Fly Up! 102

モドル | ススム | モクジ
「ありがとう、ございました」

 十五点目のコールを聞いたことで、武の中の緊張感が全て崩れていた。張り詰めた状態から解き放たれたことで武は脱力し、その場に倒れそうになる。
 それでも踏み留まる。試合を終えたとはいえ、まだコートを去っていないのだから。握手をして、互いにコートから出るまでが試合。それもあるが、武の中にはすでに次の想いが生まれている。

(まだまだ苦しい試合は沢山ある。これくらいで倒れるわけにはいかない)

 練習試合でも、本当の試合でも。
 全力を出せば苦しい。それでも優勝するまでは倒れているわけにはいかない。
 更に、この練習試合は一ゲームしかしてないのだから。
 ネットの下から手を通して握手をする。闘った証として掌は確かな熱を持っていた。試合を通しての熱気。自分達の闘志の残り香。

「相沢、強くなったな」

 笠井の言葉に武の涙腺が緩む。他人に自分の成長を認められることに感情が反応する。嗚咽を抑えようとするが、かすかに漏れ出た。

「……くっあ、ありが、とうございます」

 何とか口にしたという様で礼を言い、手を離す。掌に残る熱さはそのまま。コートを出て行く武の背中に声がかかった。

「これからの浅葉中バド部、頼んだ」
「はい!」

 少し俯いて、しかしはっきりと聞こえるような大きな声で武は言うと頭を上げた。
 その顔にはもう涙はない。
 試合を通して学んだもの。試合後に託されたもの。身体の内側から込み上げてくる熱い何かに突き動かされるように、武は前に進む。
 その先にはすでに、ラケットを持った吉田の姿。

「ちゃんと、回したぞ」
「任せとけ」

 互いに右手を上げて、軽くハイタッチ。パンッと小気味良い音が鳴った。
 掌にあった熱さを吉田へと移すように武は叩いたつもりだった。自分の思いを存分に伝えるように。

(これが、見たかったんだから)

 コートへ向かっていく吉田の背中を見る。自分よりも上背はないはずだが、武には大きく見えている。それでも、初めて見た時よりは小さくなった。その差は実力の差なのか他の何かなのか武には分からないが、部で最強のプレイヤーに挑む背中に怯えはない。
 金田と吉田。
 武が中学に入って初めて見た試合。

(それが、こんな形で再現されるなんて)

 再現ではない。これは完全に新しい試合。
 一年前と比べて実力は高まり、互いにもう別のプレイヤーと見ても良いくらい変わっているはず。
 二人の間を隔てるネットへと近づく吉田。金田はラケットを持った手を手首を起点にゆっくりと回している。柔軟に扱うことを想定してより丹念にストレッチをしているということか。武は金田の顔が笑っていても瞳が笑っていないことに気づく。

(どういう意図で団体戦を組んだか分からないけど、金田さんは全力で吉田とやるんだ)

 この団体戦は世代間の引継ぎを意図していると武は思っていた。副部長となるだろう武へと笠井が引き継ぐ。阿部や小谷達も橋本と林に。一年生コンビも三年から学び、杉田もまた敗北から何かを学んだ。
 吉田もまた金田から次期部長として大切なものを学ぶのだろう。
 ただ、金田から伝わってくる闘志に、吉田に学ばせる余裕を与えるのかと武は不安になった。全力で攻める金田にどれだけ吉田は対抗できるのか、武には想像もつかない。

「よろしくお願いします」

 握手を交わし、言葉を交差させる。じゃんけんは吉田が勝利して、お互いの位置に戻っていく。サーブラインぎりぎりに立って金田を見つめる吉田。
 これから始まる大将戦。
 吉田はサーブを打つ体勢を、金田は迎え撃つ姿勢を作り互いをけん制する。打てばすぐさまスマッシュを打つという気迫。打たれても取るという思い。
 どちらが勝つかは、吉田のサーブで決まる。

