Fly Up! 209
始まりは吉田コーチの言葉から始まった。
「今回からはダブルスだった選手はシングルスメイン。シングルスはその逆で行く。団体戦はいろいろ試していきたいから、そのつもりでいてくれ!」
吉田コーチの言葉に勢いよく頷く。武はシングルスをする自分を思い描き、楽しさがこみあげてくる。
中学の間はもう、することはないだろうと思っていた。少なくとも、中学校の枠組みの中では。
「じゃあ、今から言う組み合わせで入ってくれ」
吉田コーチが順番に名前を挙げていく。元からシングルスの小島や刈田は組み合わせが余れば入るのだろう。先に名前が呼ばれているのはダブルスの面々だ。
「第十コートで相沢と……藤本」
『はい!』
同時に声を出し、お互いに視線を合わせる。
藤本明人。翠山中の一年。ダブルスで竹内と田野を全く寄せ付けずに優勝したプレイヤー。今はまだ伸びきれない感はあれど、おそらく今後実力が伸びてくるプレイヤー。シングルスとはいえ全く気は抜けない。
(実際、俺がシングルスどれだけできるか分からないんだし)
ダブルスとシングルスは全く勝手が違う。ダブルスはもし互いのショットで隙ができても、お互いにカバーしあえば良い。しかし、シングルスは頼れるのは自分だけ。スマッシュの打ち終わりの隙も最小限にしたり、ネット前に飛び込むフットワークも必要だ。自分にそれが備わっているかは、実感がない。
(とにかく、シングルスでも頑張るしかない)
武はシャトルをもらうと藤本と共に十番コートへ向かう。今までと違う戦場に向かうことへの期待。相手がどれだけ強いのか、なかなか試合をする機会がない相手との戦い。武の中でアドレナリンが沸騰する。
コートについてからじゃんけんをしてサーブ権を取り、ネットを挟んで向かいあう。
普段しているバックハンドサーブではなく、フォアハンドで打ち上げるサーブ体勢で、藤本が構えるのを待った。
「よろしくお願いします!」
藤本の爽やかな声とは裏腹に、突きつけられる気迫は気圧されるほど。全地区大会や全道大会で味わったものと遜色ない。
(一つ下にもこんなやつがいるんだよな……)
自分の後輩しか普段見ていないことでの錯覚。実際には、どの年代にも実力者はいるのだ。この機会に、思い切り触れてみようと武は決めて、深く息を吸ってから気合いと共に吐き出した。
「一本!」
響き渡る咆哮と飛び出すシャトル。武のシングルスが今、始まった。
ロングサーブをシングルスのサーブライン奥へと飛ばす。いつもダブルスのサーブに慣れているために不安だったが武だが、シャトルの力加減はちょうど良く、ギリギリの位置まで飛んでいく。藤本は落下点に入り、ストレートスマッシュでサイドのシングルスライン上へ落としてきた。武はバックハンドでそれを捕える。打ち返す方向は最も遠くなる位置――すなわち、自分から見た右前方。クロスでネットをギリギリ越えるようにシャトルをコントロールする。
狙い通りにシャトルは飛んでいき、藤本が前に飛び込んだのとほぼ同時にコートに落ちていた。
「……ポイント。ワンラブ(1対0)」
藤本が抑揚なく呟いて、シャトルを武へと返す。受け取って立ち位置をサーブの場所へと移し、藤本が準備を整える間に思考を巡らせた。
最後にシングルスをしたのはいつだったかということ。
そして、そこから時間を経た今は、その時以上にシングルスプレイヤーとしても成長していることを。
(今までダブルスで学んできたこと。鍛えてきたことが、通じてる)
後衛として試合を作ってきた戦法が、シングルスでも通じる。厳密には違う点もあるのだろうが、シャトルのタッチや狙うべき場所はダブルスの時よりも見えていた。相手が一人しかいないコートは今の武にとって狙う場所が大きく広がっていた。
(どこに打ってもいい気がする。でも、それは俺も同じことだ)
フットワークはダブルスに比べて、単純に考えれば二倍速度もカバーリングも必要。藤本も最初に見た時からシングルスで出ていたことからも、久しぶりのはずだった。先制攻撃が利いただけで、今後は徐々に慣れてくるだろう。
その時にどんな実力を出してくるかでこの試合の真価が問われるはずだ。
「一本!」
二回目のロングサーブ。放った瞬間に武自身、ミスに気づく。打つ場所が変わり、多少力んだのか飛距離をあまり取れずにダブルスのサーブライン付近へと落ちていく。武は腰を深く落としてコート中央に陣取ると、藤本の手を予測する。
(ドロップでもスマッシュでも、今度はクロスか。ハイクリアなら、取れる!)
