Fly Up! 157
「――ポイント。サーティーンファイブ(13対5)」
審判の言葉が耳の右から入り、左側に抜けていく。
武はそんな考えを頭を振って捨てた。一度大きく深呼吸をしようとしても、心臓は血流を更に激しく身体の隅々に送ろうと動き、その圧迫感が肺の膨らみを押さえつける。
手足が重く、次の動作に行くことがなかなか出来ない。武は時間をかけてシャトルを拾うと、ゆっくりとボロボロになった羽根を整えた。
「すみません。シャトル換えて下さい」
そのまま使うのは断念して、審判へとシャトルを放る。腕を振っただけで重力に負けそうになるが、顔に出すことだけは避けた。最も、既に体力の低下は知られているだろうが。
(まさかここまでとはな)
スコアは一セット目とほぼ逆。しかし、前と異なるのは、武達がやっとのことで保っていたのに対し、坂下達は力でもぎ取っていったということ。
圧倒的な攻撃力の前に武達の防御は耐えられず穴を空けられ、攻撃をしようにもその糸口が全く掴めない。
炎のように苛烈な攻撃にまったく抗うことが出来ずに、ここまで点差を広げられていた。
「武」
吉田の顔にも疲労が色濃く浮き出ている。しかし、瞳の光は翳ってはいない。今の状況でも全く勝ちを諦めていない。
(なら、俺はどうだ? ここから、勝てるって信じられるか?)
武は心の迷いを示すように吉田から顔を背ける。
しかし吉田はそれ以上何も言うことなく、ただ武の背中を軽くラケットで叩くだけ。そのままレシーブ位置に戻る。
自分もまた相手のサーブを警戒しつつ体の状態を確認する。
体はどこも痛くない。ただ、連続して激しい運動を続けているせいで息をすることが億劫になっている。十分に息を吸えないために思考に霞がかかり、心臓の音だけがはっきりとしている。
(ここからじゃ、勝てない。ならファイナルゲームに望みを賭けるしかないか)
おそらくは吉田も同じ考えのはず。三ゲーム目になることを考えて、ファーストゲームを取ることに執着したに違いなかった。ならば、このゲームの残り二点は捨てて、少しでも体力を温存した状態で進まねばならない。
「ストップ!」
しかし、吉田から放たれた覇気は武の考えとは全く違った。体力を温存することなど全く考えず、全力で食い止めることを考えねば出ない咆哮。
(香介……)
坂下のショートサーブをネット前に落とす吉田。坂下は瞬時にラケットを伸ばしてプッシュする。
(しまった!)
吉田の咆哮に気を取られていたために反応が遅れ、シャトルはそのままコートへと落ちた。ポイントは遂にゲームポイント。武は審判のコールを背中に聞きつつ、シャトルを拾って相手側に放った。
「武。最後まで気を抜くな」
振り向いたところにいる吉田。そして冷静で、怒りをほとばしらせた声音。武は息を呑み、何も言い返せない。
「後ろ向きな気持ちでプレイするなよ。次があるとしても、逃げ腰だとそのまま持っていかれる。それが、実力が高い相手と試合をするってことだ。技術的に劣ってるんだから、精神的には絶対に負けるな」
同じように疲れているはずなのに、吉田のこの言葉はどこから出てくるのか武には分からない。だが、今できるのは。
「ああ。ストップだ」
吉田の言葉が正しいということ。最後まで逃げずに、戦うこと。
たとえ次でこのゲームを取られてしまっても、次に繋げるために逃げてはいけない。ここで点差を詰め、勝つということを最初から信じていなければ次なんてこないのだから。
最初から小さい目標を掲げても、頂上には上がれないのだから。
(体力温存? ただでさえないんだから、意味ない。逃げるわけにはいかないだろ)
武は首筋を軽くラケットフレームで叩く。自分に対しての気合を軽く入れる。普段ならもっと強く叩くところだが、その力くらいは温存しておきたい。
全力で抗い、攻めるために。
「さあ、ストップだ!」
