Fly Up! 270

モドル | ススム | モクジ
 早坂由紀子はぼんやりと天井を見上げていた。ベッドのスプリングは固く、ずっと寝ていると背筋が痛くなってくる。それでも動く気力もないままで、いつしか時刻は十五時に差し掛かっている。チームメイトはほとんどがバドミントンの試合を見に行っており、そうではない者も身近を散策して、結局は体育館に向かっているようだった。部屋で一人で寝ころんでいるのは自分だけだと思うと、まるで世界に一人取り残されたかのような錯覚に陥る。
 メールで女子達から連絡が入り、最終的に体育館で合流したのでこれから帰る、というメールが届いていた。

(馬鹿みたいね、私)

 体を起こしてからため息を吐く。気だるさが残っていたがベッドから降りて背筋を伸ばすとそのだるさも霧散していく。血の巡りが良くなると共に体中に力が満ちていった。
 体調自体は調子が良い時の感覚に近くなっており、問題ない。ならば、何が問題なのか。

(それも、だいたいは分かってるんだけどね)

 部屋の鍵を持って外に出る。外のコンビニまで買い物に行くくらいであるため、服装は浅葉中のジャージのまま。寝まきとして使っていても問題はない。むしろ、寝ていたことで乱れていた髪の毛をどうしようかと悩むほどだ。ジャージのポケットに入れておいたゴム紐で首の付け根あたりで縛り直す。乱れた髪の毛もある程度まとまって、最初からこういう髪型だといえば通じるようには見えた。

(気分転換に何か美味しいものでも食べよう)

 美味しいもの、と言ってもコンビニで売っているお菓子レベルではあるのだが。早坂は自分に対して「しょうがない」と嘆息しつつ、エレベーターで一階に降りた。
 鍵をフロントに預けて外に出ようと歩き出すと、ちょうど向かいから入ってくる人影が見えた。

「あ、見つけた」
「……? あ――」

 自分に掛けられた声に最初は誰なのか全く分からなかった。しかし、すぐにその顔立ちとまとっている雰囲気に覚えがあることに気づく。最初に分からなかったのは、この場所にいる理由がまったく分からない人間だったからだ。

「有宮……さん」
「やっほ。早坂さん。その分だと元気、ってわけでもないみたいね」
「まあ、ね」

 ニコニコと笑みを浮かべながら自分に近づいてくる有宮に早坂は更に困惑する。同じ地元で、小学生の時に東京へと引っ越してきた有宮は、異郷の地では地元の話ができる数少ない人間だろう。だが、吉田ならばともかく早坂にはほとんど接点はない。小学生の時も存在さえ知らなかったし、君長を倒した後で一度会った程度だ。どうしてわざわざホテルにまで会いに来るのか。

「あのさ。少し話があるんだけど、話さない? どこでもいいけど」
「なら、あそこのソファのところとかは?」
「いいよ。あ、ところでこーちゃんは?」

 捲し立ててくる有宮のペースを少しでも落とそうと、早坂は一度間を取ってから再び口を開く。

「吉田は……試合を見に行ってるはずだけど。他の仲間も」
「ふーん。あなただけ残ってたんだ」

 前を歩いているために早坂には有宮の顔は見えない。だが、口調にはどこか棘があり、何度も早坂を背中から出てくる不可視の槍が刺した。自分が気に障る事をしたかと考えて、なにも思いつかない。そもそも、出会った回数は本当に少ないのだから。

(それでも怒ってるとしたら……やっぱり試合のことかな)

 ここ二試合の自分の不甲斐なさは自分でも十分に責めているつもりだった。最初は自分で管理しきれない体調のせいということで仕方がないことだとしても、次は確実に自分のせいだ。その理由が分かっていても解決策を思い浮かべられない。向き合っているようで逃げている気もしてくる。自分の気持ちが分からなくなり、試合に集中できていなかった。
 ソファまでやってくると早坂は奥に座り、その正面に有宮が座る。面と向かい合い、ニコニコとしながら有宮はさらりと言った。

「早坂さん。いい加減な試合しないでよ」
「……は?」

 まさかと思っていたところをやはり責められていたらしい。しかし、あからさまな敵意を向けられるほどのことかと思ってしまい聞き返してしまう。有宮は笑みを崩さずに早坂へと言う。あまりにもあっさりと言うために、早坂は背筋を悪寒が駆けあがっていくことを止められない。

「仮にも凛に勝ったんだから。今の時点であなたは全国一位なんだからね。そう簡単に負けられたらあの子が可哀想じゃない」
「……そんなこと、ないでしょ。全国一位に一回勝ったからって全国一位って……。調子が悪い時もあるし」
「そもそも、全力の凛に勝ってないから無効だって?」

