「エスカリョーネさん」

 マイスはその人物の名を呼んだ。エスカリョーネは曲の流れに乗るように体を揺らめか

せていたが、マイスの声が届いたのか閉じていた眼を開きマイスを見る。そして曲を途中

ながらも止めた。

「マイス君。いらっしゃい」

 エスカリョーネはいつもの無表情を消してマイスに微笑みかけた。

「いつ聴いてもいい曲ですね。いいかげん教えてくれませんか? その曲の名前……」

 マイスはこの三日ほどマイスは同じ質問を繰り返していたがエスカリョーネは答えては

くれなかった。その意図は分からない。しかし、今回は様子が違った。

「そうね、いいわ。教えてあげる」

 エスカリョーネはそう言うと再びピアノに向かい、弾き始めた。

 先ほどと同じ旋律が、正確に言うと先ほど途中で止めた小節の次からエスカリョーネは

曲を紡いだ。

「これは『エンドレス・ワルツ』。全ては運命の輪の中で起こる事。けして、それは変え

る事はできない。全ては一つから始まり、一つに集束していく……」

 エスカリョーネは流れるように、歌うように言葉を紡ぐ。マイスは言い知れぬ悪寒が体

を駆け巡るのを感じた。

(何だろう……。この感じは、嫌な感じだ)

 何とか言葉で表せば、自分の体の奥底から湧き上がるような感覚。自分の、人間の奥深

くにあらかじめ潜んでいるような絶対のモノ……。

(『エンドレス・ワルツ』……)

 マイスはその曲の名をもう一度心の中で復唱した。その時、エスカリョーネが歌ってい

る事に気づく。





・・・・・・忘れられし鼓動。けして消えることの無い存在。

      全ての事物が生まれ、消えゆく楽園。

      生も、死も、全ては決められた輪廻。

      繰り返す時間の輪をいつまでも、歩いて行く・・・・・・





 その歌声はマイスの心に入ってくる。抗う事のできない強制的な支配。

 マイスは本能的に危機感を感じて思わず叫んでいた。

「うわぁ!!」

 叫びと共に後方に飛びのく。息が荒い。心臓の鼓動がかつてないほどに早まる。

 エスカリョーネはそんなマイスの姿をじっと見つめていた。

 その表情は全くと言っていいほど感情を見せていない。

「マイス君。あなたは素晴らしい可能性を持っているわ」

 エスカリョーネはそう言うとマイスに近づいていった。マイスはその場に硬直したまま

だ。何か言おうとするマイスの顔にエスカリョーネの手が触れる。

「あなたはもっと強くなれる。あなたの、先生よりも」

 急にあたりの気圧が下がったようにマイスには感じられた。正確には気候が嵐へと変わ

る時に生じる気圧変化であるが。

 エスカリョーネの瞳が鋭い光を放っているように思えた。





 ミリエラは三日間の眠りから目が覚めた。時間は正午から少し時間が過ぎたと言うとこ

ろか。ちょうどマイスとエスカリョーネが会い、嵐が近づきつつあった時だ。

「目が覚めたか」

 傍らを見る。ベッドの隣にはヴァイが座っていた。その隣にはレーテを腕に抱いたルシ

ータ。その顔に少し疲れが見えるのはどうしてだろう?

