Fly Up! 14
一直線に伸びた廊下。三人は並べないその廊下を、全速力で走る二人。
武は少し遅れて走る橋本をちらりと見ようとして、動作を止めた。走ることに意識を集中しなければ一瞬で抜かれるだろう。それほどに、二人の体力も速さも拮抗していた。
「負けるかぁああ!」
(こっちの台詞だ!)
心の中で言い返す。叫んだことでバランスを崩し、橋本はほんの少し後ろに下がった。武はそのままラストスパートをして、吉田や他の一年部員がいる場所へ先にたどり着くと息を吐く。
膝に手をついて何度か吸って吐いてを繰り返していると、誰かの足が見えた。
「また少し早くなってるな」
吉田がスコアに書き込んでから手渡してくる。武は「さんきゅ」と答えてスコアを眺めた。
そこに並ぶ数字は四月から積み重ねられてきたもの。武の努力の結晶。
今までの部活の回数と同じ数だけ書かれた数字。一回も休まず来た証。
しかし、武は一年部員を一人一人視界に入れる。五人の部員。休みが二人。
吉田の傍に立てかけてある二枚のスコアに書かれた名前が見えた。
(大地はいつものように休みだろうけど……)
今日、初めて杉田は部活を休んだ。少しだけ衝突した夜から一週間。最初の日曜日に、大地はいつもの周期で休んでいた。練習メニューは吉田が言っている以上にきついと感じたが、今まで乗り切ってきた武には倒れるほどではない。
今いるメンバーは武と同じかそれ以上に疲れている感はあったが、それでも吉田の練習の組み方が上手いからか誰も弱音ははかない。
だからこそ、杉田と大地のいないこの場所に武は違和感を持った。
(なんでだろうな)
杉田は自分よりも体力もあるし、バドミントンのセンスもあると武は思っていた。実際、初心者である林、大地、杉田を比べれば杉田の伸びはかなりのもので、三年になる頃には貴重な戦力となっているに違いないと武は思う。
ゆえに、杉田が休むのは練習がきついからという理由は考えられない。
(なんで大地に、そこまでこだわるんだろうな)
外から見ては分からない、大地と杉田の間の年月。そこから生まれる絆が、行動させているのだろう。
それからの練習は、武は気が入らないまま終わった。
「相沢」
着替えを終えて玄関で靴を履いていた武の背中にかかる声。振り向いた先にある顔へ少し不安が浮かんでいるのを、武は見逃さなかった。その不安が何なのか分かりそうで分からない。
「吉田、どしたの?」
「ちょっと作戦会議」
そう言って隣に腰を降ろした吉田は武の肩に手を置いた。何度か軽く叩いてくるところに、武は友好の証を見る。前に西村や林の方に同じように叩いているのを見たからだ。
どうやら吉田の友情表現の方法の一つに、肩を手で軽くぽんぽんと叩く動作があるらしい。
「林の家こない?」
「んー、いいけど近いんだっけ?」
「歩いて五分だな」
吉田はパシッと軽く手を打った。これも吉田の癖なのか、良い返答を聞くと出るようだった。三ヶ月という時間は、親しい友達とはまだまだ言えない相手の諸動作をある程度理解できるのに長いのか短いのか、武には分からない。ただ、小学校から今までの六年を考えると早いと思える。
(やっぱり目立つからかね)
一年を仕切る合間、たまに先輩方に練習にも呼ばれる吉田を武は羨ましく思いながら見ていた。だからこそ自然と吉田へと視線が向かい、彼の言動をいつの間にか覚えている。
桜庭や金田にあこがれるのと同様の気持ちが吉田へも注がれる。
(どれくらいの差があるんだ――?)
