Fly Up! 04
「はぁ……あと……半分だねぇ」
小林大地の声が後ろから聞こえてくる。武は一瞥するのさえも億劫になっていたが、最後の坂を登って心の中では安堵する。最後の一周。最後の坂。登りきったならばあとは下るだけ。
すでに前を走っていたほかの一年生は見えない。途中まで一緒だった杉田も武と小林のローペースに合わせきれず、徐々に差が広がっていった。気づけば先にある曲がり角へと杉田の後姿が消えている。
「も、すこし……だ」
体力の限界、という様子を見せつけている小林だったが、それ以上に限界なのは声さえも発することが出来ない武だ。スポーツをする者として体力が無いほうというのは自覚していたが、ここまで離されるのは小さいながらもスポーツをしているという矜持が欠ける。
小林は体格が同年代と比べて小さいため、総量がまず少ないのだろう。それに比べて武は太り気味の身体が邪魔をして走りきることが難しい。
(ほんと、体力つけないとな……小学校の時も走ってたんだけれど)
それでも、小学校でのマラソン大会では二キロを完走するにもやっとだったことを思い出す。考えてみれば今回はいきなり二倍の距離を走っているのだ。まだ歩いていないことだけでも武は奇跡だと思う。
(でも、汗かくのは気持ちいい)
胸は苦しく、酸欠になりかけてはいたが、武は肌を流れ落ちていく汗に嫌悪感は全く無かった。町内会のサークルが終わり、中学に入るまで本格的に汗を流したといえば雪かきの時だけだったから、純粋な運動での汗というのは嬉しかった。
また、好きなスポーツとの時間が始まったのだと思えたから。
ゆっくりながらも曲がり角に差し掛かる。武は締め付けられる肺を強引に膨らませて言葉を発した。
「ラストスパート!」
「――おう!」
小林もまた全力で声を出し、腕を大きく振って最後の直線を突き進む。走り出した時は下校する生徒たちの姿も見えたが、今は誰もいない。二人だけの道をゴール目指して走り続ける。
十メートル。五メートル……。
『おっしゃー!』
気合の声と共に、二人は玄関前を駆けぬけた。急に立ち止まっては心臓に負担がかかるため、楕円軌道を描きながら早歩きをして徐々に速度を落としていく。
「へへ……やった」
「そうだね。えーと小林君」
「大地でいいよ」
初めて会った二人の間に奇妙な連帯感が生まれていた。互いに辛い道のりを乗り越えたことが、距離を縮めたのだろう。お互い自然と笑みを浮かべて、二人は歩き出した。
武は大地と共に玄関の中に入ると、シャトルが真っ直ぐに飛びかっていた。打ち合いの邪魔にならないようにだるい身体を玄関の端へと移動させて、外靴を脱ぐ。そこに上靴を差し出してくる手があった。
「お疲れさん」
「橋本……」
直後には出すことが出来た言葉も、時が経つにつれて重くなる。紡がれた言葉が床に落ちる。疲れを何とか意識の外に追い出して、武は尋ねた。
「いきなり打ってるけど、どうなった?」
「吉田君が今度の部活までに練習考えてくるから、今日は古いシャトル打とうってよ」
橋本の視線に合わせて武は打ち合ってる二人を見る。一人は西村和也で、もう一人は見たことがない男。そこで武は、ランニング前に消えていた八人目の一年生だと気づいた。
(なんでいなかったんだろう……それに、あのドライブの打ち方、素人じゃない)
武達がいる玄関はある程度の広さを持っていた。外靴は袋に入れて持ち込む形式であるため、靴箱がない結果だ。だが、横は壁にラケットをぶつけないように注意すれば何とかなるが、高さは足りない。ラケットを真上に振ることでのショットは使えないことになる。
そんな事情から、今、二人が打っているのは「ドライブ」と呼ばれるものだった。弾道が床に平行になるように打たれるドライブは主にダブルスで使用される。コートを空間的に広く使うシングルスに対して、ダブルスは二人いる分守備範囲が広い。よって相手を多く動かす事よりも、速さで圧倒する必要がある。そのために必要なショットだ。