 服は別のものになっていた。紺のワンピースはおそらくルシータのものであろう。

「あの、私……?」

「あなた、雨にずっと当たって倒れたのよ。エスカリョーネって人が助けてくれなかった

ら今頃どうなっていたか……」

 ルシータが言った言葉の中にあった人名にミリエラの体が震える。

「知っているんだな。エスカリョーネって女の事」

 ヴァイが言う。少し口調に棘のようなものがあった。

「ちょっとヴァイ。ミリエラ起きたばかりなんだからそんな事は後に……」

「いえ、いいの。ルシータ」

 ミリエラは頭を振って自分の頭に残っていた眠気を取り払うとヴァイに向き合った。

「ヴァイさん。断片的ですが、記憶が戻りました」

「えっ!?」

「そうか」

 ルシータとヴァイは正反対の反応を見せる。ルシータの顔は驚愕のそれを浮かべ、ヴァ

イは半ば予想していたような物だ。

「眠っているミリエラの頭の中を魔術でちょっと探ってみた。記憶制御をした形跡があっ

たがかなり崩れかけていたから、今度目覚めた時には記憶が少しは甦っているとは思っていた」

「魔術ってそんな事もできるの?」

 ルシータが感嘆を通り越して呆れの表情で言った。ヴァイは感嘆に頷く。

「しかし危険度は高い。よほど熟練の魔術師でも精神障害を起こしてしまう事がある」

「ヴァイさん」

 ミリエラは意志の強い光を向けてきた。ヴァイはその眼になんとなく覚えがある気がす

る。なんとしてでも、誰かを止めようとしている者が持つ瞳の光。

「エスカリョーネは、復活させようとしているんです」

 ミリエラの体が震える。瞳の強い光とは裏腹に体は恐怖のために震えているようだ。

「何、を?」

 ルシータが恐る恐る尋ねる。その時、ルシータの腕の中で寝ていたレーテが急に額の宝

玉を光らせた。その様はミリエラの次の言葉に反応するかのようだった。

「古代幻獣の禁忌。古代幻魔獣を……」

「古代、幻魔獣だと……」

 ヴァイの額に汗が浮かんだ。ヴァイの気配の変わりようにルシータがうろたえながらも尋ねる。

「古代幻魔獣って一体?」

「『疎の者等、世界の裏側に存在し世界を蹂躙する者達也。その力、天を裂き、地を焦が

し、海を消す。悪魔の寵児たる五体。終焉の魔獣』」

 ヴァイは自分が《リヴォルケイン》時代に教育を受けた時に読んだ世界創世記にかかれ

た一節を言った。ルシータはきょとんとした顔でヴァイを見返す。

「古代幻獣達の中でも邪悪で凶悪な五体の幻獣。そいつ等の事を古代幻魔獣と呼ぶんだ。

 古代幻獣が滅んだ原因と言われているだけあって、その戦闘力はかなり高い。人間なんか

比較にならない。今、現代に現れたら確実に人類は滅亡するな」

「そ、そんなのを復活させようとしてるの!? あのエスカリョーネって人は!? 一体

どうして……」

 ルシータはミリエラに食いつくように言う。その顔にははっきりと焦燥が浮かんでいた。

 今のルシータにはきつい話だろうがミリエラはその理由は気づかない。

「そこまでは思い出せません。でも、はっきりしている事は、彼女は私の姉だと言う事です」

「え?」

 ヴァイとルシータは同時に声を出した。ミリエラはもう一度はっきりと言う。

「エスカリョーネは、私の姉です」

 部屋の中に静寂が訪れる。三人とも、次の行動を決めかねていた。それほどショックは

大きかったのだ。

「……とりあえず、彼女を止めないとな」

 ミリエラの告白から最初に立ち直ったのはヴァイだった。流石に古代幻魔獣という最大

の禁忌を持ち出されては危機感が違う。

 今まで何度も命の危機にはさらされてきたが、今回の事態はそれらが比較にならないほ

どの危機だ。正に本当の人類の危機に瀕しているという事である。

「で、でもぉ、一体どこに……」

 ルシータが、まだ自体の規模が大きすぎてとるべき態度がよく分からないという感情を

顔に浮かべつつ言う。その時、レーテの額の宝玉が光り出した。

「キューイ!!」

「何だ!?」

「何、何なのレーテ!!」

「きゃああああ」

 レーテから放たれた緑色の光がヴァイ等三人を包み込む。緑色の光の珠はその場から浮

かび上がると壁を通り抜けて嵐の影響で風が吹き荒れる空の中を滑るように飛んでいっ

た。向かう先には南の高台の巨木が見えていた。





 思考がマワラナイ。

 頭が考える事を拒絶しているようだ。

 僕の中にあの曲が入ってくる。

 僕の全てを、押さえつける……。

 マイスはエスカリョーネになされるままになっていた。意識が濃い霧に覆い隠されたよ

うになり何も考えられない。

「さあ、心を楽にしなさい。受け入れなさい。これを……」

「僕、は……」

 エスカリョーネはマイスの額に掌を当てて軽く左右に振った。それと同時にマイスは意

識を失い、その場に崩れ落ちた。

 風は更に強まっていく。もうそろそろ吹雪になるだろう。そう思いエスカリョーネはマ

イスを抱き上げた。

「さあ、行く……?」

 マイスを抱いてその場から去ろうとしたエスカリョーネの眼前に緑色の光が飛び込んで

きた。それは地面に到達すると軽い破裂音を伴って消滅する。

「……!?」

 エスカリョーネは微かだが驚愕を顔に浮かべた。緑色の光が消え去った後にはヴァイと

ルシータ、そしてミリエラが立っていたからだ。

「……マイスをどうする気だ?」

 いち早くエスカリョーネの姿を見つけたヴァイが静かに言う。エスカリョーネはヴァイ

の全身に漂う闘気を察知していた。おそらく回答によっては即座に襲い掛かられるだろう

とエスカリョーネは確信した。

「お姉ちゃん、こんな事止めて!」

「!? ミリエラ……」

 自分に向けて涙を滲ませながら訴えてくるミリエラにエスカリョーネは少し動揺する。

(そう、記憶が戻りかけているのね。でも、でもねミリエラ……)