 ずくり、とそれまでとは違った棘が心臓に突き刺さる。一瞬、大きく跳ねた後で徐々に速さを増していく。目の前の有宮を見ていられずに視線をそらすと、大きなため息の音が耳に届く。
 今でも有宮は笑みを崩さないまま自分を見ているのか。それとも別の顔をしているのか。
 見たいという衝動と視線を受け止めていられないという弱い気持ちがせめぎ合い、結局動くことが出来ない。

「確かに。あの時、凛が全力を出したのは最後の方だけだったわね。それまでは靴なりなんなりで制限かけて、自分の武器を封じてた。そんなあの子に、あなたはギリギリだった」

 有宮の言葉で全道大会の決勝戦が頭の中に映像となって蘇る。君長に全力で挑んでいく中で、次々と力を開放して突き放そうとする君長に何とか追いすがった。最後の手を出しても更に上をいかれて負けそうになった。
 それでも、最後の方で君長の使っていたラケットの弦が切れるという偶然が起き、逃げきれた。
 完全に実力では負けていた。それでも、勝ちは勝ち。

「……そうよ。私はあの子には勝てなかった。勝つために練習してきたのに、勝てなかった。それでも、勝った」
「そうよ。試合内容がどうだろうと、バドミントンは勝った方が勝ちよ。他のスポーツでもそうだと思うけど」

 聞こえてきた言葉に視線を上げると、有宮はまっすぐに早坂を見つめていた。表情には笑みはなく、ただ真剣に、真っ直ぐに早坂を見ているだけ。怒っているわけでもなく笑っているわけでもない。
 不思議に思って、早坂は口を開いていた。

「何しに来たの?」
「何って。励ましに来たんじゃない。私は完全なあなたとやりたいのよね」

 有宮は胸に手を当てて強調する。自分が早坂と試合をしたいと。それは、今の早坂ではなく、君長凛という同世代の最強プレイヤーを倒した早坂となのだ。

「全国優勝できる実力を持った凛を倒した選手って、実は早坂だけなんだよね。私も倒したことないのに、先を越されちゃったんだから。その相手を倒したいと思うのは普通じゃない?」
「……普通じゃないけど、私は」
「凛に勝てなかったけど勝ってしまった。そんな変な気持ちが集中を乱してるってわけ?」

 有宮の言葉が再び早坂の心臓に穴を空ける。自分の心の奥底に埋まっていた考えがえぐりだされ、目の前に見せられてしまう。 有宮小夜子。全国二位の女子シングルスプレイヤー。
 彼女が求めていた君長凛はこの大会にはいない。いるのは、彼女を倒して一躍注目されるようになった、早坂由紀子というシングルスプレイヤー。

(でも、それはあくまであの時だけのこと……)

 次に君長と試合をしたら、負ける。
 全道大会が終わってから時間が経つと共に、そんな思いが膨らんでいった。早坂自身、制約を自分に付けて全道大会で試合をしていく中で徐々にだが成長した。君長は同じようなことを決勝で行った。あくまで早坂が格下だとして。
 勝った当初は侮っていた凛が悪いのだと強気に考えられたが、時が過ぎていくと共に自分へと注目が集まっていくのが分かり、次第にプレッシャーがかかるようになっていった。

「試合のすぐ後は『あんたは私を侮って本気をださなかったから負けた』とか言ってたのにね」
「あの時は、やっぱり、試合直後で興奮してたのよ」

 また俯いて有宮から視線を外す。
 全国一位の女子シングルスプレイヤーを倒したということがどれだけのことなのかを早坂は思い知らされた。
 残りの練習期間。その合間に、バドミントン雑誌の記者から簡単ではあるがいくつか質問をされるなども経験した。無論、人生で初のことだ。
 全国の代表を雑誌に乗せるための取材でも、早坂だけは少し多めに時間を取られてインタビューされた。
 チームのエースとして小島や武、吉田よりも注目される。
 日々、積み重なっていく注目が早坂の精神力と体力を奪っていった。

「君長凛を倒すことがどういうことなのかって理解できたら。あんな勝ち方でいいのかなって思うようになったのよ。それに……重なっちゃって。それは第一試合の後で終わったんだけど。第二試合では集中できなくて」
「仕方がないわよね」

 早坂が省略した言葉を有宮は理解して、スルーして話を進める。うつむいている早坂の視界に映るように両手を少し前に出して自分の存在をアピールしながら、言った。

「でも。それでも早坂が言ったことと同じよ。凛が力を押えてたから、負けた。全力を出し切った早坂が勝った。事実は変わらない。だから、別に気に病む必要はないってことよ」
「ずいぶん力こもってるわね」
「私に負けるより先に負けた凛にも腹立ってるしね。でも、それよりもプレッシャーなんて感じて委縮してる早坂にも腹立ってるのよね」

