Fly Up! 208
「ポイント。フィフティーンテン(15対10)。マッチウォンバイ、寺坂、菊池」
相手が自分達の負けを告げる言葉に、寺坂は肺から疲れた空気を吐きだした。
いつもの自分の実力以上の試合ができた時には、必ず吐き出されているもの。普段の息と何が違うのかと問われると上手く説明できないが、寺坂の中では確かに異なる。
(私……強くなってるの、かな)
合同練習に入って、寺坂は菊池とダブルスを組み続けている。現在、二年女子の正規ダブルスである明光中の堤・上代ペア以外には接戦ながらも勝っていた。学年別では一位だった以上、同学年には勝てるのは理解できる。数週間前の試合結果は簡単には覆らない。しかし、二年女子ダブルスでも二位から四位には勝っているのだ。それに対して慢心を持つほど寺坂は気が大きくない。むしろ、手ごたえがいまいち掴めないのに勝っていることに首をかしげていた。
「どしたの? トモ」
パートナーである菊池が声をかけると寺坂は首を振る。
自分とは違い、菊池は勝ったことに純粋に喜んでいた。どうして勝てたかに対して、前向きに考えようとしている。それに、自分がついて行っていない。そんな感覚を得ている。
(考えすぎ、なのかな……たまたま調子がいいだけなのかな?)
市内でも上位のプレイヤーと常に打てる今の環境は、寺坂にとってはありがたいものだ。少しでも集中して、強くなりたい。憧れた強さに少しでも近づきたい。そう思って合同練習に臨んでいる。
だからこそ、結果は出ているが、実感が湧かないという現状に困っていた。
(何か。きっかけが必要なのかな?)
菊池の後について監督の吉田コーチの下へと戻る。結果を菊池が報告するのをぼんやり聞いていた寺坂の耳に、鋭い一言が入ってきた。
「次は……よし、早坂と瀬名。寺坂菊池組と試合だ」
寺坂ははっとして顔を上げる。視線の先には憧れる一人である早坂と、彼女とシングルスで争い続けている瀬名の姿があった。
シングルスプレイヤーもダブルスを組ませているのは、男子のほうで小島が吉田とダブルスを組んでいるのを見ていたから寺坂も知っていた。しかし、実際に早坂がダブルスで自分の前に立つということは想像できていない。
早坂がシングルスを選んだ時点で、ダブルスを選んだ自分とは道が交わることはないと、寺坂は思っていた。
「寺坂、菊池。後輩だからって正規ダブルスだ。即席の二人に負けるのは許されない。その覚悟でいけ」
『はい!』
吉田コーチの言葉に菊池は多少震えながら答えたが、寺坂は逆に堂々と言う。先ほどまでとは対象的な態度に菊池も寺坂を見て首をかしげていた。
シャトルをもらって先行して進む寺坂。菊池は後ろから追いついて早坂達に聞こえないように小さな声で問いかける。
「どうしたの? 急に元気になって」
「元気になってる? 私」
菊池から言われて、寺坂は初めて自分が笑みを浮かべていることに気づいた。女子シングルスの一位と二位。早坂のほうは更に上の全道で三位。今の自分からすれば雲の上の存在。とてもじゃないが敵う相手ではない。
でも、寺坂は自分の中に「負ける」「やりたくない」というマイナスの感情を探せなかった。あるのは、早坂と瀬名という、今まで組まれたことがないダブルスと初めて対戦できるという喜びだけ。
(なんだろう。凄く、嬉しい)
自分の中に生まれた感情にうまく説明を付けられないまま、寺坂はネットを挟んで早坂達と向き合う。早坂がファーストサーバー。瀬名がセカンドと位置につき、寺坂はネットに近づいてじゃんけんをする。シャトルを勝ち取って菊池のところへ戻ってきた寺坂の顔には、もう笑みはなかった
「里香。勝つよ」
「……なんか熱血モードだけど、そういうトモも好きだよ。よっし、やろう!」
菊池が寺坂の後ろについて腰を落とす。寺坂はバックハンドでサーブ姿勢に入り、早坂の構えに向き合って、どこに打とうか思案する。ダブルスに不慣れな早坂ならば、どこに打てばいいか。ラブオールプレイと呟いて、寺坂は第一球を放つ。
シャトルがネット前にふわりと浮かんで――
「はっ!」
一瞬で前に詰めた早坂にプッシュで叩き落とされていた。
「さ、サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