「あいつ、さっきいなかったよな」
「ああ。小山隆弘。俺と同じクラスだよ。テニス部と掛け持ちなんだって」
「掛け持ち……」
その言葉が引っかかり、武はその小山を見た。バドミントンは始めてであるはずなのに、やけに様になっているフォーム。似たラケットを使っているからこつを掴むのが早いということなのだろうかと思うも、何かが武の心をささくれ立たせた。
「掛け持ちか」
言葉に熱が、生まれる。
「ふいー」
何度かドライブを応酬してから、小山は滲む汗を拭きながら武の傍へとやってきた。橋本がラケットを持って軽く振りながら進み出て入れ替わる。小山は武を見て口の形を「お!」と変え、すぐににやけた。
「一番最後に走ってたやつだろ? 俺、小山。小山隆弘って言うんだ。よろしくー」
橋本と似たような口の利き方だと武は思ったが、少なくとも橋本は初対面の相手には距離を取る。口から生まれただけに、良い悪いの境界線がどこにあるのかを察知するのが小学生の時から既に出来ていた。見習うべきところだと、思考がそれそうになった時、小山の言葉が脳を冷やす。
「テニスとやっぱり似てるからやりやすかったよ。これならバトミントンでも優勝狙えるかな」
「……優勝?」
自分が思ったよりも声に嫌悪が出ていたことに武は驚く。だが、音量が小さかったため小山には声質まで分からなかったらしい。自分に向けられた言葉にだけ反応して、返事する。
「ああ。バトミントンってさ、思ったよりも迫力あるけどやっぱりそんなに激しくないだろう? ちょちょいっと優勝しようかなって」
「…………」
ちくりと、刺さる棘。心だけではなく、全身に。身体中の毛穴を塞がれたような痛みが意識をぼろぼろにし、開いた穴から黒い炎が噴出す。
血流が脳に集まり、怒りとして具現化しようとしていた。
(バドミントンを、馬鹿にしてる)
小山本人にその気があるとは関係がなかった。口ぶりからしてテニスにはある程度の自信があることによる言なのだとも、武は分かる。だが、バドミントンに六年を費やしてきた武には、聞き逃すには暴言に過ぎた。
(中途半端で勝てるような競技じゃ――)
思いを言葉にし、口から紡ごうとしたその時、体育館の扉が開く。がらがらと響く音にタイミングを逸し、武は音を立てた主を見る。
「小山。バドミントンはどうだ?」
庄司は気さくに話し掛ける。武は「そう言えばテニス部の顧問でもあったんだ」と記憶を呼び起こす。
「バトミントンとテニスは似てるから、すぐ上手くなりそうです」
「バト、じゃなくてバド。バドミントンだ」
激情が冷めてとりあえず最初に不満だった部分を伝える武に、小山は少しだけ気まずそうに笑う。今度は言葉の端にある感情を捉えたらしい。
そして武の不満を形に変えたのは、庄司だった。
「試合、するか?」
庄司の申し出に武と小山は二人で固まった。武から見て小山は口を開けて庄司を見ていたが、おそらく自分も似たなものだろうと冷静な部分が悟る。一年生という立場と、打つ場所がないという理由で玄関で無理やり打っているというのに。
そんな武の内心を察したのか、庄司は柔らかく頷くと先を続けた。
「試合に出る選手の休む合間に、ちょっと一ゲーム入れようと思ってな。そこで一年の実力を見せてもらおうと思ったんだが、お前と小山やってみないか?」
「おおー、ゲームできるんですか!」
「僕でいいんですか?」
小山は喜々として応じていたが、武は自分よりも上手い面々の前で打つことに躊躇いが出た。入部していきなり試合が出来る幸運は生かしたいと思いつつも、悪い部分をさらけ出す覚悟もない。
「相沢が無理なら、西村か橋本――」
「や、やります!」
違う名前が出てきた瞬間、武は叫ぶように立候補していた。身体が勝手に反応したといってもいい。庄司は満足げに笑い、他の面々は武を不思議そうに見ている。気持ち的に小さくなりつつ、武は庄司と小山の後について体育館へと入った。
