Fly Up! 248

モドル | ススム | モクジ
 君長がシャトルの下に回り込み、スマッシュを打ち込んでくる。その速度は今までと変わっていない筈なのに、早坂にはスマッシュの速度が格段に速いように感じ取れた。それでもラケットを出して弾き返せているのは、体感的なものだけで本来のスマッシュ速度が変わっていないことを示している。それでも、自分の感じ取れる速度と実際の速度の差は修正しなければ、いずれその誤差によってシャトルは自分のコートに落ちる。
 それを証明するかのように、君長のドロップがネット前に落ちることを止められなかった。

「ポイント。エイトテン(8対10)」

 自分で打ったシャトルを自分で瞬時に取りに行く君長に早坂は一歩も動けなかった。実際に、サービスオーバーから一気に足腰の力が衰えて気を抜けば立っていられなくなるほど。君長から来るプレッシャーは今まで以上に静かで冷たくなっている。

(あと、一点なのに……遠いなぁ)

 上を向いて息を吐いてから前を向く。あと一点と考えるから辛くなる。今までと同じようなイメージで一点を取るようにすれば、少なくとも過度な期待や上手く得点に結びつかないことにたいして怒りは生まれないだろう。そうして精神制御をしても、君長の姿を見ているだけで気が遠くなりそうになっていた。

(あんな小さな体にどれだけ実力が詰まってるのよ)

 早坂は急におかしくなり、頬が緩む。相手のサーブとはいえ点差は二点。更に追いつかれてもセティングを申請すればあと二点分、終わりまでの道が繋がる。先に十点を取った時点で早坂の優位は動かない。
 だが、早坂は自分が勝つビジョンを全く見出すことが出来なかった。

「一本!」

 シャトルを打ち上げられて、早坂は後ろに下がる。シャトルの真下でハイクリアをストレートに打ち、コート中央に戻ると既に君長がシャトルに向かって飛んでいた。どれくらいの距離かは分からないが、今までよりも更に後方から前に飛び込んでいる。ダイビングスマッシュとでも言わんばかりに。

「やっ!」

 ダイビングスマッシュで放たれたシャトルは瞬時に早坂のコートを侵略する。コースはストレートとほぼ分かっていたために動き出すのも早い。それでも、シャトルに追いつくのはギリギリになって早坂はネット前に返すのが精いっぱいだった。しかし、またしてもラケットを掲げて飛び込んでくる君長。もう何度、目にしたのか分からない。後方からスマッシュを打って前に飛び込んでくるという流れ。

(ここで……逆サイド!)

 君長が打った後で軌道を変えられないように、タイミングを見計らって逆サイドへと飛ぶ早坂。シャトルは予測通りクロスヘアピンで飛んできたが、鋭くえぐりこむように飛んできたシャトルに早坂は触れることすらできなかった。

「ポイント。ナインテン(9対10)」

 早坂はラケットを伸ばした体勢で倒れて、コートにラケットをぶつけてしまう。そのまま四つん這いで息を大きく吐きながら早坂は少しの間、じっとしていた。体力の消耗が激しすぎることに疑問が生まれ、その答えを探そうとする。
 だが、それはシンプルなことだった。今まで試合の流れの中で脳内物質が体の疲れを忘れさせていた。それを君長凛が今まで感じたこともないような圧倒的な圧力をかけてきたことで正気に返り、その結果、体が疲れを思い出したのだ。

(このまま……負ける……の……?)

 早坂はゆっくりと立ち上がり、レシーブ位置へと歩いていく。足元がおぼつかなく、ふらつきながらも進んでいく。頭から流れる汗を手で拭いて、ユニフォームに擦り付ける。少しでも汗をぬぐって、視界を良くしなければ。君長の速度にいは追いつけない。

(最後まで速度は衰えない、か……体重軽い上に体力まであるし。ほんと、凄いわね)

 レシーブ位置に立ち、真っ直ぐに前を見る。そこには君長がシャトルを持って、サーブ体勢を取ろうとしていた。それにつられるようにラケットを上げる早坂。あと一点で同点。セティング。
 それでも、希望は見えない。

「早坂! 絶対ストップ!」

 後ろから瀬名が声を出してくる。約束したあだ名や名前で呼ぶということさえ忘れて。その声を聞いているとふいに背中を押されたような気がした。早坂は慌てて後ろを振り向くが、そこにはコートより離れた位置で応援する仲間の姿。振り返った早坂に更に声援を送り、テンションを上げていく。早坂は再び君長へと視線を戻すと、息を思い切り吸って叫んだ。

「ストップ!!」

 見えるならば自分の体からも迸る闘志が出ているだろうと思うくらいに、早坂は声を出す。その声に乗せて自分の中の力を引き出すかのように。さっきまでの自分を叩き潰して、再度、君長に勝負を挑もうとする。

(馬鹿だ、私……さっきまでの私は、もう負けたって思って諦めてた……皆が、諦めてないのに。諦めてた!)