菊池が驚きつつもカウントして、シャトルを拾って返す。寺坂はサーブを打った態勢で止まったままだったが、シャトルが早坂に渡ったところで我に返り、構えなおす。
(簡単に打たれた。甘いサーブだった? そんなことは……なかったはずだけど。確かにちょっとは浮いた気がするけど)
寺坂にとっては初めてだった。
本当にネットギリギリのサーブを打たなければ打ち返される現実。それは武が経験したこと。ちょっと、というものでも打ち込まれる。狙うのは最良、最善の一手。
「一本!」
「一本!!!」
早坂の声に呼応して響く瀬名の咆哮。気合いに押し出されるように、シャトルがネットを越えてきた。
寺坂は動揺を落ち着かせるために、ロブでシャトルを奥へと飛ばす。できるだけ滞空時間を稼いで、立て直す時間を作るためだった。自分は右サイド。菊池は左サイドに展開して、奥から来る次のショットに備える。後ろに回ったのは瀬名。何度も早坂の応援をする中で、速いスマッシュを見てきた。受けるのは初めてだが、その速さにそなえるために腰をできるだけ落とす。
(取って、奥に返せれば――)
シャトルが打たれるその時、打つ場所を考えたその一瞬。
そこですでにシャトルが自分の胸元まで伸びてきていた。
「きゃっ!?」
咄嗟にラケットを振ってシャトルを捕えたが、コートの外へシャトルが飛んでいく。どこに打つか思考しただけで、シャトルの速さに追いつけなかった。それほどまでに瀬名のスマッシュは速い。外から見ていたものと、自分へと打たれることの違いに寺坂の感覚がついて行っていない。
(瀬名先輩が速いだけじゃない。私が、遅いんだ。瞬間移動なんでするわけないし!)
菊池がシャトルを拾い、早坂へと渡す。その間にレシーブ位置へと戻った。早坂の菊池へのサーブは同じくショート。先ほどのスマッシュを警戒してか菊池はヘアピンで前にシャトルを落とそうとしたが、ネットに引っかけてしまいあっさりと二点目を献上する。
すぐに、早坂が寺坂へ向けてシャトルを構える。
押し寄せる気迫に呑まれて、構えを取った寺坂だったが、次に打たれたシャトルには上手く反応できず、またロブで後ろに飛ばした
(今度は――)
再び腰を落としてシャトルを待ち構える。瀬名が一点目の時と同じように後ろに回り込み、振りかぶった。余計なことは考えず、来たシャトルを打ち返す。前にラケットを出していれば、威力があるほど軽く跳ね返る。
「はっ!」
瀬名が気合いの声と共に放ったシャトルはまっすぐに寺坂のところに来た。そのシャトルに向けて一歩踏み出して、シャトルにラケット面をぶつける。軽くない衝撃に腕が弾かれるも、シャトルはネット前に弾き返された。
そこに一瞬で詰め寄った早坂がいなければ入っていただろう。
「はっ!」
早坂は寺坂ではなく菊池の前にクロスヘアピンでシャトルを落とす。急な移動と素早いショットに菊池は全く反応できず、自分の前方に落ちるシャトルを見送っていた。
「ポイント。スリーラブ(3対0)」
早坂が自分でポイントを呟き、寺坂達のコートに落ちたシャトルを拾い上げる。なすすべなく三点まで取られたことで、寺坂も今の実力差を理解する。
「トモ。どうしよう……」
「どうしようって、考えるしかないでしょ!」
弱気な声で自分へと問いかけてくる菊池に対して不機嫌な面持ちで答える寺坂。実際、弱音を吐いているくらいなら考えろという怒りがこみあげてきていた。
(実力差なんてあるって分かってた。それが想像以上だっただけ。私が甘かっただけ。なら、考えないと。どうしたらいいか)
そのために何をしたらいいか。寺坂は今までの自分の経験から探し出す。
その間にも試合は進み、菊地が上げたロブが浅かったために瀬名のスマッシュが菊池のバックハンドを抉る。四対ゼロ。あと七点で試合は終わる。今のところ、瀬名のスマッシュに圧倒されて打開策を探ることさえもできない。
(まずは瀬名先輩にスマッシュを打たせないようにしないと。そのためには、ドライブ?)
早坂がサーブ態勢を取り。寺坂も一つ息を吐いて構える。先ほどは呑まれていたが、今は少し脱していた。実力差を痛感して開き直ったということか。そうすると自身が驚くほど視界が開けてくる。
(左、側!)
