Fly Up! 249

モドル | ススム | モクジ
 閉じていた瞼の向こう側から光が届く。
 早坂は一瞬だけ自分が一体どこにいるのか忘れてしまっていた。ただ自分は立っていて、汗は体の毛穴という毛穴から出ているような錯覚に陥り、更に耳には痛くなるほどの拍手が届いている。自分の周りを取り囲むようにして、多数の人が手を叩いている。
 自分が一体何をしているのか。まずはもう動かなくていいのだということを思い出す。そしてそこから芋づる式に記憶が蘇る。
 現在の中学バドミントン界の最強のシングルスプレイヤー、君長凛との試合。ファイナルゲームまでもつれ込み、最後のラリーを制して、勝った。
 そこまで思い出してからようやく早坂は目を開ける。とたんに目に汗が入り手で拭ったが、充血して痛みを露わにした。

「大丈夫ですか?」

 ネットを挟んだ向かい側から君長が声をかけてくる。最後にネット前に互いに飛び込んだ状態で試合が終わったのだとも、声をかけられた所で思い出す。自分の記憶が完全に飛んでいることに動揺を隠せないまま、早坂は答えた。

「ええ……だいじょう、ぶ……よ」

 頭を軽く叩いて自分を少しでもしっかりとさせる。その行動に君長は目を何度か瞬かせたが、それも一瞬。すぐに無表情になってネットの上から手を差し出してきた。早坂も遅れて手を出し、握る。

『ありがとうございました』

 同時に言ってから、先に君長が手を離す。その顔には悲しさも悔しさもない。その奇妙な表情に不思議さを感じていた早坂だったがやがて君長が口を開く。

「最初から全力を出せなくて、ごめんなさい」

 そう言って君長は足早にコートから出た。次の試合は今行われているゲームの展開次第のためにすぐ行われることはないが、自分のチームの応援に行きたいのだろう。その後ろ姿を見ながら言われた言葉を頭の中で繰り返す。

(最初から全力を出せなくて、ごめんなさい。か……)

 その言葉から、早坂は心の中にかすかに寂しい気持ちが生まれるのを否定できなかった。試合の途中から君長になんとしてでも勝ちたいと思うようになった。今の自分の実力は本気を出した君長には届かない。だからこそ、どうにかして勝つ手段というのを模索しなければいけなかった。それは、次のリベンジにするしかないだろう。
 しかし、負けた側が全力を出せなくてごめんなさいと謝るのはおかしいと早坂は思う。それで負けたのだから、謝罪するのは早坂にではなくチームメイトへこそ必要だ。

(なんだろ……今は、ちょっと考えられないな)

 試合が終わって、歩き出そうとしても体が上手く動かない。そのまま前に倒れそうになった時、いつの間にか駆けつけていた姫川が早坂を抱き留めていた。

「やった! やったよぉ、ゆっきぃい!」
「……えいみ。なんであんたが泣いてるのよ」

 顔は見えなかったが、声に交じる涙を聞いて問いかける。言葉にも力が入らないが自分を支える力はかすかだが残っている。早坂が足をつけて立ったことを確認してから姫川は体を離した。早坂が思った通り、姫川の目には涙がたまっていて今にも溢れそうになっている。口元を震わせて、声を出すのも一苦労という体だ。

「だって。だって……あんなに強かった君長に勝ったんだよ! これが喜ばずにいられる!?」
「……いられる?」
「急に私に振らないでよ」

 姫川の剣幕に気圧される形になって、早坂は遠慮しがちに姫川の後ろにいた瀬名へと質問を振る。急に問われて何も思いつかない瀬名は困った顔をして二人を交互に見た。しかし、早坂は瀬名の目元にも涙が溜まっていることに気づく。じっとその涙を見ていると、気づいた瀬名が涙をぬぐう。

「何よ。私だって、感動したんだから、いいでしょ」
「うん。ありがとう」

 早坂は素直な反応に顔を赤くする瀬名から目を離してコートの外に歩き出す。声援をたくさん送ってくれていたのは分かっていた。必死になって、なりふり構わずに自分の事を応援してくれた二人。
 二人だけではなく、清水に藤田。小島や安西、岩代とチームのメンバー全員。更にはBチームの面々も、全員で早坂の勝利を後押ししてくれた。それらの声が自分を勝たせてくれたと信じている。
 コートの外に完全に出て、ラケットバッグを背負うと控えの席のところまで歩き、用意されていた椅子に座る。そこで全体重を預けたことで体の疲れがどっと襲ってきた。眠くなって気を失いそうになるが、そうも言っていられない。体を起こして、試合をしている武と吉田のコートへと視線を移した。

「大丈夫か?」

 傍に寄ってきたのは小島だった。隣に座り、早坂の具合を心配するように覗き込んでくる。顔の距離の近さにどきりとして体ごと後ろに逃げてから、一つ息を吐いて気持ちを落ち着かせた上で言った。

