「はぁ、はぁ、はぁ……」 ヴァイはひたすら走りつづけていた。 何故、どこを走っているのかは全く分からない。周りは全て幾何学模様によって覆われ ている。地面も、壁も。 しかし自分がどこか、何かの内部を走っていることは理解できる。分かるのではない、 感覚で理解していた。 「一体何なんだ……?」 しかし自分がどうして走りつづけているかは理解できない。しかし何か走らされるもの が心の内に生まれている。 やがて前方に光が見えた。 「出口か?」 ヴァイは走る速度を上げた。そして一気に光の中に飛び込む。 視界を光が埋め尽くし思わず眼を閉じて立ち止まる。 しばらくして目が慣れてからヴァイはゆっくりと眼を開けた。 「ここは……?」 ヴァイは周りを見渡した。あたり一面、見渡す限りに花畑が広がっている。 しばらく見回していたヴァイの視界に見知った人影が飛び込んできた。 「ルシータ?」 いつの間に現れたか全く分からなかったがその後姿は確かにルシータのものだった。 「ルシータ」 ヴァイは後姿に呼びかけながら歩みよっていった。しかしルシータは花摘みに夢中にな っているのか全くヴァイのほうへは向かない。 「ルシータ、お前……」 ヴァイがルシータのすぐ傍まで来て肩に手を乗せた。それと同時にルシータが振り返る。 「なっ!?」 ヴァイは振り向いたルシータの顔を見て思わず飛びのいた。 「あ、ヴァイ。どうしたの? そんな顔して」 ルシータは普段の調子で話し掛けてきた。しかしヴァイは混乱する思考を元に戻す事が できなかった。 「お前、その顔……」 ルシータの顔は何も無かった。眼も、鼻も、口も、顔を構成する物が何一つ無かったの だ。幾つもの修羅場をくぐってきたヴァイが完全に取り乱している。 (落ち着け、落ち着け、これは夢だ) ヴァイは必死になって冷静になろうとする。精神を落ち着かせる事は魔術を扱う者には 必須条件だ。ヴァイは特にその術に長けている。しかし後ろから肩を叩かれたヴァイは振 り向いた瞬間、恐慌に落ちた。 「ヴァイ、どうしたの?」 「ヴァイ、どうしたの?」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ヴァイの後ろにはルシータがいた。それも、何人も。いや何百人も。 数え切れないほどの数のルシータの顔にはやはり何も無かった。一体何を持って顔と言 うのかはヴァイには分からないが、そこに『顔』があることでそう呼ぶとしたら、彼女等 は顔をもっていることになるだろう。しかしそれは凄まじく気味が悪かった。 「あ、あ、あ」 ヴァイはもうすでに冷静さを保つどころではなかった。 ルシータ達は次々にヴァイに近寄ってきて服の所々を掴んでくる。 「ヴァイ、どうしたの?」 「一緒にお花を摘もうよぉ」 「ねえ、ヴァイ……」 ヴァイの理性が崩れ落ちていく。そしてついに……。 「う、うああああああああああああああ!!!!!」 ヴァイは絶叫した。 「――あああああああ!!!!!」 ヴァイは勢いよく毛布をはぐって身を起こした。あまりの勢いに額を自分の膝にぶつけ るほどだ。隣で寝ていたマイスがヴァイの絶叫に驚いた拍子にベッドから落ちる。 「はぁ、はぁ、はぁ……ぁはぁあああ」 ヴァイは荒れた息を何とか落ち着かせようと一度深呼吸をする。 部屋の冷たい空気が肺に入ってきてヴァイの体全体を冷やした。 「な、一体どうしたんですか先生?」 マイスがようやく立ちなおり問い掛けてきた。ヴァイはしかし、それに答える事はでき なかった。息は落ち着いたが精神的ショックが強すぎて言葉が出ないのだ。 (な、何だったんだ? 今の夢……) ヴァイは夢と思おうとして急にやめる。 (いや、あれは夢にしては妙だった。むしろ、一種の精神支配だ) ヴァイは魔術にああいった悪夢を見せて精神崩壊に至らしめる方法があることを思い出した。 しかし……。 (あれはそういったレベルをはるかに超えている。何度か俺も昔受けた事があるが今のは それらとは桁が違った……) ヴァイの精神制御技術は世界有数のものである。そのヴァイの精神制御を打ち破る魔術 などほとんど存在しない。正確には誰にもできないと言える。しかし実際それは行われた のだ。