 早坂の両手を急に掴んで、有宮は自分のほうへと視線を向けさせる。三度目の視線の先にも、またニコニコとした顔。内にある負の感情を抑え込むかのように笑っている。

「別にまぐれでもいいじゃない。勝ちは勝ち。まぐれがなくて負け続けてるやつもいるんだから」

 反射的に「ごめんなさい」と言いそうになって早坂は口をつぐむ。勝てないのは有宮自身の問題であり、早坂には関係ないのだから。
 有宮はおそらく、全力の君長と闘ってきたのだろう。そして、負け続けている。
 全力勝負の先。体、命を削り合った先にある勝利を有宮はずっと目指している。

「私と当たる前に、ちゃんと調子取り戻しないよね。じゃあ、帰るわ。全力の先にある敗北を味あわせてあげる」

 有宮は手を離して立ち上がると、早坂に背を向けて歩きだそうとする。しかし、足を踏み出して一歩進んだところで体勢を止めていた。有宮の体の横から先を眺めてみると、外に出ていた仲間達が戻ってきたらしく集団で歩いていた。その中で姫川が早坂と有宮に気づいて駆け足で近づいてくる。

「おおー、ゆっきー。体調どう? あと、有宮さんこんにちは」
「こんにちは、姫川さん」

 早坂の目の前で挨拶をする二人。全く接点がない二人が自分を介してあいさつを交わす姿は、どこか不思議で楽しい気持ちになる。だが、有宮が軽く姫川へと言った言葉にさっと血の気が引く。

「姫川さんも、女子シングルスの座を奪っちゃいなよ。そしたら、東東京と当たったところで私とシングルスできるから」
「え……でも……」
「今の早坂がずっと続くなら、あなたのほうが百倍マシね」

 そう言いきってから有宮はホテルの入口へと近づいていく。後ろ姿を眺めながらぼんやりしている早坂に、姫川から声がかかる。

「有宮さんとシングルスするのも面白いかもね、ゆっきー」
「え……」

 姫川の顔には、邪気はない。だが、早坂は思い出していた。姫川もまた、思ったことをストレートに言う女子だということを。

「このままゆっきーの調子が戻らなかったらさ、やっぱりまゆっちか私が女子シングルスじゃない? そうなると、強い人を倒せれば、さいっこうに楽しいし、いいなって思うの」

 姫川の言葉からは心底楽しそうな雰囲気だけが伝わってくる。早坂を乏しめるという意図はなく、本当にただ強い相手と戦い、倒すのが楽しいのだと言っている。
 目の前にいる姫川から滲み出てくるもの。それは自信だ。市内大会の前までで才能を開花させ、一気に早坂達の地区の女子シングルスで、第三の女子として登場した。そこから全道大会。そして全国と着実にランクアップし、試合を経験してきた。ダブルスが多いとしても、経験は急速にたまっていき姫川の力となるのだ。
 おそらくは、今が一番姫川にとって強くなる時期。

「私はさ、ゆっきーを尊敬することは止めない。でも『早坂さんしかシングルスはいない!』なんてことはないの。香奈ちゃんやまさみんはどうか分からないけど、他の皆は誰もが皆のポジションを奪おうとしているはずだよ。それが、このチームのいいところだと思うの」
「私の代わりに、シングルスに姫川が……」
「うん。ダブルスも楽しいけどやっぱりシングルスも楽しいしね」

 姫川の姿は早坂にとって少し眩しかった。自分を目標としてくれるだけではなく、追い越そうとする。
 お互いに切磋琢磨して、成長していける仲間達。
 特に、今、傍にいる女子は自らも成長度が激しく、早坂も危機感を覚えるほどだ。その姫川が、東東京と当たった場合は女子シングルスで有宮に勝ちたいという。
 力強さに自然と早坂は微笑んだ。

「詠美。ありがと。なんか、目が覚めそう」

 外からと、そして中から言われたこと。
 結局は「早坂しっかりしろよ」というシンプルなことなのだ。そう考えると体を覆っていた気だるさが落ちていく。

(誰かに期待されるとか、注目されるとか……意識しないのは難しいかもしれないけど。気にしてたら、詠美に場所を取られる)

 いつしか力をつけて新たな注目選手となってきた姫川。早坂はそんな選手が後ろから自分を追って来る。追い越しそうになるということに、嬉しくなってくる自分を感じている。
 女子シングルスの席を一時的に譲るとしても、負けない。強い意志を込めた瞳で見返すと姫川はふっと笑い、言った。

「目が結構いいところまで回復したね。もう、大丈夫かな?」
「大丈夫」

 早坂は急に姫川の手を引いて、歩きだす。あまりに唐突なので慌てた姫川が早坂に向けて困惑した表情を向けながら呟く。

「本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。沖縄戦の後で復活するから、ね?」

 多分という言葉を語尾につけるのを止めたこともあるが、早坂の口調は徐々に明るくなっていく。自分でも分かるほどの違い。
 胸の奥からたぎっていく思いに突き動かされるように早坂は前に進んでいった。

 全国大会三日目の夜が更け。
 四日目の朝――決勝トーナメントの幕が開く。
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