「一日分の体力使ったけど。大丈夫。準決勝に休ませてもらったおかげかな」
「そっか。ま、お互い勝てて良かった」
「小島もか、そうよね」

 早坂が右手を上げたと同時に小島も同じく右手を上げて、そこに向かって軽く叩く。乾いた音が響き、掌に走った痛みが意識をもう少しだけ覚醒させた。

「相沢達はどうなってるの?」

 早坂の問いかけに小島の顔が曇る。戦況が悪いのかと不安になり、スコアボードを見ると8対8の文字。一進一退の攻防と言ったところであり、悪いというほどでもない。ならば小島が顔を曇らせているのはなんなのか。

「相沢達は悪くない。徐々に点を取って、サービスオーバーになって追いつかれて、また奪い返してって繰り返しだ。ただ、相手が怖い相手だな」
「怖い?」

 ちょうど吉田のファーストサーブらしく、シャトルを持って相手コートにサーブを入れるところだった。迎え撃つのは鈴木直人。小さい体躯で前傾姿勢に構える姿に早坂は、どこかで見たことがあるような気がする。その考えが固まる前にシャトルを打ち返した音によって霧散した。吉田のサーブをきっちりプッシュで打ち返した鈴木は前に入る。打ち返されたシャトルは武が綺麗にロブを上げて危機を脱した。武が左。吉田が右というサイドバイサイドの陣形になって、相手の攻撃を迎え撃つ。
 スマッシュを打とうとしているのは梶幸助だ。身長が高く、しかし筋肉が特についているというわけでもない。早坂から見れば運動をしているのかというスリムな体型だった。しかし、その腕から繰り出されたスマッシュは弱弱しいものではなく、武のスマッシュと競える程に速かった。

「はっ!」

 真正面に来たシャトルを武が気合いと共に打ち返す。低い軌道は避けて、高くしっかりとシャトルを打ち上げる。ダブルスならばあまりとらない戦法をとっている理由が気になっていると、横から小島が言ってきた。早坂の心の内を読むように。

「あの鈴木の前衛の反応速度が凄いんだよ。100%じゃないけど、結構な確率で相沢や吉田が打つドライブのコースにラケットを出せて、インターセプトされるからうかつに打ち込めないのさ」
「そうなんだ。あと、あの梶って人も」
「ああ。あんなひょろ長いのにスマッシュが凄い。多分、筋力よりもフォームとかタイミングで打つタイプなんだろうな」

 小島の解説を聞いていると早坂の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。疑問というよりも、先ほどと同じようにどこかで目にしたことがあるような。耳にしたことがあるような光景や言葉。けして人生経験が多くあるわけでもない。ただ、バドミントンで強くなることで多少活動する範囲が広がった程度。自分が見聞きした情報と他の面々の情報がそこまで異なっているわけではない。
 つまり、身近で似たような経験をしているはず。そう考えると一瞬で結びついていた。

「なんか、あの二人。吉田と相沢みたい」
「そうなんだよ。あいつら、体格が違うだけで吉田と相沢にそっくりなんだ。明確に役割が分かれてると思ったらそうでもない。二人とも同じくらい前衛も後衛もできる。今の吉田と相沢と同じなんだ。そっくり合わせ鏡だと思ったぜ」

 小島の言葉に改めて四人を見る。鈴木と吉田。梶と武。それぞれに照らし合わせて見てみると、本当に似ているように見えてしまう。そう思っていると、攻守交代して上がったシャトルを武が思い切り飛び上がって打ち込んでいた。

「はっ!」

 急角度でコートに突き刺さるシャトルに、まばらに拍手が鳴る。先ほどの君長と早坂の試合を見ていたからか、武達の試合にも注目が集まり始めていた。団体戦の成績はAチームの二勝。ここで武達が勝てば優勝が決まる。
 南北海道代表として武達が全国大会へとコマを進めるのだから。

「相沢達が、負けると思う?」
「いや、まだ思わない」

 小島は早坂の質問に対して否定する。だが、言い回しが気になって早坂は更に尋ねた。すると小島は言い方を探すように中空に視線を這わせてから、諦めたように頭を振った。

「俺も直感だよ。あの二組は本当に相沢と吉田に似ている。経歴も、ここまで来た流れも。元々鈴木のほうは小学生の時から全道大会に出ていた。梶は全くの無名。中学時代に二人が出会ってダブルスを初めて、一気に力を開花させた。ジュニア大会の時に出ていたダブルスを差し置いて、函館Aチームの正ダブルスになってる」

 早坂は小島の発言を頭の中で整理する。そこで小島が言いたいのは、二人の成長度ということだろうと推測した。中学からの急激な成長。それはまさしく武のことだ。元々小学生時代に固めた土台があるからこその成長だろうし、そう言った例は日本中のどこでも探せば見つかるだろう。それでも、同じような経歴のペアにここで当たるというのは早坂も嫌な感じがしている。