「フィフティーンポイントワンゲームマッチ、ラブオールプレイ!」

 お願いします、と互いに叫ぶ。間髪入れずに吉田はロングサーブで金田のコート左奥を浸食した。高く深いサーブはロングサーブライン上目掛けて落ちていく。金田は真下より少し後ろに着くと、その目を吉田のバックハンド側に向けていた。

「おらっ!」

 繰り出されるストレートスマッシュ。試合で徐々に慣らすということもなく、一気にトップギア。それでも吉田はバックハンドで丁寧にネット前へと落とす。

「しゃ!」

 だがそこにはすでに金田が走りこんでいた。ラケットを水平に構えて突進していく。吉田は打ち返したその場で金田の次手を迎え撃った。
 放たれたのは、ヘアピン。前に飛び込んできた勢いを右足の踏み込みで完全に殺し、ヘアピンは浮かずに吉田のコートへと戻っていく。武には返球不可能じゃないかと感じるほど、絶妙なタイミング。
 それでも吉田は前に飛び出し、ロブで後方へと金田を追いやっていた。
 吉田のロブにしかし、金田はすぐさま反応する。まるで打ち返されることが分かっていたかのように。シャトルの落下点に入って即座にスマッシュを打つ金田。シャトルは吉田が構える右側を抜けていこうとした。吉田もラケットを伸ばすが、その下をシャトルが抜けていく。

「くっ!」

 吉田の声が武の耳に届いたことと、シャトルがコートに付いたのは同時だった。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
「くそ」

 感情を表に出してシャトルを拾う吉田に、武は違和感を感じる。いつもの吉田は闘志を燃やしているが、表に出していくタイプではない。武が烈火のごとく気合を迸らせるならば、吉田は静かにコートを支配する青い炎だ。

(もしかして)

 そこで、武の脳裏に一つの考えが浮かぶ。
 お互いの利点を用いてダブルスをこなしてきたのならば。
 今見ようとしている吉田のスタイルこそ、シングルスでの吉田なのかもしれない。

「最初からトップギアだな、吉田」
「金田さんこそ」

 シャトルを返す吉田の顔には笑み。悔しがってはいても、そこには微塵の不安もない。最後には自分が勝っているという自信。無論、金田にもそれがある。互いに譲れない意地がぶつかり合っている様が武には見えていた。
 そして、その場にいない自分に拳を握り締める。

(俺も、あんな試合をしてみたい)

 笠井との試合が燃えなかったわけではない。しかし、目の前にそれ以上の光景が広がっているとなれば、やはり思いを抑えることは出来なかった。自分が試合をしたい気持ち。吉田と金田の試合を見たい気持ち。二つの気持ちが渦を巻いて武の心を締め上げる。

「吉田! ストップ!」

 だからこそ、武は声に出していた。自分の言える思いを素直に。せめぎあっていた二つの思いは声によって優劣が決まる。

(今は、あいつの試合を見ていたい)

 金田のロングサーブから再開する試合。吉田はストレートにスマッシュを放つ。狙うのは金田のバックハンド。難なくヘアピンとして返されるが、吉田は前に飛び込むとロブを上げるかのようにラケットを下に入れる。
 しかし、次に打たれたのはクロスヘアピン。金田もこれには咄嗟に反応できず、シャトルが落ちるのをただ見送っていた。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
「ナイスフェイント」

 金田は前に早足で駆けていき、シャトルを拾って吉田へと返していた。早く試合を再開したいという意図が武には見える。一年前とは明らかに違う吉田の技量に金田も心躍っているのだろう。

(確かに。吉田は凄くなってる。あのフェイント……)

 ストレートに打つと見せかけての、クロスヘアピン。真正面を向きながらラケットヘッドの向きだけ変更し、シャトルをスライスさせる。後衛からのスマッシュの鋭さにも磨きがかかっているが、やはり吉田の真骨頂はパワーよりも技量、スピードだった。

「一本!」

 ロングサーブで金田を後ろに追いやる。そこから放たれるスマッシュはいくら金田のものでも簡単には吉田を攻略できない。吉田もそれを分かっているのか、返球は前に来る金田を予測してまた逆方向にロブを上げる。しかし、金田もまた吉田の返球は分かっているだろうが、スマッシュを連続して打った。バックハンドでも吉田は綺麗にロブを上げる。
 ストレートに、クロスに。
 スマッシュが打ち込まれる音と返球する音。二種類のみがコートを支配する。
 だが、五度目のスマッシュは吉田のラケットを潜り抜けてコートへと着弾していた。

「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
(なんだ? 吉田がミスったのか?)