吉田の姿に一瞬誰かが重なった気がして、武は目をこすった。しかし過ぎ去ったイメージは復元されることなくそのまま消える。先に靴を履き終えて立ち上がった吉田が「ん?」と不思議そうに武を見た。
「あ、なんでもない」
そう言って立ち上がると、吉田も気にせずに歩き出した。その後ろをついていきながら武は考える。消えた何かのイメージは確かに昔、自分の中にあったものだ。
それが何かを思い出せない。
(……ま、いつか思い出すか)
玄関を出ると日曜日の太陽がさんさんと降り注いでいる。日光を遮るように手を掲げて、武は自転車乗り場へと歩き出した。
* * * * *
自転車をこぐとすぐに林の家へとたどり着いた。
中学の横を走る道路を横切って少し進んだところに、彼の家がある。家の庭に自転車を止めていると二階の窓から林が上半身を出して見下ろしてきた。
「お初だね」
手を軽く振りながら笑ってくる林に武も手を振り返す。吉田よりも先に帰ったからかいつもは見ない眼鏡をつけていた。
(コンタクトだったんだ)
目は良い武にはぼやける視界を想像することは出来ないが、目に直接入れるというコンタクトは痛そうだと思うと、身震いする。その震えの意味が分からないからか、吉田は首を傾げて尋ねてきた。
「汗ちゃんと拭いたか? 風邪引いたら元も子もないぞ」
「ん。大丈夫」
本当に心配がなかったため、武は普通に答えたが吉田は少し眉をひそめて見ていた。汗の処理が大事な物だと思っているらしい、と武は笑って肩を叩いた。
吉田が学校の玄関でやったように。
「大丈夫だよ。ちょっと変なこと思い出して震えただけ」
「思い出し震えってやつか」
そんな単語は聞いたことがなかったが、すぐに吉田が作り出した造語だということは吉田の顔にある笑みで分かった。
その時、吉田に抱いていたイメージが、少しだけ和らぐのを武は感じた。
一年男子を指揮している吉田を見ていたからか、どこかしっかりしていて固いという印象を抱いていた。だが、今のようにジョークを飛ばす。それだけで、彼が自分と同じ一年なんだと思い出した。
(そうだよな。同じ一年なんだよな)
林の家に入る時に、後ろにつく。その背中は、前見た時よりも少しだけ小さかった。
ドアを閉めると同時に、階上から林が降りてきて上がるように促してくる。それに従って靴を脱いで二階へと上がろうとした時に、吉田が外靴をきちんと揃えているのを見て武は驚いた。
「几帳面なんだ」
「他人の家だしな」
そう返されると武は恥ずかしく、習って靴を直した。遅れて階段を上り、林の部屋へと通される。
そこで香った匂いは武の記憶の底に残る不思議な物だった。目を閉じて鼻に意識を集中して、記憶の引き出しを一つずつ開ける。やがて同じような匂いを持つ物体が入った場所を開き、正体が知れた。
「子供用シロップ?」
小さい頃に通った小児科で貰った覚えのあるシロップ薬。それと似たような匂いが部屋に残っている。まさか林がまだそれを飲んでいるとは武も考えていない。
そこで視線を惑わせていると、机の上に乗っている赤と黒のストライプを持つ缶が目に飛びこんできた。その外見に、武も惹かれていく。
それを知ってか、林は笑いながら缶を手に取った。
「美味しいよ?」
一度飲み干してから言い、部屋に入ってきた吉田と武の横を通り過ぎようとする林。遠まわしにいるかどうかと尋ねているようだ。吉田と武は首を振った。
吉田は横。武は縦に。
「いいのか? 炭酸だぞ?」
「俺、サイダーとか好きなんだよね」
吉田の問い掛けに武は特に考えずに言う。だが、吉田は少し眉をひそめて言葉を続けてきた。
「バドやるなら炭酸はなるべくやめたほうがいいぞ? 試合前とかに飲みそうだし」
「ん……考えとく」
まだまだ何か言いたそうな吉田から視線を外す武。小学校時代に何度か注意されたことをしたというのは秘密にしておいたほうが良いと結論付ける。
「お待たせ」
ちょうど林が戻ってきて冷たい缶を武に渡す。プルタブを開けると詰まっていた二酸化炭素が勢いよく飛び出す。液体まで洩れないように慎重に開けてから喉を湿らせるために一気に飲みこむ。
(これは……独創的な味かも)
渇いていた喉を液体は確かに潤したが、味は微妙だった。くせがあるといえばある味。
「さて、本題いいか?」
あまり体験したことがない味に顔をしかめていた武に、吉田はゆっくりと語りだした。
「気が早いんだけれどさ、俺達がメインになった時に俺が部長になるとして、相沢が副部長になってくれないか?」
「……本当にずいぶん早い話だな」
吉田の真意がつかめず、武は首をひねる。
「なんでまたいきなりそんな話を?」
突然の言葉に武は戸惑いを隠せなかった。
今の時期にすでにメインになった時のことを考えるのも、武には想像がつかなかったが、何故自分が副部長なのかということも分からない。自分が部長になると平然と言っている吉田が面白いとは思ったが。
「俺より西村がやるほうがいいんじゃないの?」
ここにはいない、武が思う適役の名を告げると吉田は首を振った。それは務まらない、という否定的な意思の表れではなかったが。
「杉田や小林のことを考えててさ」
「二人の?」
急に話題が飛んだように武には思えたが、吉田の中では繋がっていたようだ。その後に話が戻る。
「俺は部活は厳しく、常に上を目指さないとって思ってる。まだ将来なんて分からないけど、勉強も部活も全力でやりたいし。それだと自然と厳しくなるから、小林のようについてこれない部員も出てくる」
「杉田が不満な原因、分かってたんだ」
「分かりやすいしな」
吉田は少し顔を緩める。笑ってはいたが、どこか寂しげだった。自分が一年を取りまとめている立場ということで、自分を抜かせば六人しかいないのにカバーしきれない状況を残念に思っているのか。
「西村も俺と同じように考えてる。でも俺もさ、バドミントンを初心者の人にもやってほしいし、もっと広げたいとは思ってるんだ。だから……相沢なんだ」
「俺だと、広げられるって?」
「少なくとも、俺より小林のことは察してただろう? 相沢は両方の視点を持てているように俺には見えるから、そういう男が副部長であるべきだって思うんだ」
吉田の言葉に、武は感動していた。武が、杉田が心配したように吉田は突き進まずに、周りを見ている。少なくとも見ようとしている。
女子と同じような結果にはならないと、武は確信した。若葉に悪いと思いながら。
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