悔やみながら謝っていた。さほど離れていないため嗚咽も聞こえてくる。それを可哀想と思っていては勝てないのだが瀬名はそう思う余裕すらなく、コートから出た瞬間にその場に崩れ去った。

「瀬名!」

 早坂が声を上げて近づく。瀬名は大丈夫だと早坂を押しのけようとしたが、力が入らずにその場に座り込んでしまう。早蚊が瀬名の左肩に自分の肩を入れて持ち上げようとしたが、動かなかった。

「全く……あんたを助けるために無理しすぎたからかもね」

 あんた、と早坂について悪態をつく。それは半分本当で半分は嘘。無理は確かにしたが、助けたいと思ったことは本心だった。それを知られると恥ずかしいためにそっぽを向いて、力の入らない足に拳をぶつけて無理やり立ち上がる。そのままパイプ椅子に腰をかけてようやく息を吐いた。

「はぁ……痛い」
「やっぱり、足を痛めてたんだ」
「うん。第一ゲームの途中から」

 瀬名の言葉に早坂だけではなく周りも息をのんだ。そんな初めのほうから怪我をしたというのに、ファイナルゲームまで攻めきった。瀬名の力に皆が驚いている。だが、瀬名は大げさにすることはないというように頭を振って笑顔を見せた。

「これで、二勝二敗。私のことはどうでもいいから、相沢と姫川を応援しないと」
「……分かった。みんな、武達を応援しよう」

 瀬名の言葉に促されて、吉田が他の面々に声をかける。瀬名自身が応援を望むことを口にしたことで、他のメンバーも体を反転させて武達の試合へと視線を移した。瀬名はそれを後ろから見ながらほっと息を吐く。誰もが前を向いて自分のほうを見ていない瞬間に、瀬名はぼんやりと頭の中を空っぽにした。それだけで寝そうになるほどに体は疲労が溜まっている。その中でも痛みは存在感を持って瀬名の脳に信号を送り続ける。

「……な。瀬名」
「は、はい」

 吉田コーチが声をかけてきてもすぐには反応できなかった。それだけ痛みによって体調が崩れてきている。ぼんやりとした頭を軽く叩いてから瀬名は吉田コーチへと向きあった。

「両足を医務室で見てもらおう。俺が連れて行く」
「……はい、お願いします」

 素直に従って吉田コーチが体を支えて自分を立たせるがままに任せる。その様子を心配そうに見ていた早坂へと、瀬名は言った。込み上げてくる気持ちを抑えずに。満面の笑みで。

「あとは、頼むね」

 早坂は何も言わずにただ頷く。その顔を見ただけで瀬名は十分だった。自分の思いは早坂へと通じている。仲間達は、自分の代わりに試合に気持ちを乗せてくれると。

 ベスト4をかけた第四試合。女子ダブルスは、早坂・瀬名の勝利で幕を閉じた。
 瀬名の両足を代償として。
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