「これから一年同士で試合してもらうから」
庄司がコートの横で座っている部員達に話しかける。武が視線を一瞬だけ向けると、吉田と試合をしていた金田や他の部員が見えた。自然と身体に力が入る。
小山が入り口から遠い面に入り、シャトルは武に手渡される。
「十一点の一セットだが、小山は初心者だから九点からスタートするぞ」
「え!?」
審判に付いた庄司の言葉に武は愕然とする。サーブ権はシャトルを渡されたことからも自分にあるようだが、十一点取る間に小山が二点取れれば負けることになる。ミスをしないで順調に点を取っていけば十一点先取は可能だろう。プレッシャーに負けなければ。
「イレブンポイントワンセットマッチ、ラブ……じゃないか。プレイ!」
少しだけ投げやりな庄司のコールにより、試合が開始される。小山はコートの中央線で区切られた右半分の真ん中に立ち、武のサーブを待つ。正確なルールは知らないはずだが、コートの区切りを見てある程度掴んでいるらしい。
(落ち着け……まずは、サーブを入れる)
ゆっくりとサーブの構え。上にあげたラケットの面をすくい上げるような軌道で放つ。軌跡上にシャトルを置くことで綺麗なアーチを描く――と武は思ったが、綺麗とは言い難い斜め上への直線的な軌道をシャトルは描く。勢いが止まらず、シャトルは小山のコートの後ろを軽々と割った。いくら初心者といえども見切ることがたやすいくらいに。
「サービスオーバー。ナイン、ラブ(9対0)」
庄司の言葉が武の心臓を突き刺し、激しく叩く。大事なサーブをミスしてしまったことで武の中に微かに残っていたアドバンテージが消え去る。
(もし、ちゃんとサーブを入れてきたらどうする……)
二点取られたら負け、という状況は試合では何度も体験してきた。それでも今の状態まで緊張はしない。体験してきたのは対等な状況からの純粋な実力差。しかし、今回は不条理と言えるほどのハンデ戦だ。相手が自分とは違い全くキャリアがないというのもプレッシャーとなる。
(負けたら……ここで、負けたら、俺はどうなるんだろう)
初心者に負ける。同じようにやってきた者に負けるのならまだしも、ここで負けたとしたら自分の六年間が再び否定されると、武は目の前が暗くなる。
そこに、シャトルが低い弾道で飛んできた。
「うわ!?」
咄嗟にラケットを上にあげて何とか跳ね返す。ネットぎりぎりの軌道。小山は反則にならないぎりぎりの高さでシャトルを打ち、結果顔の上を抜けていくような軌道となった。
それでも跳ね返したシャトルは前に落ちる。そこに、小山が詰めていた。
「と!」
ネットに触れないようにラケットを一瞬だけ前に押し出す。隙だらけのシャトルは強打はされなかったが、そのまま武のコート内に落ちた。
「ポイント。テンラブ(10対0)」
唖然として落ちたシャトルを見つめる武。頭に血が上り、視界が揺らめく。感情の高ぶりに泣きそうになるのを堪えて、シャトルを拾うために歩く。
(まだだ。ここで止めれば……でも、止められなかったら……)
黒い霧が武の心を覆っていく。部活が始まる時に見えていた光が消えていく。
自分はやはり無理だったのか。六年間の努力など軽く吹き飛ばされるものだったのか。そう思うと武は全身が石にでもなったかのように硬直し、周りの声も徐々に遠のく。聞こえるのは自分の呼吸の音だけ。
シャトルをラケットで拾い、小山に返す。おぼつかない手つきでふわりと上がったシャトルを取ると、小山は場所を移動して構えた。
(駄目だ……ちゃんと入れないと……取らないと……)
身体の硬直。完全に筋肉が萎縮し、足がコートに根付いたように動かない。
(負ける――)
『ストップー!』
その時だった。その応援は、内なる鼓動に割り込んで武の耳へと届いた。
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