「これはあなたの為でもあるのよ」

「えっ……?」

 ミリエラは自分の為だと言ってくる姉。その姉の顔は変わらぬ無表情だったが、ミリエ

ラにはその顔が泣いているように見えた。

「どういうことだ? そもそも、どうして古代幻魔獣なんかを復活させようとする?」

 ヴァイが言葉を続ける。何とか会話を続けてマイスを取り返そうと隙を探している。

 ルシータは黙ってエスカリョーネを見つめている。

「私達は《クラリス》を10年前に出奔した。理由は魔術における禁忌に触れたからよ。

すなわち、不老不死の魔術」

 風が吹き荒れ、耳障りな音がヴァイの耳を打つ。

「古代幻獣達でさえ手を出していない最大の禁忌に手を出していたのか。できるはずがな

いだろう」

「そうね。誰もが諦め、手を出さなかった魔術の最高峰の一つ。でも父は諦めなかった。

 父と幼かった私たち姉妹は旅に出た。古代幻獣の遺跡を探して。誰も発見できていない

遺跡になら不老不死の魔術の手がかりがあるかもしれない……」

 エスカリョーネの眼が遠くを見る。自分の記憶からその光景を思い起こしているのだろう。

「そして私達は見つけた。誰にも発見されていない遺跡を。そして会った……古代幻獣の

生き残りに」

「何だって?」

「キュー」

 ヴァイが呟くとともにレーテが声を上げた。ヴァイはなんとなくだがレーテがその名に

必死に自己を確保しているように見えた。ようは怯えないように気をしっかり持つという

ことだが。

「彼は……カスケイドは言った。古代幻獣の禁忌、幻魔獣を復活させる事ができれば不老

不死になれる、と」

「分からないな。どうしてそこまで不老不死に固執するんだ? それがミリエラのためだ

とでも言うのか?」

「そうよ」

 何気に言ったヴァイの一言にエスカリョーネは弾かれたように即答した。その事に一番

驚いたのはミリエラだった。

「どういう事、お姉ちゃん……?」

 エスカリョーネはミリエラを見て顔をしかめた。本当に少しだけだが。

「長い旅は私達の体を蝕んでいったのよ。私達は遺跡についてしばらくして病に倒れた」

 淡々とした口調の中にヴァイはエスカリョーネのとことん苦しんだ感情を知った。彼女

は苦しんで、苦しんで、苦しみぬいたのだ。しかし苦しみはまだ終わってはいない。彼女

の笑顔はその苦しみが終わるまでは戻る事はないのだろう。

「私は隣あったベッドに寝ながら妹の瞳が閉じていくのを見ていた。何もできなかったの。

妹が死んでいくのを目の当たりにしながら」

「そ、そんなばかな事あるわけないでしょ! 現にミリエラは生きてるじゃない!!」

 ルシータが信じられないといった顔でエスカリョーネを見返して叫んだ。ミリエラはあ

まりの事に体を震わせている。

 ヴァイはただ黙っている。その話の続きを待つように。

 雷が鳴った。嵐は吹雪と雷を伴い確実にヴァイ達が佇む南の高台へと近づいてきていた。

 それはあたかも、話の終わりが近いのを暗示しているようだった。

「あなた達、これを見たことある?」

 エスカリョーネは懐から何かを取り出した。最初、ルシータにはそれが何か分からなか

った。ミリエラもきょとんとしている。最初に気づいたのはヴァイだった。

「俺を襲ってきた怪物達の核、か」

「え!?」

 ルシータが驚愕の声を上げる。まさか、じゃあミリエラは……。

「これを埋め込まれたものは擬似生命を与えられる。そう、ミリエラは正確には仮死状態

のままこれを埋め込まれて生き長らえているだけなの」

 ミリエラはその場に座り込んだ。エスカリョーネはそんなミリエラに向けて最後に言葉を発した。

「ミリエラ。あなたは本当は、死んでいるの」

 雷が巨木に突き刺さった。直撃の轟音の後に、ぱらぱらと木の表皮が落ちてくる。

 あたりは吹雪が流れてくる。

 嵐はクレルマスを飲み込んでいった。

 衝撃の事実を聞かされたミリエラをあざ笑うかのように……。


BACK/HOME/NEXT