あの夢があと数秒でも続いていればヴァイの精神は完全に崩壊し、廃人となってい ただろう。最後の最後に精神制御が成功して夢から覚める事ができたのだ。 「あの、先生……?」 先ほどから一言も喋らないヴァイにマイスが心配そうに声をかける。ヴァイはやっと完 全に落ち着き言葉を出す。 「ああ、すまん。かなりの悪夢を見てな。もう大丈夫だ」 「今までの疲れが出たんですよ。久々に何も事件がなくてどっとでたんでしょう」 「そうだな」 ヴァイはとりあえず今の事は夢だとマイスには言った。余計な心配はさせたくなかったからだ。 ヴァイ達がクレルマスに滞在してから三日経っていた。その間は資金に余裕があること から仕事も探さずに休養する形をとっている。久々というか、この旅が始まって以来の休 みを、ヴァイの夢で台無しにはしたくなかった。 「ところで、ルシータはまだ……」 マイスは少し表情を曇らせて言う。ヴァイはそれに頷いた。 「ああ。自分の家に行っている」 ルシータは父との事が一段楽するまで自分をヴァイ達が待つという条件で家へと戻っ た。マイスは自分達は一刻も早くオレディユ山に行かなくてはならないのでは、と思って いたがヴァイが認めた以上一緒にいるしかない。 しかし、ヴァイは今の状態が長く続かない事を分かっていた。 数々の人々が見つめる中、レギンス=アークラットは目を開けた。 彼が寝ているベッドの周りには医者、執事の他にも親類が全員集まっていた。 アークラット家の親戚筋は二つ。いずれも有数の資産を持つ富豪でクレルマスからは離 れた東部の一都市に住まいを持っている。 そのうちの一人、ガークスがレギンスの手を取った。 「レギンス義兄さん。具合はどうだい?」 ガークスはレギンスと一つしか違わないが、その外見はかなりの差があった。レギンス が病床で体重が減っている事を差し引いてもガークスの体は脂肪がついている。 「何だ、ガークス。また太ったんじゃないか?」 レギンスは少し苦しげだが、はっきりとした口調で言った。全く弱さを感じさせない。 「レギンス。どうやら大丈夫みたいだな」 ガークスの隣に座っていたカイオスルがほっと息をついた。 「カイオスル兄さん。まだ、儂は死ねないさ……」 レギンスはカイオスルの隣にいた人影を見て顔を少し歪めた。 「ルシータ……」 「……」 ルシータは無表情でレギンスを見つめていた。レギンスもルシータに視線を合わせてか わ一言も喋らない。 二人の間に広がる静寂に、他に集まっていた人々が耐え切れなくなる寸前にレギンスの 口が開いた。 「みんな、席を外してくれないか。ルシータと話がしたい」 レギンスの口調は頼みと言うよりも命令だった。ルシータ以外の人々は無言で頷くとそ そくさと部屋を出て行った。皆の足音が遠ざかると共に部屋が静けさに包まれる。 外に吹く、いつもより少しばかり強い風が窓を揺らしてがたがたと音を立てた。 「久しぶりだな。ルシータ」 「ええ。お父様も、変わりましたね」 ルシータの口調はヴァイ達に対するものとは違い、硬いものになっている。それは外敵 から身を守るための行為のようにも思える。 「アークラット家を捨てたお前が、まさかこの家に帰ってくるとはな」 「お父様がヴァイに言ったのでしょう? あたしがここに帰ってくるよう言うように」 レギンスは無表情を続けるルシータをじっと見つめた。その姿はしかし自分よりも、病 気で弱っている自分よりも弱々しく見える。少し突いてやれば崩れてしまいそうな虚像。 「じゃあ、戻ってきた目的は何だ? 死にぞこないの儂を笑いに来たのか? 恨みを言い に来たのか?」 ルシータは答えない。しかしその瞳はかすかに揺れ動いていた。まるで答えを探すように。 「聞きたいことがあるの」 しばらく黙っていたルシータが不意に口にした言葉はそれまでのどこか迷いのあるもの とは明らかに違った。 「何だ?」 レギンスはその表情を崩さずに先を即す。しかしそれは次の瞬間揺らぐ事になる。 「母さんを、最後まで愛してた?」 「……!?」 レギンスはそれまでの何にも動揺しないような表情を崩した。てっきりルシータは自分 への仕打ちについて聞いてくると思っていたからだ。ルシータは続ける。 「母さんを、最後まで、愛してた?」 それは問いかけと言うよりも切望だった。