 君長のロングサーブ。シャトルに追いつき、早坂はクロスにハイクリアを放つ。それを追うように中央から少しだけ右斜め前に移動し、君長の次に備える。

「はっ!」

 君長が打ったのはストレートのハイクリア。真っ直ぐ、シングルスラインを添うように突き進むシャトルに早坂は追いつくと、またクロスに思い切り打った。終盤で体力が尽きようとしている時にもコントロールが必要なショットを連発するのは危険だが、君長はそれをやってのけた。その気迫に早坂は精神的に押されて負けを受け入れていた。

(なら、私もやるしかない!)

 腹は括る。最後まで、シャトルが落ちるまで諦めずにラケットを振ると。
 前に飛び出していた状態からシャトルを追ってコートを駆け抜ける君長。クロスハイクリアで最も深いところを侵略されても、君長は即座に追いついて、更に後ろへとまわる。ダイビングスマッシュの体勢から前に飛び、そのまま打ち込んでくる。今度はクロスに鋭いスマッシュが飛び、ストレートと読んでいた早坂は咄嗟にラケットを出してシャトルに向けて飛んだ。
 ラケット面がシャトルを捉え、ふわりと浮く。体勢を崩しながらもその軌道を目で追っていた早坂だったが、その視界に君長の体が映る。絶対に追いついてくるとの確信。早坂は倒れそうになる体を右足を踏み込むことで押さえつけて慣性を強引に捻じ曲げる。足首に痛みが走るが気迫で握り潰し、腰を落として君長のショットに備える。君長は前に飛び込むと、フェンシングのようにラケットを前に突き出してスピンをかけた。ふらふらしながら落ちていくシャトルに、ラケットを出してロブを上げる。
 また君長はそのシャトルを追って後ろへと飛んでいく。

(ここで……ここで、何とか打ち返す!)

 今までの成功と失敗が一瞬で頭を駆け巡る。成功した時は全て、早坂の読みが当たって君長がシャトルを打った直後に前に飛び出すことが出来たためだ。それ以外は全て後手にまわっている。それでもラリーを続けていけば打ち勝つことは何度かあったが、今の君長にそれは望めない。
 しかし、この状況で逆転するには君長のショットをカウンターで返し、反応しきれない速さを出すしかない。

「はっ!」

 再びスマッシュを打つ君長。だが、そのシャトルはスマッシュとまったく同じ軌道で、速度が半分ほどしかない。スマッシュともドロップとも言えない微妙な軌道に対しての防御力はなく、かいくぐられてしまう。早坂は外されたタイミングを回復させるために一度腰を思い切り落としてから前に飛び出した。そこでラケットを伸ばしてネット前に間に合うように。だが、シャトルはネット前で勢いを無くして落ちようとする。早坂はぎりぎりラケットを伸ばしてヘアピンを打った。苦し紛れのネットプレイに君長はクロスヘアピンを打って早坂から遠ざかるようにシャトルを打った。

(しま――)

 後を追おうとしても体が言うことを利かず、倒れるのを何とかこらえるくらいしかできなかった。早坂の視線の先でシャトルがコートにつこうとする。死守しようとしてできなかった、十点目。
 しかし、シャトルはシングルスラインのさらに先に落ち、静かに転がった。

「サービスオーバー。テンナイン(10対9)」

 早坂自身も考えもしなかった、君長のミス。ゆっくりとシャトルの傍に歩いていき、左手で持ち上げる。振り返ると、君長が審判にラケットを掲げて何かを見せていた。

(……ガット。切れたんだ)

 早坂から見ても明らかに、君長のラケットのガットが中央から切れていた。横と縦が一本ずつ。もうこの試合の間は使えないと、コートの外に出てラケットバッグの中にあるラケットを探し始める。どの段階でかは分からないが、ヘアピンを打った時にはもう切れていたのだろう。それに気づかずに微妙な力加減を必要とするショットを打ったことで、意図通りのコントロールが出来ずにサービスオーバーとなったのだ。
 自分の実力とは言えないが、チャンスには違いない。早坂は最後のサーブと思い、シャトルを構える。

『いっぽーん!』

 後ろから聞こえてくる応援。それに自分の気持ちも乗せるつもりで呼吸を重ねる。君長はラケットを何度か振ってから掲げて「ストップ!」と声をぶつけてきた。不可視の圧力。その強さに何度怯んだか思い返す。それでも、その度に立ち向かってきたことも。

「一本!」

 シャトルを下から思い切り打ち上げる。スマッシュの逆をやるように、腕をしならせてラケットが一番力を込めらえる場所にインパクトの瞬間を持って行く。シャトルがそこに落とされ、コックにラケット面がぶつかった時。早坂は今までで一番の乾いた音を聞いた。
 理想の力加減。理想のラケット軌道。そして理想のタイミング。
 それらがこの時に結集し、シャトルを打ち抜く。君長はシャトルを追って後ろに移動したが、いつもと違う軌道に顔をしかめた。高く深くというのは変わらないが、高さがいつもより高い。落ちてくるタイミングで落ちてこないシャトルに君長の体がバランスを崩した。早坂はその様子を見ながら集中力をより高める。次の打つ場所を全力で読み、そこにラケットを置いてカウンターを加える。今まで、ラリーを制してきたのはコースの読み。移動速度より早いタイミングでシャトルを返すことが出来れば、勝てる。

(あと、一点分だけなの! お願い!)

