Fly Up! 101
それでも、笠井は打っていく。コントロールが良ければそう簡単にはプッシュはされない。クリアもドロップも難しいならば、より確実なほうを選ぶ。
スマッシュを取れる可能性よりも、自らがドロップを成功させる可能性のほうが高い。
(いけ!)
武へと挑むように、笠井はドロップを放った。軌道は武の左前。打たれたとしても十分な力を乗せられないだろう、バックハンド側。笠井はドロップの軌跡を追っていくように前に出る。
(プッシュのコースを狭めれば――)
前に出ればシャトルの体感速度は上がる。それでも相手から見て空いている場所は少なくなり、ラケットが当たればカウンターになることもあった。ましてやバックハンドが苦手な武だからこそ、プレッシャーをかけてミスを誘うというのが笠井の思惑。
だが。
「うぉ!」
プッシュ直前だった武はシャトルを跳ね上げていた。笠井がジャンプすれば届くが、そのまま手を伸ばしただけでは届かない軌道を描いてシャトルが飛んでいく。
(な、に)
前にも後ろにもいけず、その場に硬直した笠井の背中にシャトルがコートへと落ちる音が響いた。
「ポイント――」
笠井は武のカウントを聞かないまま、シャトルを取りに行く。正確には完全に裏をかかれたことに驚き、対策を頭の中で考えていたからだが。
(あのタイミングでプッシュをロブに変えるだって? 凄い柔軟な手首の使い方だ。あいつ……)
笠井の中でおぼろげながらスマッシュのタイミングをずらされた理由が像を成していく。それでも、回避する手段は厳しい。
「ストップ」
シャトルを返して呟く。武が「一本!」と声を張り上げてロングサーブを放ったことにあわせてシャトルを追っていくと、感覚的にはアウトと警告される。
しかし、何か嫌な予感で笠井は思わずドリブンクリアを返してしまった。
(しまった!)
鋭く足を滑らせて追いついた武は、スマッシュをクロスで打ち込んだ。まだフォアハンド側だったからか、笠井はストレートに返すもそこには軌道を読んだ武が迫っている。
「はっ!」
繰り出されたプッシュは笠井の股下を抜けて落ちた。
「ポイント。セブンツー(7対2)」
徐々にポイントは広がっていく。取り返せなくなる前に攻めなければ、笠井に勝ち目はない。それでも笠井は攻める気をなくしていた。それは戦意喪失というよりも――
(凄いよ、相沢)
笠井の、武への感嘆の念が起こす虚脱感。自分の予想の上を行く実力を持った相手に対して感じる想いが体の動きを鈍らせる。
打ち負かそうというよりも、相手の技量に負けてみたい。そう思えるほど魅力ある対戦相手ということ。
(って、何を言ってるんだ、俺は!)
そこまで思考が達したところで、笠井は我に返る。闘志が一瞬だが完全に萎えていた。武へとシャトルを返してから息を吐いて自分の中に溜まった感情さえも吐き出す。
武がスマッシュで技量を魅せるならば、自分もまた他の面で魅せるのみ。
「しゃ! ストップ!」
「一本!」
武のサーブが緩やかなラインを描いて前方サービスラインへと飛ぶ。強引に前に体を移動させて跳ね上げてから、笠井はいつもより前でスマッシュを迎え撃つ。
(振ろうとするからタイミングがずれる。軌道上にラケット面を置けばいい!)