「相沢達は、全道大会で橘兄弟と戦って、実力を開花させた。北海道内なら、そう簡単に他のペアには負けない筈だけど」
「少なくとも相手が橘兄弟のレベルじゃなければな……でも、相手が試合の間に成長する可能性もあるってことだ。そこまでのレベルに」

 試合の中で成長していく。それを武と吉田を見て実感してきた二人だからこそ、不安が共有できる。早坂自身も過去に、と言っても一年と少し前だが、武に実力差を埋められて嬉しさと同時に嫉妬、恐怖と言った負の感情が生まれていた。自分が積み上げてきた年月を一気に追いつかれる。実力の差があればあるほど、その差を見て成長できるものは成長していく。
 吉田はまだしも、武はそうやって相手に追いつき、最終的に乗り越えることで勝利してきたのだ。

「もし、相手が相沢達と同じなら。少なくとも相沢は初めての経験をすることになるな。自分がやってきたことを、されるかもしれない」

 小島の一番嫌だと思っていることを聞いて、早坂もまた胸の奥に込み上げる嫌な感じから意識を反らすわけにいかなかった。そこで急に視界がぼやけて早坂は目元を抑えた。心なしか体も先ほどよりだるい。

「おい。本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって……心配し過ぎ。でも喉乾いたから飲み物買ってくるね」

 置いたラケットバッグに入れた財布からペットボトル一本分のお金だけ取り出して早坂は立ち上がる。

「他の奴に行ってもらえよ」
「いいわよ。少し、熱気から離れて休みたいの。皆は、相沢達を応援してあげて」

 そこまで言って早坂は軽く手を上げて歩き出した。姫川や瀬名も早坂に座ってるように告げたがそれを丁寧に断って、早坂はその場から去る。

(もう少しだけ、試合の熱気から離れた場所で休まないと体が持たないわね)

 その場にいれば応援に熱が入る。そうすると、体力がなくなって倒れてしまいそうだった。
 後ろで起こるシャトルを打ち合う音と歓声を聞きながら、早坂はゆっくりと壁伝いにフロアの出口に向かう。ドアのところまでたどり着いて閉まっていた扉をゆっくりと押し開けてホールに出ると、自動販売機を探すために見渡した。目当てのものはすぐに見つかり、目の前まで歩いていってからお金を入れてスポーツ飲料のペットボトルを手に入れる。

(さて……どこで休もうかな)

 地元の綜合体育館やスポーツセンターならばいくつか静かに休める場所というのは分かったが、勝手を知らない他の体育館ではそういう場所を探すにも一苦労だ。ペットボトルの口を開けて一口飲んでからまた周囲を見ると少し先にあるトイレの横から女性が出てきた。女子トイレというわけでもなく、何か通路が続いているように見えた。
 それも気になったが、出てきた女性に早坂は見覚えがある気がしていた。

(知らない人だけど……顔は見たことある。誰だろう?)

 女性は早坂の姿に気づいたのか一瞥し、すぐに前を通り過ぎていく。早足で試合が行われるフロア、ではなく二階席のほうへと向かって行く。その後ろ姿を見送りつつ記憶を辿るがどうしても思い出せない。

(誰だろう?)

 考えても答えは出ないまま。早坂はひとまず考えるのをやめて女性が出てきた場所へと歩いていく。思った通り奥に繋がる通路の先には休憩するスペースが広がっていた。他の方向からも通路が伸びているため、早坂が見つけられなかっただけでいくつか道順はあるのだろう。とにかく座ろうと足を勧めたところで、止まる。

「君長、さん」

 早坂の視線の先には君長凛が先に椅子に座っていた。余り距離は離れていなかったにもかかわらず、早坂の声が聞こえなかったのかぼーっとして床を見ていて反応はしない。気まずさにその場からゆっくりと立ち去ろうとしたが、別の方向から第三者の声が静寂を破っていた。

「やっほー、凛! お母さんに怒られてたの? 負けたから」

 声がした方向に君長が視線を向け、驚いて口を開けた。早坂も同時に視線を向けており、そこにいる少女を確認する。
 黒髪のストレートのうち一房ずつ左右の頭の上の方で結び、垂れさせている。服装はセーラー服で、明らかに試合のために来ている様子ではない。早坂はまたしてもどこかで見たような顔に混乱する。

(さっきからそんなのばかりよね……)

 困惑する早坂を少しだけ立ち直らせたのは、君長の言葉だった。驚きに空いていた口が開かれ、その名前を口にする。

「有宮さん……」

 君長の言葉に有宮は手を振って近づいていく。更に、視線を君長から早坂へと移して笑いかけた。

「そして。まさか凛を倒すとは思わなかったわよ。は、や、さ、か、さん!」

 屈託のない笑顔を向けてくる少女――有宮小夜子。
 早坂はまだピンと来ていないが、君長にも気づかれて二人の視線を集めていた。

「せっかく、三人が集まったんだし、少し話しましょうよ」

 有宮は心底楽しそうに笑顔を見せて言った。
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