Fly Up! 263

モドル | ススム | モクジ
 初めての経験だった。
 武がこれまで触れてきた試合の中では全て、早坂はまっすぐ前を向いて、勝った後で歩いてきた。ジュニア全道大会での君長との試合は負けたが、それでも自分の負けを認めた上で影を落とすことはなかった。次以降に必ず活かすという強い意志があったからだろう。
 しかし、藤原との試合を終えて帰ってきた早坂の顔には今まで見たことのないような落胆と憔悴の影が色濃く残っている。声をかけようにも幽霊のようにふらつきながら戻ってきた早坂に、声をかけられる者はいなかった。

「は――」

 それでも何かを言おうとして口を開いた武だったが、背中に軽く当てられた掌に言葉が止まる。振り返ると吉田が首を振って声をかけることを止めていた。何故と問いかけようとしたが、次の試合に二人が呼ばれる。

「いくぞ、武」

 自分への呼びかけが名字から名前になる時、吉田の試合モードへの切り替えが完了している。それも、集中力が高まった時の変化。ということは、試合が始まる前から吉田の集中力は最高に近い状態となっている証拠だ。

(そうだ。早坂を気にしている余裕はないんだ。俺達は全国に挑んでいるんだから)

 先ほどの藤原は全国区だが、次に自分達が当たる相手はどうなのか。ゼッケンが見えないために審判が試合を始める前の言葉を聞くしか名前を知る機会はない。
 吉田をファーストサーバーに据えて、相手と握手をする。相手は二人とも武と同じくらいの身長だったが、掌が分厚く、武の二倍はありそうだと錯覚する。

(二倍は言いすぎだけど……でかいな)

 掌が大きいということはバドミントンでは必ずしもプラスではない。というよりも、特にアドバンテージがあるわけではないはずだ。通常のグリップの太さでは細くて力が上手く伝えられないという場合に、グリップテープを買って巻くことで太くする。そうすることでちょうどいい太さにして力の伝導を良くする。
 特に恐れる必要はないはずだが、武の中には妙な不安が残った。

「それでは、第三試合を始めます。オンマイライト。南北海道。吉田・相沢。オンマイレフト。静岡。太田川・田邉。フィフティーンポイントスリーゲームマッチ、ラブオールプレイ!」
『お願いします!』

 四人が同時に挨拶してから各自構える。サーブ権は吉田が奪っており、バックハンドサーブで構える。相手は少し前傾姿勢を取ってラケットヘッドを突き出す。最初からロングサーブは来ないと決めつけている姿勢。前にきたシャトルをプッシュすることだけに意識を集中させているようだ。

「一本」

 シャトルを持った左手を後ろに回した吉田はショートサーブを選ぶ。相手が狙い打ちをするつもりのサーブをあえて打つ。それは、挑むことで精神的に負けないこともあるが、武がプッシュを取ると信じているからだった。

(皆、どうしたらいいか分からないくらいに、早坂のことを信頼していたんだろうな)

 吉田が構え、サーブを打つ前に腰を落としながら武は考える。そのまま吉田がサーブを放ち、ネットギリギリに進んだシャトルを太田川がプッシュする。ギリギリでネットに触れることを恐れたからか、プッシュは威力がない。コースはよく、コートの半分くらいの距離でサイドのダブルスラインへと落ちようとしていたシャトルを、武はバックハンドでロブを飛ばした。吉田は右側に動いてサイドバイサイドの陣形を取る。
 武の体は思考を伴わず反射で動く。後ろで構えた田邉がスマッシュをストレートに打ってきても武はクロスにしっかりとロブを上げる。またスマッシュを打たれても吉田がストレートにロブを上げる。
 スマッシュを打たれてロブを上げる。ドロップを打たれても後ろへと上げる。
 ひたすら後衛の田邉に打たせ続けたことに痺れを切らしたのか、田邉はハイクリアで吉田を後ろに追いやった。太田川が武の向かいに陣取り、腰を落とす。次は吉田からスマッシュが来るかもしれないと思っているのかもしれない。

(――いけ、吉田)

 武もまた、吉田がスマッシュを打つだろうと予測して一瞬早く体を前に動かす。次の瞬間には吉田が放ったスマッシュが鋭く相手コートに飛び込んでいく。真正面から受ける形になった田邉はバックハンドで咄嗟に前に返したが、そこには既に武が飛び込んでいた。

「はっ!」

 気合一閃。掲げたラケットを細かく動かすことで鋭いプッシュを生み出し、コートへとシャトルを沈める。

「ポイント、ワンラブ(1対0)」
「しゃ!」

 武が拳を掲げることで仲間達も「ナイスショット!」と盛り立てる。しかし、その輪の中に早坂はいない。うつむき加減で、視線を少しだけ上げて武達の方を見ているだけ。前髪の隙間からぼんやりとした瞳が見えていた。

「武。集中だ」
「あ、おう」

 吉田に促されて後ろに回り、再び腰を落とす。吉田は最初と同じくショートサーブの印を出して今度は相手が構えた瞬間に打った。タイミングを外された形になった田邉だったが、踏みとどまってラケットを寝かせるとヘアピンで返す。吉田はシャトルにすぐさまラケットを伸ばしてクロスヘアピンでシャトルを運んだ。
 白帯の上スレスレを進みながら相手コートに落ちていくシャトル。しかし、前に滑り込んだ太田川は落ちる直前の少ない空間にラケットを入れるとクロスでヘアピンを返した。

(なに!?)