面をコートと垂直になるように立て、スマッシュを待ち受ける。これでシャトルはただ跳ね返るだけ。相手の力を利用した完全なカウンターだ。
「はっ!」
打ち抜かれて空間を切り裂いてくるシャトル。笠井のバックハンド側。ちょうどラケット面を立てていた位置に向かってくる。そのまま微調整をこなせばただ跳ね返るはずだった。
だからこそ、シャトルが斜めに浮かび上がったことで笠井は動きを止めてしまう。
ただラケットにシャトルを当てて返すだけだったはず。それさえも出来ずに上がったシャトルを、前に飛び出していた武は思い切り叩きつけていた。
「……なん、だと?」
単純に考えれば、武のスマッシュの威力にコントロールが効かなかったということだろう。一瞬の遅れが本来シャトルに触れさせるべきタイミングにラケット面を持って来れなかった。
(はっ……やってやるよ)
笠井は吹っ切れたように笑い、武に向かって呟いた。
「絶対、勝ってやる」
◇ ◆ ◇
試合が始まって四十分が過ぎていた。序盤から中盤の武のリードに、誰もがすぐさま勝負が付くと思っていた。
しかし、結果は簡単には訪れない。
「ポイント。フォーティーンオール(14対14)」
武と笠井の得点は互いに十四点ずつ。
中盤まで稼いだ武のリードが削られ、今やセティングポイントまで競り合う。
「おい、時間ないからセティングなしな!」
これからセティングの宣言をしようとした武に対して、ストレッチをしながら金田が言う。
「あえ……はい」
異論を挟めるはずもなく武は呟き、笠井へと向き直った。
サーブは笠井。ここまでの流れは消して悪くはなかったはずだ。十点を取る頃には相手は三点。力技で十分押し切れる点差だった。しかし、こうして武は追いつかれている。
(ミスをしてるわけじゃないのに、いつの間にか点を取られていたって感じだな)
最初はただロブを上げないようにという戦術が見えていた。だからこそ武はより前に出ることでプレッシャーをかけてミスを誘い、たまらずロブが上がったところをスマッシュで叩く。そうすることで試合は武の優位に進んでいたのは確かだ。
それでも、その後から笠井は積極的にロブを打つようになった。武のプレッシャーが無いかのごとくドロップでシャトルを落とし、前に出てきた武を追わせる様に鋭いロブを上げ、武の苦し紛れのスマッシュをヘアピンで落とすという戦法に逆に武がはまっていた。
(ここまで来て試合が振り出し、か)
あと一点で武が負ける。しかも相手からのサーブ。圧倒的に武が不利。それでも、口元に浮かぶ笑みは止められない。
(面白い。とても、面白いです。笠井さん)
心の中で笠井に賛辞を送る。武にとって久しぶりのシングルスは、貴重なものを残したのだ。
(実戦で試せてよかった。これで、これからも使っていける)
ラケットを軽く握りながら武は笠井のサーブを待つ。ロングがショートか、二択。笠井がシャトルを手放し、ラケットを振る。その瞬間、武の脳裏に一つの像が身を結ぶ。
(後ろ!)
ラケットからシャトルが跳ね上がるのと、武が後ろに下がるのはほぼ同時。フォルトになるかならないかという絶妙なタイミングで飛び出した武は、今までよりも速いタイミングでスマッシュの姿勢を整える。
狙うのは、笠井の右わき腹。
ラケットのカバー範囲の死角は、体ごと移動して打たなければいけない場所。
「はぁ!」
武のラケットに打ちぬかれ、シャトルは狙い通りの場所へと飛ぶ。笠井は右足を後ろへと引き、ラケットヘッドを下にして立てて強引にネット前に返す。武はそこに追いついて、ヘアピンを落とす。
(ここで、ヘアピンか!)
一瞬の賭け。笠井が拾ったヘアピンを超えるところでプッシュする。しくじればネットタッチで試合終了。決まれば間違いなくサービスオーバー。
笠井がラケットに振れ、武はタイミングを合わせようと両膝を沈める。
(勝負!)
