Fly Up! 261

モドル | ススム | モクジ
 最初に体育館のフロアに踏み入れた時、武の中に生まれた感覚は自分にとって不思議なものだった。湧き立つような闘志でも未知の領域に対しての恐怖でもない。森の奥にひっそりと広がっている湖に小さな石を一つ投げ入れた時に生まれる波紋のような、かすかな波がたった程度だった。自分の、外からの情報を受け取る機能が壊れてしまったのかと思うほどに冷静だった。今までの大会と呼ばれるものはどれも武に高揚感を生み出させて、それなりに気合いを振りまく助けになるのだが、今回は本当に静かに前を見ているだけだ。
 吉田を先頭にしてその後ろにつきつつ所定の位置に並ぶ。都道府県の北から順なのか、北北海道の右隣に南北海道代表として並び、更に右には青森代表がいた。男女と交互に並んでいるため、武の隣は北北海道の女子。ひとつ越えれば淺川亮を先頭にして次に西村と山本。あとはジュニア全道大会で見たことがある顔がちらほらといる。吉田の話が本当ならば、十人が十人とも同じ中学だという。女子選手は見覚えがなかったが、どの女子もどこか貫禄があるように武には思える。

(身長、高いなぁ)

 武の隣にいる女子を少しだけ視線を上げる。いつもは特に身長に対して執着はないのだが、やはり女子よりも低いというのはどことなく傷つく。二人目以外はどの子も早坂と同じくらいの身長であるため、二人目だけが異様に目立っていた。

(やっぱりスマッシュが得意だったりするのかな)

 いろいろと想像しつつ、視線を外す。いつしか開会の言葉を日本のバドミントン協会の会長が告げていた。恰幅の良い腹をした、白髪の好々爺。第一回の記念すべき大会に名前を刻めるようにとマイクでしっかりと全員に言葉を浸透させる。それからは副会長という人物が出てきて大会のルールを伝える。
 一日目から三日目まではリーグ戦を行う。各リーグ三か四都道府県で対戦し、上位一チームが決勝トーナメントベスト16に挑む。
 四日目にベスト16とベスト8の試合。
 五日目に、準決勝と決勝を行う。
 まだ体が出来上がり切っていない中学生への体の負担と日程との兼ね合いから、基本は一日一試合となっている。十個用意されたコートで十六ブロックの各リーグに三チームであるため、一日目から三日目までのどこかは試合を行わないチームが出てくることになる。これも四チームある場合は当てはまらないが。
 計五日間。冬と春の境界線である三月の末という時期に、熱い試合が生まれる。

「――では、各自の健闘を祈ります!」

 最後に気合の入った声を上げて副会長は去っていた。拍手で見送り、開会式の終わりを告げられる。すぐに試合の始まりが告げられて、各コートに割当たる。前日の時点でプログラムをもらい、自分達がどこでいつから試合なのかはほぼ把握できている。
 武達、南北海道は静岡、高知と同じ第五ブロックで第五コートでの試合。

「全道予選のほうがハードだったな。次の試合だけに集中すればいいから気が楽だよ」

 試合の場所に向かう間に隣になった吉田が言う。武は頷きつつ視線は自然と早坂へと向かっていた。
 ホテルでの朝食から顔を合わせたが、武の挨拶にも最小限の声しか出していない。顔色もまだ悪かったが、前日よりも、そして朝食時よりも良くなっている。復調していたようだが、試合に出るのはどうなのか。
 オーダーは前日から決まっている。吉田コーチも早坂の体調が悪いのは見て知っているはずだったが、早坂自身が出ると詰め寄るのを武も聞いていた。結果、吉田コーチが根負けした形になって今に至る。