自分へと最後のサーブを放つ坂下。武は無理せずにシャトルを高いロブで返した。川島からの弾丸スマッシュも無理せずにストレートに返す。コースを考える余裕は、まだない。だが、打たれた方向に高く返すことは可能になってきた。試合の間に速度に慣れてきている。
(目が、体が慣れてきた。練習でも、今までの試合でも体験したことがない速度に。落ち着けば、だから、思考にも余裕が出てきてる)
川島はスマッシュが効かないと分かったのか、急遽ドロップに切り替えた。武を前に走らせ、ロブを上げさせる。
スマッシュよりも打点が低く、起動が下から山形になるため坂下がシャトルをインターセプトしやすいようにするつもりだと武は一瞬で把握した。
(それでも今は)
今の状態なら、ネット前に落とせば坂下のプッシュの餌食だろう。ならば、ロブを早く深く上げるしかない。
武は前に体を押し出して、いつもよりも前の打点でシャトルを捕まえた。
「はっ!」
シャトルが山形に弾き出され、坂下のラケットが届く前に宙を舞う。
第二ゲームの中で、今のようにロブを上げさせられた時に前衛に叩き返されたのは二度あった。それ以外はスマッシュで決められていたため、今までのままならば今回で十五点目が入っていたはずだった。
しかし、武のラケットの振りが今までよりも速く、打点が違ったために坂下のインターセプトがずれた。
そのためか、川島も再度ドロップではなくスマッシュで吉田を狙う。吉田は体を思い切り低く構え、ドライブを打つかのようにスマッシュを水平軌道で返していた。速度があり、坂下もインターセプトできずに川島のバックハンドを引き出した。
ロブが上がったのを確認して吉田がそのまま前中央に入る。武は後ろに向かい、スマッシュを打とうとジャンプした。
「うおおおぉおお!」
打つ瞬間に相手の位置取りが視界に入る。二人ともトップアンドバックを崩さなかったが、あからさまに武から見て左サイドが開いている。そこに打ち込めば、おそらく一番に反応してくるだろう。
二ゲーム目を通して、トップアンドバックのままなのは見せている隙を完璧にカバーできるから。その、普通ならば出来ないことをやってのけるから坂下と川島は強いのだと武は気づいていた。だからこそ、まっすぐに前に立つ坂下へ向けてスマッシュを放っていた。
相手のいない場所へと叩き込むのがバドミントン。そのセオリーを捨てて武は攻撃を選ぶ。
(取られるなら、突き破ってやる!)
半分は強引に。半分は意図して。
それはしかし、追い詰められた戦況の中でひとつの光明となった。
武のスマッシュを返す坂下。
しかし、そのシャトルへと吉田が飛び上がり、ラケットで触れる。
強くは打ち返せない。しかし、シャトルを坂下達のコートに返すことは成功する。坂下はすぐに反応してロブを返した。
特別な動作ではない。しかし、武の目には確かに何かが見えた。
(これは――)
武は再度振りかぶり、坂下へとぶつけるつもりでスマッシュを放つ。シャトルは鋭く坂下へと向かい。
ネットに突き刺さった。
「ポイント。フィフティーンワン(15対1)。チェンジコート」
コート上に張り巡らされた緊張の糸が切れ、武を含め息を吐く。戦闘態勢を一度解除し、コートの外に出てタオルで顔を拭く。吉田が傍にきた気配を感じて、顔を上げた。
「武」
「ごめん。一瞬、気を取られた」
「そうか」
それ以上、吉田は何も聞いてこなかった。粘ると言っていたにも関わらず、最後は自分のミスで終わってしまった。それをいつもの吉田ならば指摘しただろう。だが、武が直視した吉田の顔は何かすっきりとしていた。
「掴めたか?」
「ああ。勝てるかは分からない。でも、勝てる道を見つけた」
「了解」
吉田の言葉には力があった。武を信頼し、自分のやるべきことをやると心に決めた力が。
武に言葉を必要以上に紡がなかったことも、ミスが何かを掴んだことによるものだと分かっていたから。第一シード。真の力を前に追い詰められたことで見えた道。武はもうそこに向けて進むだけ。