 吉田の体が邪魔になったが、相手が何をしたのかは理解できた。だが、吉田は冷静に反応してシャトルが自分の陣地に入ろうとしたところを狙い撃ち、プッシュで太田川の背中へと当たるようにシャトルを放っていた。太田川はかわしきれずにシャトルが体にぶつかってしまった。

「ポイント。ツーラブ(2対0)」

 背中に当ててしまったことで吉田は太田川に頭を下げる。太田川は無言でシャトルを拾って吉田に返してレシーブ位置に戻る。吉田はシャトルの羽を直しながらファーストサーブの位置へと戻り、次に向けて準備を整えていく。武はさりげなく後ろから小声で問いかけた。

「今のって、結構すごかったよな」
「ん? ああ。どうやらどっちもネット前が得意らしい」

 吉田は特に気負いせずに呟く。気をつける必要もないと言っているように思えて武は続けて尋ねようとしたが、審判がすぐに試合を再開するように指示してきたために少し後方まで下がって腰を落とした。

(別に侮っているわけでもないってことかな)

 吉田の落ち着きように、武は何か納得していた。理由ははっきりとは分からないが、想像はできる。
 吉田は「一本!」と叫んでショートサーブを打つ。シャトルがネットを越えたところで太田川はヘアピンをストレートに打つ。手首をしっかりと固定した上での浮かないヘアピン。吉田はまっすぐ落ちていくシャトルに対して、クロスヘアピンで太田川の前から離れるようにシャトルを打った。手首だけの力で逆方向へと打たれたシャトルはネットすれすれに沿って上がっていく。
 無論、太田川もシャトルの軌道は分かっていて、ラケットを構えて追っていくがプッシュをするにはギリギリの軌道を進んでいるために、再びヘアピンをするしかない。

「はっ!」

 だが、太田川のヘアピンが放たれたと同時に吉田のラケットがシャトルの真正面に現れ、プッシュで撃ち込まれていた。

「ポイント。スリーラブ(3対0)」

 ほぼゼロ距離にも関わらず、ラケットをネットに触れさせることもなく、フォルトになることもなくプッシュを打ち込んだ吉田の技量に軽く拍手が相手側からも出た。味方側も藤田と清水がため息をつきつつ吉田のプレイに拍手している。小島や姫川、安西や岩代はそこまで驚きはしていないが、ナイスプッシュと声をかけてきていた。

「ナイスプッシュ」

 武も同じように声をかけると吉田が首を縦に振る。だが、それは武に答えたというものではない。
 これくらいのプレイはして当然だと言わんばかりの頷きだ。

「まだまだ余裕あるって感じ?」
「まさか。相手のヘアピンは一級品だよ」

 吉田は相手に聞こえない程度のささやき声で武に言う。その割には嬉しそうじゃないかと尋ねようとして、また審判に促される。武に構えるように言いつつ、サインをロングサーブとして吉田は言った。

「あのヘアピンに対抗して勝てれば、俺はまた強くなれる。いや、強くならないといけない」

 それだけ言って吉田はサーブ体勢を整える。次はロングサーブと知っている武は同じように腰を落としてすぐに横に広がることができるようにオープンスタンスで構えた。
 吉田がロングサーブでシャトルを鋭く飛ばすと、田邉はストレートにスマッシュを放つ。スマッシュと言っても軌道が浅くなり、武が前に詰めるには十分の時間がとれた。シャトルをバックハンドでヘアピンにしつつ前に出る。
 また前には太田川が詰め、武の打ったシャトルをヘアピンでクロスに返した。大きな手でしっかりとグリップを握り、手首を固定して絶妙な力加減でヘアピンを打つ。最初にスマッシュが強そうだという印象を持ったことが誤りで、本当はネット前の動きが得意だったということ。武はネットギリギリに進むシャトルに対して、ラケットを一瞬だけ突き出してラケット面でスピンをかけてまた相手側へと返した。
 不規則な回転をつけられたシャトルが落ちて行くところで、太田川がコートに落ちる寸前にまたしてもクロスに返す。吉田が打たれてギリギリにプッシュを打ったことで少なからず驚いた武だったが、実際に自分がクロスに打たれた時も、自然とラケットが前に出てシャトルをプッシュしていた。ラケットはネットに触れることなく、シャトルはプッシュで相手コートに沈む。次のポイントが告げられて、武は「よし!」とラケットを掲げていた。