レギンスはルシータの心にあるものを見抜いた。 「ああ。母さんは、最高の女性だったよ。もちろん、母親としてもな」 レギンスの言葉と共にルシータの顔に笑みが浮かんだ。全ての不安が吹き飛んだような 笑顔。その笑顔はレギンスに懐かしい思いを抱かせた。 「分かった。もう、聞きたい事はないわ」 ルシータはその場を立ち上がる。そこにレギンスが声をかけた。 「すまんが、大事な話がある。皆をここに呼んで欲しい」 「はい」 ルシータは静かにその部屋を退出した。しかしどことなくその歩調が早いのは心が晴れ やかだからかもしれない。 「気づくのが遅すぎたな」 レギンスは誰もいなくなった部屋で呟く。 「姉二人よりも、あの娘が一番パーラシスに似ていたという事に……」 レギンスはベッドの傍に立てかけてあったフォトスタンドを取った。そこには家族五人 の姿。生まれたばかりのルシータを抱く妻、パーラシスとルシータの姉二人。そして不機 嫌そうな自分。 「あの時の儂にもう少し心に余裕があれば、あのような疑いはしなかっただろうな」 レギンスは自嘲気味に溜息をついた。フォトスタンドを寝ている自分の腹に乗せる。 「すまなかったな、ルシータ……」 スタンドを握っていた手が、横に流れた。 だらりとベッドの横にぶら下がる。 集まってくる人々の足音が遠くから近づいてきていた。 「先生!」 マイスが息を切らせて部屋に飛び込んできた。時間は正午。ベッドに寝転んで妨げられ た睡眠を取り戻していたヴァイが起き上がる。大体予想はついていた。 「レギンス氏が死んだか」 「えっ? 知ってたんですか?」 マイスが不思議そうにヴァイに尋ねる。この情報はマイスが用事のために出かけようと した矢先に届けられた新鮮な情報のはずだ。ヴァイが知っているはずがない。 「予想はしていたよ。ただ、思ったより早かった」 「そう、なんですか……」 マイスの表情が曇る。おそらくルシータの心境を思っているのだろう。 「ルシータも覚悟していた。あいつは大丈夫だ」 「でも、ルシータもやっぱ女の子ですよ……」 「それよりもマイス」 ヴァイはこれ以上ルシータの話題を続けても泥沼化すると思い、話題を変えることにした。 「お前、この頃どこに行っているんだ?」 「えっ!?」 マイスは突如の話題変換についていけないようでかなり驚いた声を出した。 「いつも決まった時間にここを出て行くだろう? 一体どこに行ってるんだ?」 「えっとそれはですねえまあなんといいますかそれは……」 マイスはあたふたと焦って弁論しようとする。とても分かりやすい反応だ。 「まあ、あんまり無茶はするなよ」 ヴァイは話題を逸らす事が目的だったのでさほど突っ込んだ質問もせずにマイスを開放 する。マイスはほっと一息をついてから「行ってきます」の一言をヴァイに向けて部屋を 出て行った。 「また一荒れ来そうだな……」 ヴァイが見る窓の外には遠くにわだかまる入道雲が見えていた。 「危ない危ない。先生、気づいてるんじゃないかなぁ」 マイスはクレルマスの街並みをその眼に収めつつ、呟きながら歩いていた。 マイスが向かっているのはクレルマスの市街からは外れた、南の高台と呼ばれる場所で ある。この地の天然の公園として夏などは駆け回る子供達の姿があるが、冬の季節となっ た今では流石に遊んでいる子供は少ない。 確かに雪が積もり遊び場にはちょうどいい場所であるが、いかんせん場所が悪い。 子供の足ではそこまで行く事が大変なのだ。 それならクレルマス市内の公園で遊んでいたほうがよほど効率的ということである。 夏にそこが子供の遊び場になるのは、遊んで遅くなっても日が長いために帰宅時の子供 の安全性が高いからである。 マイスがそこに着いた時、その耳にいつもの旋律が聞こえてきた。 「いつ聞いても……」 マイスはその先が言えなかった。その旋律は聞くものに有無を言わさないインパクトがあった。 マイスが向かう先。高台に一本だけある巨木。 都市クレルマスが創られた当時からそこに立つ老木は雪の衣をまとってクレルマスを見 下ろしていた。そこまで続く草原も雪化粧が施され、この場所はまさに冬の情景だった。 そんな中に異質なものがマイスの眼に入ってきた。 ピアノが巨木の下に置いてある。そして、それを弾いている人物がいた。