自分ならこの状況でどこを狙われたら一番取りづらいか。そこまで考えて、藤本の打った瞬間を見極める。
シャトルは、クロスドロップで武の左前方へと落ちていく。瞬間、右足が自然と斜め前に飛び出す。上半身もほぼ同時についていき、突き出したラケット面にシャトルが落ちる。そこから更に一瞬だけ面をスライスさせて、スピンヘアピンで藤本のコートへと落とす。
不規則な回転がかかったままでシャトルがコートへと落ちていた。
「ポイント。ツーラブ(2対0)」
武は一つ息を吐いてからそう言うと、シャトルを自分で取りに行く。
藤本はドロップを打ち終わってネット前に向かってきていた途中だった。拾わせるのはいけないと一度止めた足を進めようとしていたため武は手で制し、自分でラケットを伸ばしてシャトルを拾う。自分の中で生まれていく確信を、自分のペースで認識するためには出来るだけ他者の介入を避けたかった。
(間違いない。俺のバドミントンは、シングルスでも通じる。フットワークもショットの精度も、後は試合の中で慣れていけばいい)
けして慢心せず、一点を積み重ねていく。
学年別の時はダブルスの一回戦で崩れていたが、今はシングルスで一人という、まったく別の分野。元々注意深い武にとって今回は良い方向に進んでいる。藤本も武のショットの精度と読みに警戒心を強めているのか、プレッシャーが増していくように武には感じた。
(やっぱり、なんか舐められていたかもな)
学年別やその前からの試合内容を見ていても、小学生の頃の武と比べればその実力の差は明らかだ。
吉田がいなければ取るに足らないプレイヤー。少なくとも、勝てない相手ではないと思われているのかもしれない、と冷静に分析する。
それを完全に否定するわけではなかった。武もまだ吉田がいなければダブルスも全道二位というところまで行っていないと思っている。
しかし、これまでと一つ違う点は。
(吉田も、俺がいなければ全道二位には、多分なっていない)
学年別で林に言われた『自信を持つこと』
吉田と二人の力で勝ち取った順位に、もう少しだけ誇りを持つ。
それが武が見出した、自信。
その拠り所がある限り、もう過去のことや現在の相手の態度にも心を乱されることはない。そう考えるようになると実際に落ちつけている。
(そういや、二年の初めに竹内にも思われてたよな)
二年の初め。今の一年が入ってきた当初に竹内とシングルスで試合をした時にも、同じように舐められて、思い切り叩き潰したことがあった。その時と似て非なるのは。
(藤本も、油断を捨てたっぽいな)
自分もまた実力者の一人と数えられるようになったからか、油断されることも長続きはしない。
相手の持つ空気が変わることで、武も一つ息を吐くと意識を入れ替えた。
(さあ、俺もここからだ。藤本)
三点目を狙うため、しっかりとコートを踏みしめてシャトルを打ち上げた。
三度目のサーブは再びシングルスサーブラインぎりぎりへ。藤本は、すぐにスマッシュを打たずにハイクリアで武をコート奥へと動かした。一撃では決まらないと気づき、揺さぶりをかけてからシャトルを叩き込む戦法に変えたのだろう。それは武にとっても好都合だった。自分のフットワークがどれだけシングルスで通じるのかを確かめるのは、その場から動かなければいけない。今のままではシングルスで通用するかはまだ判断しきれない。
武はシャトルの真下に移動して藤本の動きを一瞬だけ視界に収める。
コート中央に腰を落として武の次のショットを待ち受けている。それを見て、まずは体勢を崩そうとクロスのハイクリアを放って中央から追い出した。打った勢いと共にコート中央に戻る武。そこで止まったところで藤本もストレートのハイクリアで武を後ろに追いやる。最初に打ったところとは逆。交互に散らしてついていけなくなるのを待つのか。
(どっちが根気強いかな!)