「一日に一試合しかない方がいいさ。勝ち進めば、試合数は増えるはずだろ」
「そうだな。ベスト16からは一日二試合になるな」

 吉田のベスト16という言葉に武は息を飲む。聞いた時は一瞬で右から左に流れたが、ベスト16という単語自体は大したことがないように思えても、全国の都道府県の中のベスト16だ。市内でも、全地区でも、全道でもない。
 全国のベスト16というのはどれほどの高さにあるものなのか。そして自分達はそこに上ろうとしているのだと改めて知る。だからこそ、早坂の力が必要なのは間違いない。

(吉田の父さんは試すのかもしれないな。早坂が、大丈夫なのか)

 前日のミーティングで、今回リーグ戦で対戦する相手チームの戦力はだいたいは知らされている。静岡も高知も、吉田コーチ曰く個々人で南北海道を上回る部分はあるが、刈田達Bチームとさほど変わらない総合力だということだった。無論、対戦したことはなく、吉田コーチが集めてきた情報によるものだが。
 最初に当たる静岡で特筆すべき情報は、女子のほうが強いということくらいだ。

「よーう! 相沢ー」

 考えことをしていて自然と遅くなっていた足取りに追いついたのか、後ろから声がかかってきた。思い当たるのは一人しかいない。声の主に振り向きながら武は名前を言う。

「西村」
「よ。あ、香介も」

 少し先に歩いていた吉田も手招きして呼びつつ、西村は屈託のない笑みで言い放った。

「ぜってートーナメントでやろうぜ!」

 近づいていた吉田と傍にいた武。同時に西村から発せられる闘志によって髪が靡いたような気がした。そのままあっさりと手を振りながら去っていく西村を眺めながら、武は吉田の方を向く。

「なんだったんだ?」
「あいつは昔から試合前はあんな感じだよ」

 まるで気まぐれな風のように一瞬で過ぎて行った西村を見て肩をすくめつつ、吉田に連れられるように試合を行うコートへと向かった。
 武達はコートに着き、吉田コーチの周りに集まる。全員を見まわして、吉田コーチは言った。

「さあ、全国制覇への挑戦の始まりだ。一人一人、全力を尽くして戦ってくれ」
『はい!』

 十人の声が揃う。全員の気合いを体で受け止めて、吉田コーチはあらためてオーダーを発表する。
 男子シングルスは小島。女子シングルスは早坂。男子ダブルスが武と吉田。女子ダブルスは瀬名と姫川。ミックスダブルスは安西と藤田。
 リーグ戦は五試合すべて行って最終的な成績を競い、一位になったチームのみ決勝トーナメントに進む。
 一チームが二勝してすんなりと一位抜けすれば問題はないが、一勝一敗となった時には勝った回数や、直接対決した時はどうだったかなど細かい条件が与えられる。そのために五試合全てを行うのだ。
 一試合目は今後の動向を見る意味も込めて、正攻法のオーダーとなっていた。
 再度気合を入れ直したところで対戦相手の静岡チームがやってくる。ゼッケンには静岡という文字。武達も今朝配られた『南北海道』と書かれたゼッケンを安全ピンでつけている。
 今の自分達は、各学校の代表でも、各地区の代表でもない。
 南北海道という場所を背負って戦おうとしている。
 自然と武は体が震えた。最初に体育館に入った時の穏やかな心の水面が、少し熱を帯びていった。
 審判を務める大会役員が同時に早足で近づいてきて、ポールの傍に立つ。基礎打ちをする間もなく、手を上げながら大きな声で二チームへと言葉をかける。

「試合時間短縮にご協力ください。これから第五ブロック、静岡対南北海道の試合を始めます。全員、コート中央に集まってください」

 審判に従って総勢二十人がネットを挟んで向かい合う。身長は平均的に静岡の方が高い。しかし、静岡の方は緊張しているのか誰もの顔が引きつっているようだった。対して武達は清水と藤田が顔をこわばらせていたものの、男子は並んで平然とした顔をし、姫川や瀬名は笑っていた。早坂は無表情で向いに立つ女子と握手を交わしている。