飛び出した武の前方にシャトルが飛ぶ。まるで笠井が武の意図を汲んで勝負を仕掛けたような場所。だからこそ武も前にラケットを伸ばす。ロブで逃げようなどとは思わない。あくまで叩くか、ネットに触れてゲームオーバーか。
「おらぁ!」
右足の踏み込みと共にラケットを鋭く振る。振り切るとネットにぶつかってしまうため、ぎりぎりの位置で叩いてからすぐ引く必要があった。
シャトルはパンッ! と乾いた音を背に突き進んで笠井のコートへと突き刺さった。
対してラケットは上がっている。ネットに付かない様に叩いたと同時に軌道を捻じ曲げて上方に逃がしていた。
固唾を呑んでジャッジを待つが、セルフジャッジであるこの場に審判と言えるのは互いだけ。公正な判断ができるのは外で見ていた仲間達のみ。
「サービスオーバー。フォーティーンオール(14対14)」
そう言ったのは金田。笠井は不平など言うこともなくシャトルを武に返す。同期を助けるということでも、後輩を立てるということでもない。ただ事実として触れてないように見えたから言ったのだろう。
武はほっと一息ついてシャトルの羽を直す。自分ですら触れていたかどうか分からない。それを見極めた金田の目に武は素直に感心する。
「一本だ」
転じて、武の勝つチャンス。シャトルを一度コートに落とせばそれでいい。しかしそれが最も難しいことだと武にも分かっていた。現実的な話をすれば、決めようとする力みと決めさせまいとする相手の集中力の相乗効果で攻め手が失敗するのだろう。圧倒的に力の差があるならばすぐに点を取れるが、力が均衡していた場合は容易に攻撃側は突破できない。
しかし、ある程度均衡を保った後でいきなり崩れて終わる。どちらかも集中力が切れ目が勝負の切れ目。
勝利の女神が微笑むのは、どちらか。
「一本!」
武は全力でサーブを打ち上げた。決めづらいことは分かっていても、武は集中力の切れ目など狙ってはいない。相手の集中力があろうとなかろうと、防御を貫いてシャトルを落とすだけ。
「ストップ!」
笠井は叫んでからドリブンクリアを飛ばす。半ば仰け反りながら追いついて、武はスマッシュをストレートに叩き込んだ。打つ姿勢が悪かったからか力は不十分。その隙を見逃さず笠井はクロスにヘアピンを打つ。
武もその軌道を読んでコートを斜めに突っ切っていく。追いついた頃にはシャトルは床に付きそうになっている。わずかな隙間にラケットを滑り込ませ、手首を捻って強引にヘアピンに持っていった。ネットぎりぎりに乗り越えて、落ちていくシャトル。しかし、笠井もまたクロスにシャトルを飛ばす。
ネットを伝って武のコートへと向かうように。
「はっ!」
シャトルがネットを越えた瞬間、少しだけネットとシャトルの距離が開く。そこを逃さず、武はロブを上げる。ふわりと柔らかい軌道を描くのではなく、鋭く相手陣地を侵す。前にいる笠井には十分に有効な手。
笠井はバックステップで後ろに下がる。途中から横走りになり、最後は真横からシャトルを打ちぬいた。武のよりも鋭いロブが上がるが、武はその軌道が延び切る前にラケットで迎撃する。
「うら!」
ただ差し出すだけではなく、少しラケットを動かしてインターセプト。カウンター気味に速度が上がったシャトルに笠井は追いつき、またロブを上げようとしてか、テイクバックを深くして振りぬいた。
シャトルはクロスに飛び、武から離れていく。武は左足でコートを蹴り、逃げていくシャトルに追いつくと、笠井の位置を見る。
中央へと駆け出している笠井。このまま前に落としても、すぐに反応して取りに来るだろう。
(なら!)
武は笠井のコート左奥をストレートで狙った。シングルスライン上に落とすような器用な真似はできない。しかし、追いつけるならばインとアウトが曖昧な軌道に乗るシャトルは無視できない。アウトならばサービスオーバーだがインならばゲームセット。
笠井は武の予想通り、シャトルを無視せず追っていく。バックハンドで打つ姿勢を見せて右足を踏み込んだ。
「はっ!」
ストレートのヘアピン。だが、シャトルが向かう先には武。笠井の顔に驚愕の顔が浮かぶ。しかし、自分の失策に硬直する前に笠井の体は動いていた。武の打つシャトルを取るために。
それでも、武は勝利を確信してラケットを振り切った。
「はっ!」
プッシュされたシャトルが笠井の進行方向から外れて飛んでいく。前に飛び込もうとした笠井の更に先で、シャトルがコートに落ちて跳ねた。
笠井の足が数歩進んで止まる。
武も打ったままの姿勢で動くを止める。
時が止まったかのようなコートに次の瞬間、第三者の声が響き渡っていた。
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