 誰に頼んだのか早坂自身にも分からない。そして、君長がラケットを振りかぶり、スマッシュを放ってきた。スマッシュによりシャトルは斜めにコートを切り裂いていく。端からのクロスショットで、早坂が今、腰を落としている場所に突き進んでくる。バックハンドに持ち替えて前に出す。余計に振ることはせずにただ当てるだけ。
 跳ね返ったシャトルに君長は即座に反応して前に詰める。ラケットを掲げてプッシュしようとラケット面を立てたまま突進する。だが、実際に打ったのは早坂の頭上を越える軽いロブだった。

「はっ!」

 飛び上がってインターセプトし、君長をコートの奥へと追いやる。着地してまた腰を落として君長の行方を見るが、早坂は違和感を覚えていた。
 それは背筋が凍るような、いまだに本気を出していないかもしれないという違和感ではなく。何かが悪い方向へとおかしいというものだ。君長は追いついて前に飛ぶダイビングスマッシュを打ち、ストレートにシャトルを沈めてくる。しかし、早坂は咄嗟にラケットを出してから思い切り振り切ってシャトルを完璧にクロスへ打ち返していた。勢いよく飛んで着地した直後では君長もすぐには追えない。バランスを崩してからすぐに立て直して追いかけるも、最初のタイムロスが響いてハイクリアで体勢を整えることしかできなかった。

(スマッシュも遅い。ハイクリアも……どこか前よりも飛んでない)

 次の弾道を予測できるまでに君長のショットを見て、受けてきた早坂だけに、その些細な変化が逆に目についた。シャトルを追って真下に入り、ストレートのハイクリアを打つ。コントロールに不安はあったが、自分も厳しいところを渡らなければ君長には勝てない。

(お願い!)

 また誰にかは分からないが祈るような気持ちで早坂はシャトルを打つ。ストレートに、ライン際を進んでいくシャトルの下へと君長が移動してクロスでスマッシュを打ち込む。受け止めて前にヘアピンを打つと、また瞬間移動のように君長が現れてヘアピン。ネットすれすれを飛ぶシャトルをどうにかロブを上げて回避し、また最初の立ち位置へと戻る。
 何度も繰り返していくうちに、精度が落ちてきたのは君長だった。シャトルのコースが甘くなり、早坂はその隙を打ち込む。しかし、君長も打ち込まれてからの反応速度が尋常ではなく、早坂が決まると確信して打ったシャトルでさえもロブで打ち返していた。
 そうしてラリーは誰も到達したことのない長さへと続いていく。互いのハイクリアやドロップ、スマッシュ、ドライブ、ヘアピンを互いに凌ぐ。更に攻守交代を繰り返してシャトルが宙を何度も何度も行き来する。
 誰が最初に立ったのか分からない。しかし、徐々にその試合を見ていた観客達は席から立って固唾を飲んで見守っていた。
 ただ決勝を見に来ていた客も。
 準決勝で敗れたチームの選手達も。
 そして、決勝で戦っていて、今、試合をしている武達を除いた他の面々も。
 全員が早坂と君長の永遠に続くとも思えるラリーを見ていた。

「はぁああ!」

 一際大きな声を上げて、君長がスマッシュを放つ。ラリーの序盤に落ち込んでいた精度は徐々にラケットを取り換える前に戻っていき、ここにきて完全に以前と重なった。だが、早坂は真横に移動してラケットを伸ばし、インパクトの瞬間に手首だけで逆サイドへとシャトルを打った。
 ぱすん、と空気が抜けるような軽い音。それでも、シャトルはネット前に進み、シャトルコックがネットを越えたところで落ちる。君長が突進してシャトルを取ろうとするが、ギリギリの位置。

(君長なら、取る!)

 早坂は油断なく、同じように前に出て君長が打ったシャトルを取ろうとした。
 足を踏み込む音。コート前で重なる影。
 コート外から見ていた選手達からは影になる位置で、二人は足を思い切り踏み込んで動きを止めた。
 響いた音がしっかりと空気の中に吸い込まれたのを確認するかのように、早坂は右足を踏み込んでラケットを伸ばした状態から立ち上がった。同じく、君長も斜めに倒していた体を起こす。
 二人で見つめあう下には、シャトルが転がっていた。

「ポイント。イレブンナイン(11対9)。マッチウォンバイ、早坂!」

 審判の声が耳に届き、早坂は全てを出しきったというように天井を見上げて、目を閉じた。
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