『よろしくお願いします!』

 全員が同時に挨拶をかわし、手を離すとともにコートから離れる。ここからは、試合を行うプレイヤーだけが入れ替わっていく聖域になる。最初に行われるのは男子シングルス。小島はゆっくりとネット前の中央へと向かい、相手プレイヤーと再度握手を交わした。

「よろしく」
「おねがいしゃっす!」

 スポーツ刈りで額に汗を吸いこむバンダナを付けた男は、すっきりした声で返事をしてきた。小島よりも背は低いが筋肉はあるのか体格は大きく武には見える。じゃんけんをしてシャトルを取られると小島はエンドを今の場所のままとし、レシーブ位置へと歩いて行く。
 振り向いて相手と向かい合ったところで、審判は試合の開始を告げた。

「オンマイライト。田中航汰。静岡。オンマイレフト、小島正志。南北海道。フィフティーンポイントスリーゲームマッチ、ラブオールプレイ!」
『お願いします!』

 おそらくは、今までで呼ばれたチーム名でもっとも大きな、都道府県。南北海道代表としての小島正志のデビュー。武は自然と右手に拳を作り上げる。周りが小島へストップだと声援を送る中で、一人無言のままで小島のプレイを見る。
 相手の田中がロングサーブを放ち、コート中央で腰を落として構えている所へと、小島はあっさりとストレートスマッシュを打ち込んでいた。
 シャトルは田中の真正面へと突き進む。取りにくい場所へと打ち込むのはセオリーであり、小島のプレイには全くおかしなところはない。だが、田中は全く想定外だったとでも言うようにバックハンドからのレシーブに失敗していた。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)!」

 一瞬でサーブ権を奪われた田中は、自分がどうしてシャトルを打ち損じたのか全く分からないという表情でラケットを振りながらコート外に落ちたシャトルを取りに行く。拾い上げて羽を整えてから小島へとゆっくり返し、いましがたサーブを打った位置へと移動するとすぐに身構えた。今度は田中が待ち構える番となる。

「一本」

 小島は静かに呟くように言ってロングサーブを打ち放つ。高く遠くへと飛んだシャトルに対して田中は軽快なフットワークで追いつき、ラケットを振りかぶる。その流麗な動きに武は一瞬で目を奪われた。

(派手じゃないけど、上手い)

 女子が強いと伝えられていたが、男子も上手いように思える。少なくとも、田中という男は派手さはなくても高い実力を持っているように見えた。考えてみれば当たり前で、静岡の代表としてこの全国大会に出てきているのだ。誰もが、レベルが高いのは当たり前。この会場には強敵しかいないのだ。

「はっ!」

 張りのある力強い声と共に田中はストレートスマッシュを打った。小島のボディではなく、横のラインぎりぎりに落ちそうな軌道。シャトルが鋭く小島のコートを侵略しようとしていた。だが、武が気づいた時にはシャトルはラケットによって弾き返されている。ゆったりと、まるで時が止まったかのように柔らかさを見る者に与えながら、シャトルは田中がいるコートへと落ちていく。スマッシュを打った後に斜め前のコート中央に戻っていた田中だったが、シャトルに視線を合わせてラケットを突き出しながら前に進む。飛ぶようなフットワークの後でシャトルを捉え、更に小島の位置を把握したうえでヘアピンを打った。おそらくは取られても次の手を有利にするために、ただロブを上げるのではなく攻めるためぼ手を選んだのだ。
 それでも、小島は返ってきたシャトルにラケットを突き出してスピン回転させたまま落とした。厳しい軌道を更に厳しく返されて、田中は取ることができずにシャトルが床に落ちるのを受け入れるしかなかった。