「ナイスプッシュー!」

 早坂を除く女性陣が武に黄色い声援を送る。それに照れながら応えてレシーブ位置に戻ると、吉田が少し笑って迎えた。

「な。案外いけるだろ」
「……ああいう風なショットをするのは、追い詰められてるからってことか」
「ああ。もちろん、あそこで返せるのは一発逆転になりえるだろうけど。だいたい、ああいうスーパーショットは追い詰められた時なんだよな」

 吉田の言葉を脳裏で繰り返しながら、レシーブ位置につく。吉田の次のサーブはショート。打ったと同時に前に出た吉田のプレッシャーに動揺したのか、太田川は半分テンポを遅らせてロブを上げた。吉田があえて空振りをしたことで風切り音が後ろにいた武にまで聞こえる。
 高く上がったロブに対して少し後ろに陣取り、シャトルへ照準を合わせる。体中の力を右腕に集めて解放するように、武はラケットを振りぬいた。

「おあああ!」

 ラケットがシャトルに当たった瞬間、武は今までにない感覚に襲われた。まるで空振りしたのかと錯覚するほどに衝撃が軽い。しかし、インパクトの音はしっかりと響いてシャトルは突き進む。
 シャトルは太田川と田邉の間に綺麗に打ち込まれ、高く跳ねていた。

「ぽ、ポイント。ファイブラブ(5対0)」

 審判も一瞬、得点を忘れるほどに鮮やかに決まったスマッシュ。太田川と田邉も余りの速さに呆気にとられていたが、打った当人が一番驚いていた。ラケットと転がったシャトルを交互に見て半ば放心している。

(なんか、凄く調子いいかもしれない)

 おそらくは無駄な力がなく、ラケットのスイートスポットにシャトルコックが当たったのだろうと武は考えた。
 集中力が高まった終盤にたまに経験がある感覚を序盤から持っている。自分の調子が過去最高に上がっていることに、武はどこか困惑していた。きっかけが何なのか分からない。理由が分からない力はいつ終わってしまうのか分からないからだ。

(最初から調子いいと難しいよな)

 調子のいい状態に依存してしまうと調子が崩れた時に対応できない。それこそ、早坂のように立ち直れないままになってしまうかもしれない。無論、早坂の調子の悪さはそういう試合中の調子の良し悪しではないだろうが。

(あ……なるほどな)

 早坂のことを思い浮かべた時に、武は自分の調子が良い理由が分かった気がした。吉田の後ろについて再びショートサーブを待つ。放たれたシャトルに田邉がヘアピンを打つも吉田がプッシュですぐに打ち込む。しかし、今度は軌道を読んでいたのか太田川が追い付いてストレートに打ち返した。鋭い軌道で進んでいくシャトルに追いついた武はドライブを打とうとバックハンドに持ち替えて振りかぶる。

「はっ!」

 手ごたえ十分でシャトルを押し出す。力強く放たれたシャトルは白帯にぶつかり、そのまま跳ねて相手コートへと入った。迎撃しようと体勢を整えて振りかぶっていた太田川はタイミングを完全に外されて、シャトルが落ちそうになるところにラケットを差し出すことしかできない。ネット前に打ち上げたところに吉田が飛び込んで力強くスマッシュを叩きこんだことで、六点目を手に入れた。

「しゃ!」
「ナイスショット」

 左拳を掲げる吉田に武が左手を掲げる。その手に思いきり手を叩きつけた吉田は、返されたシャトルをラケットで受け取り、サーブ位置につく。
 七度目のサーブ。同じように腰を落とし、武は自分の思考と体が離れていくように思えた。考えているのは早坂のこと。これまで勝利する姿に自然と励まされてきた自分達が、早坂が負けた時に何ができるのか。
 声をかけられなかった自分に何ができるのか。
 武は体に力がみなぎってきているのは、そのことに関係あると思っていた。

(今まで、俺達が早坂のプレイに励まされてきたんだ。たぶん、俺だけじゃなくて、同じ中学の皆や、瀬名や姫川もそう。おそらく、同じチームになって安西や岩代。小島も)

 チームの柱は間違いなく、小島と早坂の二人。少なくとも武の経験上、この二人が負けることなどほぼ考えられない。だからこそ、早坂に声をかけられなかったのだ。
 声をかけられないならば、行動で示すしか、ない。

(今度は俺達が、早坂を支える番だ。このまま、あいつが終わるはずがないし)

 必ず復活する時が来る。その時まで負けないようにする。武はぼやけていた思いにしっかりと形を与えてラケットを振るっていった。
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