「シャ! 行ってやるさ」
今回は三分間設けられているインターバル。坂下と川島は武達より先にコートへと入り、体を軽く動かしている。体力には余裕があることは見て取れる。対する武達は二ゲームを通してかなり消耗していた。
それでも、勝てるならば。
次の試合のことは考えず、全力で挑むのみ。
ここで勝てなければ次はないのだから。
(隙を狙うんじゃなくて、相手を狙って隙を作り出す)
武が攻め、吉田がシャトルをインターセプトして落とした時、武はひとつの攻める形が見えていた。
いくら総合的に力が上でも、前でインターセプトされればロブを上げるしかない姿を見て、強く攻めれば突破口はあるのだと分かった。少なくとも、自分達には突破できる力がある。
あとはそれが、最後まで貫き通せるか。
(それは全力を出してからじゃないと分からない。だから、もう考えない)
考えるのはシャトルを相手コートに落とすこと。ただそれだけ。
坂下がシャトルを持つ。吉田と同時に腰を落とし、サーブを待つ。
一ゲームは接戦で取り、二ゲームは圧倒的に負けた。
おそらく周囲は武達がこのまま負けると思っていると、武は考える。
それさえもどうでもいい。
勝っても負けても、自分は後悔しない。そう思えるまで、体の力をすべて注ぎ込むだけ。
「ファイナルゲーム、ラブオールプレイ」
審判の言葉に被せるように、四人は同時に言った。
『一本!』
『ストップ!』
四者二様の咆哮。どちらも、一点の曇りなく最後のゲームに入る。
坂下のショートサーブが飛び込んだ吉田の眼前に迫る。ラケット面を横にスライスさせるとシャトルは不規則に回転してネットを越えていく。スピンヘアピンをしかし、坂下はネットにラケットが触れないように高くはじき返した。ほぼ垂直にシャトルが落ちたにもかかわらず、ロブは綺麗な放物線を描いてエンドライン傍に移動した武の真上に降ってきた。
ためらいなく構え、坂下の右肩口めがけてスマッシュを打ち込む。
渾身の力を込めて打ち込んだシャトルを坂下はバックハンドで難なく打ち返す。吉田が飛び、ラケットを突き出すもシャトルは一個分外を飛んでいった。しかし、武はすぐさま追いつき、再びスマッシュ。今度はストレートに、相手がいない場所へ。
反応したのは川島だった。後ろから鋭くドライブを放つも今度は吉田のラケットが叩き落す。シャトルは強く川島達のコートに跳ねた。
「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
第二ゲームの始まりから続けてようやく、自分達主導で勝ち取ったサーブ権。武も吉田も、強く手ごたえを感じていた。
(やっぱり。がら空きを狙うことで、どこか逃げてたのかもしれない。あいつらのあからさまな隙は誘いの効果もあった。そこだけを狙っていたら、勝てない)
バドミントンは隙を狙うスポーツ。
その上にあるのは、隙を作り出すということ。
元々隙などない相手には、作り出すしかない。それが、レベルが上の戦い。
「さあ、一本だ」
吉田が一言、冷静に呟く。まだ劣勢なのは変わらない。実力が上の相手にまずは真正面から挑み、その中で隙を作らせていくということは生半可なことでは出来ない。
「武。この試合が終われば、次があるかもしれないけど休める」
武の心中を知ってか知らずか、吉田が声をかける。シャトルの羽を直しながら、自然と。
「だからまずは、このゲームで力を使い切るくらいで行こう。結局のところ、次の試合のために温存するなんて出来る余裕はないんだ。次が橘兄弟かとかそんなのは関係ない」
「ああ。今、勝たないと、俺達には意味はない」
武はラケットを脇に挟むと両手で頬を張った。
自分なりに気合と覚悟を決める。この試合で力を使いきっても後悔はない。
『さあ、一本!』
二人の声が重なった。
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