「ポイント。ワンラブ(1対0)!」
『ナイスショット!!』

 吉田や安西、岩代。そして姫川が中心になって声を出し、小島は親指を立てて応える。武はどこか違和感を覚えて、吉田の肩を軽く叩いて尋ねた。

「なあ。小島、いつもと様子が違わないか?」
「……そうだろうな。俺も分かるさ。いつもより」

 吉田は一度言葉を切って唾を飲み込んでから先を続ける。

「いつもより、怖いくらいだ。体中に闘志が張り巡らされてる、みたいな」

 吉田の声が震えているのを聞き、武はまた小島を見る。横顔だが鋭く田中を睨みつける視線の強さはよく分かった。小島はまた小さく「一本」と呟き、ロングサーブでシャトルを打ち上げる。高く、より高く滞空時間を稼いだシャトルはほぼ垂直にコートへと落ちていく。時間が長いということは田中も追い付く時間があるということだが、真下でラケットを構えてから、すぐに姿勢を崩して後ろに下がった。シャトルがアウトになるという予測だったのだろう。
 しかし、シャトルは横と後方のラインが交わった部分にまるで吸い込まれるように落ちていた。

「ポイント。ツーラブ(2対0)」

 審判の声に重なるようにまた姫川が声援を送る。それを包むように安西と岩代、藤田や清水まで拍手をする。小島の背中を押すように。
 だが、武は小島のまとう雰囲気に怖さまで感じていた。鬼気迫るような力が溢れ出てきているように思えていた。武のそんな様子に気づいたのか、吉田は顔を近づけて武にだけ聞こえるように呟く。

「やっぱり、淺川だろうな」
「……傍で見たからかな」
「それよりも、自分に全く話かけなかったからかもな」

 わざわざ隣に並んでいて、移動する時も傍にいたにもかかわらず一言もなかった。他のチームの選手に遠慮なく話しかけてくるような者がいないのは普通ならばあまりおかしいことではないが、歩いている間に西村が吉田と武へと話しかけたのが後を引いているのかもしれない。西村はあくまで過去、同じ中学の同級生だったことによる縁で話しかけてきただけなのだが、小島にはそう映っていなかったのかもしれない。

「小島は本気でこの大会中に淺川に勝つ気なんだろうな。早坂が、君長を倒したように」

 ほんの二週間前に、早坂が女子シングルス一位を倒した光景は武の目にも焼き付いている。ジュニア全道大会で偶然にも同じような立場になった二人。最強のプレイヤーを倒すことを目標にしてこの大会に挑むことになった。そして早坂は女子シングルス最強の君長凛を倒した。その光景は小島にどう映っていたのか、武にはなんとなく想像ができていた。
 自分が尊敬する相手が、自分と似たような目標を達成する。
 それは嬉しかったが同じくらい切ないものだろう。自分が好意を抱き、追いつきたい、追い越したいと思っている相手が先に目標を達成することで、祝福すると同時に置いて行かれた寂しさもある。
 自分が早坂に感じていたようなことを小島もまた感じているのではないかと思えて、どこか声援を大きく送るつもりにはなれず、静かに見守る。

「さあ、一本だ」

 小島の一言から静電気が宙を舞ったように武には見える。無論錯覚ではあるが、小島から発せられる闘志が空気を伝わっていくのが見えるかのようだ。視線を田中へと移してみると、額から汗を出して緊張に体をこわばらせていた。横にいる武達には感じられないが、ネットを越えて真正面にいる田中には凄まじいまでのプレッシャーがかかっているだろう。
 勝ちあがる先にいるであろう淺川まで、小島は立ち止まるつもりはないのだ。

「……小島のやつ、全力でいくつもりだな。淺川にそこまで強く勝ちたいって思ってるんだろうけど、疲れないかな」
「それはそれだろうけど。別の理由もあるだろう」
「別の理由?」

 吉田の言葉の意味を尋ねようとしたが指をさされてコートに視線を戻す。一瞬で小島のスマッシュが田中の股間を抜けて床に突き刺さり、三点目を取る。はっきりと見える二人の実力差に静岡側は焦りを隠せないまま応援していた。

「小島は心配いらないな」

 吉田の呟きに含まれる意味は、武にも分かった。

 そのまま、小島は一回もサービスオーバーを取らせないままで田中を完封したのだった。
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