シャトルをストレートのハイクリアで返す。今度はコート中央には戻らずに、少し右サイド寄りに立った。左サイドに打ち込まれても届くという確信の元、誘いをかける。
藤本も無論、その意識はあるだろう。何か迷いがあるように武には見えた。
結果、藤本のスマッシュはクロスで打ち込まれる。そこに向けて飛び込み、バックハンドでネット前に落とす。十分な体勢から放ったシャトルは正確にネットの上ぎりぎりを超えて落ちていく。藤本もそこまでは読んでいたのか滑り込んでロブを打ち上げる。それでも角度が足りずに飛距離を稼げない。コート中央に上がったシャトルの少し後ろから、武はタイミングよく飛んだ。
「うおああ!」
タイミングを合わせて、右腕をうならせる。
引き絞った弓を解き放つようなイメージでラケットを振り切ると、シャトルはまさに矢のように素早くコートへと突き刺さった。藤本は一歩も動けずに着弾したシャトルが転がるのを見ていた。
「しっ!」
更なる得点に藤本はいらついて脛をラケットで叩く。あくまで軽くだが、いらだっているのが見て取れた。久しぶりのシングルスで良いようにあしらわれているのだ。武も自分が逆の立場なら同じだったかもしれない。
(いや、俺は……ないか)
思い通りにいかない自分は、何度も経験してきた。そのたびに誰かに諭される。吉田であったり、他の仲間達だったり。周りに助けられてここにいる自分。
自分ひとりではなかった。シングルスをしていても、その背中にはたくさんの仲間がいる。
(恥じる必要も、焦る必要もない。バドミントンは、より考えた方が勝つ)
だからこそ、目の前の怒りよりももう少し先の勝利へ向けて思考する。その大切さは嫌というほど自分の中にある。
「一本!」
シャトルを高く打ち上げる。藤本は落下点に入り、武の場所を見るとハイクリアを放った。
ストレートクリアに対して、下に入ってからドライブクリアを放つ。
ドリブンクリアよりも更に鋭い、床と並行になるように打つクリア。コート奥まで届いたところで、ちょうど奥のラインに落ちるように落下していく。藤本は速度にぎりぎりついて行って、サイド打ちでドライブを放つ。しかし武はその軌道を読んで前に詰め、バックハンドヘアピンでシャトルをネット前に落としていた。
四点目。あまりにあっさり入る得点に武も藤本の弱点を見極めている。
(やっぱり、藤本はダブルスの癖が抜けないんだ)
打ち終わりの隙が多い。あたかも、そのカバーは前衛にいる小笠原が行うかのごとく。実際、藤本は立て直しが遅いのだろう。いくら一年の中でトップクラスの実力を持っていても、その隙はレベルが上がるほど命取りになる。
武から見ても、自分と藤本の間の差というのは僅かだと感じている。スマッシュは自分のほうが速いとしても他は藤本が上ではないかとさえ思えた。それほどまでに、ダブルスの時は隙がないように思えた。だからこそ、一人になった時に目立つのだ。
(その隙を、徹底的に突く!)
武はロングサーブで藤本を後ろに追いやる。
弱点を徹底的に攻めるために、自分の中で覚悟を決めた。
そして――
「ポイント。フィフティーンラブ(15対0)。ありがとうございました」
「……ありがとう、ございました」
武は一点も、サーブ権も奪わせないまま。圧倒的な力の差で藤本を下したのだった。
多少の後味の悪さを持って武はコートから出る。続いて藤本が俯き加減でコートから出て、用意していたスポーツ飲料を一気に喉の奥へと流し込む。悔しさまでも一緒に飲み込むように。
「藤本……」
「っぱは! 相沢さん。流石です!」
気になって声をかけようとした武に向かって、逆に勢いよく言葉を発した藤本は、スポーツ飲料を飲み干してラケットバッグに入れる。そのままバッグを背負って背中を向けた。
「今回は俺がシングルスに慣れてないから負けましたが、次は負けませんよ。絶対、勝ちます」
「……そう、か」
「はい。ダブルスじゃ負けても、個人の実力じゃ、負けません」
藤本はそう言って去っていく。その背中からは武に対する明確な敵意が漏れ出ていた。
(よっぽどラブゲームが堪えたのか……)
藤本の後姿を見送りつつ、武もラケットバッグにラケットを入れて持ち上げる。
既に他コートも試合が終わって次々と吉田コーチの元へと集まっていく。急げばよりよい相手と当たるかもしれない。
「よし!」
一つ気合いを入れて武は走り出した。
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