再び上げたロブに対してスマッシュが来る。それをストレートと予測してラケットを振り切り、クロスドライブでカウンターを放った。前に立つ早坂の顔の傍を抜けて相手のコート奥へ打ち込む。それにより、瀬名の打ち終わりの隙を狙ったのだ。
しかし、シャトルは早坂を越えることなく寺坂達のコートへと跳ね返り、コートへと落ちる。
「ポイント。ファイブラブ(5対0)」
告げられるポイント以上に、寺坂をドライブで抜けなかったことに寺坂はショックを受けていた。瀬名のスマッシュ速度とそれに偶然でもタイミングよくラケットを振ってカウンターを放つことができた。それによりシャトルのスピードはかなり上がっていた。
それでも早坂は咄嗟にラケットをシャトルの射線上に置いて、弾き返した。最初に寺坂が打ちそこなった時のように、ただ当てるだけ。しかし、正確にシャトルを見極めて必要なところに落とすためにラケットを動かせば、打ち終わりで動けない寺坂に取れない場所へとシャトルは落ちる。瀬名に対してやろうとしていたことを完全にやりかえされていた。
前に立つ早坂の身長は寺坂よりは高いが女子の平均くらい。しかし、今の寺坂にはそれ以上の大きな壁として聳えていた。
(どうしたら、勝てるの……?)
思考が停止しかける。頭を振って気をしっかり保とうとするが、その後も何の抵抗もできないまま、得点を重ねられていく。
十点目を取られた時点で、すでに菊池は戦意を喪失し、寺坂も疲労と何もできない無力感に頭は霞がかったように見えなくなる。
(何もできない……悔しい……!)
学年は違っても、初めて組んだペアと、ほぼ一年間ダブルスとして組んできた自分達。
少しは勝負なると思っていた。その自信も何もかも粉砕されて。
「ポイント。フィフティーンラブ(15対0)。私達の勝ちね」
早坂の言葉にただ頷くしか、寺坂にはできなかった。
* * * * *
帰る途中の足取りの重さに寺坂は何度目かになるため息をついた。吐かれた息は白く染まり、空へと昇っていく。
雲一つなく、冷えた空気の中で遠くから車が通る音が聞こえる。
時刻は夜九時に届きそうで中学生女子が一人で歩くには少々心細い時間帯ではあるが、自分の中にある気持ちの整理には誰も傍にいてほしくなかった寺坂は、解散の挨拶の後で誰よりも早く出てきてしまったのだ。
合同練習に参加して、今までは毎日ダブルスの組み合わせを変えながら練習してきた。他校の生徒と組んだり、正規ペアである菊地と組んでの練習試合。続けていく中で手ごたえはあった。
それでも、今日の早坂と瀬名には全く抗うことができずに敗北した。何が足りないのか全く分からない。あまりにも遠い差なのではないか。いくら努力しても追いつけないのではないか。そんな絶望感が訪れて、早坂と瀬名に負けた後に行った練習試合では簡単に負けてしまった。
(引きずるのも情けないし……なんかもう分からない……)
泣きそうになるのを何とかこらえて、足早に雪を踏みしめていく。練習の間に積もったらしく、進むのも体力を使う。コート上を動き回るのに疲労した足の筋肉には辛い。
「あっ」
疲れたところに油断も手伝って、寺坂は雪の中に転んでしまった。一瞬冷たさを感じたが、それも消え去る。少しの間、立ち上がることができずに倒れたままじっとしていた。
(疲れたなぁ……私には無理なのかな)
ぼんやりするのも三十秒は経っていたなかっただろう。このまま寝ていては危ないと体を起こす。立ち上がって雪を掃ったところで後ろから近づいてくる人影に気づいてしまった。位置的に転んだところは見られている。そして、おそらくは帰り道が同じ方向の誰かに違いなかった。
「知美。大丈夫?」
かけられた声は、早坂のもの。周知に顔を赤くして寺坂は逃げるように前に進む。遠ざかる早坂の気配。しかし、澄んだ空気は声をはっきりと寺坂の耳へと運ぶ。
「悔しかったら、追いついてきなさいー!」
その声に足が止まる。逃げても始まらない。それは分かってる。目をそむけても、強くなるにはどうしたら勝てるか考えるしかない。
それは分かっていても、今の自分にはその気力もない。
だからこそ、寺坂は一回だけ頷いて、また早坂から離れていった。姿を見なかったのは、見れば涙が溢れそうだったから。涙だけは見せたくない。小さなプライドでも、守るべきものだった。
寺坂の挑戦はまだ、始まったばかり。
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