 落ちたシャトルを見ながら呆然とする吉田に、武は考えを改める。吉田は間違いなく取れると判断してシャトルを打っていた。その判断を超えたショットを金田が打ってきたということだろう。

(俺がやったみたいに、タイミングずらしたとか?)

 打つ前にラケットグリップを持つ位置を変えて、微妙にタイミングをずらす。武や金田のように速いスマッシュを打てるプレイヤーならば、効果がある。
 武には金田のタイミングの違いは分からない。だからこそ、自分が笠井へと使った時は大はまりしたのだと考える。外から見ては把握できない。

(吉田はどう解決するか、な)

 金田のロングサーブに、吉田はハイクリアを返す。金田は体力の配分を考えていないのか、更にスマッシュを打ち放った。
 そして吉田のラケットがシャトルを捉えるも、ネット前にふらふらと漂う。完全なチャンス球ではあったが、運が良かったのかネット前にするりと落ちたため金田はロブを上げる。
 危機は脱したものの、武の脳裏には一つの可能性が過ぎっていた。

(まさか、最初より速くなってるのか?)

 単純な答え。小手先の技術など使わないで速度を上げる。金田の右手に集まる力を武は見えた気がした。


 ◆ ◇ ◆


 吉田の視界に見える金田は想像以上に圧力を持っていた。自ら志願して得たシングルス3に自信がないわけではない。今まで成長した部分は必ず金田に追いつき、追い越していると。
 武がスマッシュ力を鍛え上げたように、吉田はレシーブや細かい技術を磨いてきた。コート内を動く速度。シャトルへの反応速度を上げ、どんなスマッシュでも取れるよう、狙い通りの場所に落とすように。
 だからこそ、金田のスマッシュを取れなかったことは吉田の心にかすかな影を落とす。

(まだ追いついてないってことか? いや、試合は始まったばかりだ)

 吉田は小さく「ストップ」と呟く。金田から発せられる気迫に動いたことによる汗とは別のものが流れた。
 そしてそれは、吉田の中に快感をもたらす。強い相手との試合への興奮。
 全地区大会での団体戦。そこで得た緊迫感が蘇る。

「一本!」

 咆哮と共に放たれた金田のハイクリアはシャトルを天井へと届かせようとするほど、力強く飛んだ。長い滞空時間に吉田の動作は自然と停滞してしまう。落下点に入り、打つ。タイミングを完全に外された。

「だっ!」

 チャンス球なのは変わらない。吉田はタイミングを修正して飛び上がり、より高い打点からスマッシュを叩き落す。狙うのはコート側面。シングルスラインの上。
 しかし、次の瞬間には吉田のコートにシャトルが返っている。金田がバックハンドでクロスに飛ばしていた。がら空きのコートにシャトルが落ちようと――

「はっ!」

 吉田もまた、着地した瞬間にシャトルを追っていた。金田と同じようにバックハンドでシャトルを捉えると、ストレートにドライブ気味のショットを放つ。鋭いシャトルの軌道に金田もラケット面を押し入れ、再びクロスで吉田のいる反対側を襲う。
 外から見れば金田が翻弄しているように見える。実際、金田よりも吉田の動きが激しく左右に振れていた。
 それでも、まだ吉田には危機感はない。

(体が軽くなっていく。温まってきたからか!)

 金田のスマッシュが速くなるように、吉田の動きも枷が外れていく。六度繰り返した左右への動き。七度目を迎えようとしたその時、吉田の目と勘が些細な違いを感じ取る。

(ここだ!)

 左サイドでストレートに打ち、右サイドに移動しようとした体をその場で押し留める。金田からのシャトルはクロスではなくストレート。吉田はネット前に即座に落としていた。
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