「彼の体を冒しているウイルス……ヒクルスだ」

「……!?」

 病原菌の名を聞いてルシータは遂におさえていた感情が溢れた。

 そのウイルスの名は不治の病を運ぶとして人々に恐れられている名だったのだ。

 言葉が頭に浸透すると共にルシータの瞳から涙が滲む。

「彼の命はもうもたないだろう。だから、ルシータが自分で決めて欲しい」

「……何を?」

 ヴァイは、はっきりと、少しの綻びも表に出さずに言った。

「俺といるか、レギンス氏の最後を見届けて後を継ぐか」

「!?」

 二人の間に静寂が広がっていく。ルシータには外の雪が風と共に舞う音が妙にうるさく

聞こえた。

(なに何を言ってるのヴァイ? あたし、は……)

 雷が鳴った。その影響か、部屋の電気が明滅し消える。

 暗くなった部屋の中で二つの影がじっと動かないままにいる。それはまたしばらく続き、

やがて電灯が再び灯る頃、ヴァイの顔は少し歪んだ。

 ルシータの頬に涙が伝っている。ヴァイはふと、この少女の泣き顔を見たのは初めてで

はないかと思った。少ない時間の中で思い返してみると、少なくとも思い出せる限りにお

いてルシータの泣き顔というものを見たのは今回が初めてだった。

「あたし、さ……」

 ルシータの口が開かれる。ヴァイはただ、じっとルシータの眼を見つめ返している。

「今まで、必死に頑張ってきたんだ。ヴァイに認めてもらうために」

 ルシータの顔は酷く悲しそうで、寂しそうだった。

「ヴァイに対等の存在だと認めてもらうことで、あたしは一人前の人になれると思ってた

んだ。それまで、誰にも必要とされてないって思ってたから」

 頬を伝う涙の量が増えていく。それに伴いルシータの言葉も途切れ途切れになるが、ヴ

ァイは意に介さずに聞いている。

「それで最近、やっと認めてくれるようになってきたじゃない? 凄く嬉しかった」

 そこまで言ってルシータは涙を拭いた。呼吸を整えるために深呼吸をする。



「でも、まだまだだよ! これからなんだよ! もっと頑張ってヴァイの役に立ちたい

の!! 認めてもらいたいのよ! ヴァイの心の底から、相棒だって!!」

 ルシータは感情の抑制を完全に忘れた。ここまで自分の感情を出したのは実はルシータ

にとって初めてだった。

「でも、お父様の話を聞いて傍にいたいって気持ちもあるの! どうすればいい!? ど

うすればいいの! あたしは、あたしは……」

 ルシータは再び頬に伝ってきた涙に堪えきれず床に崩れ落ちた。その嗚咽はルシータが

今まで抑制してきた感情の流れだという事をヴァイは理解していた。

 父親への嫌悪から家を飛び出したのは、まだ12歳という幼い時だ。その年齢でルシー

タは年齢相応の生活をする事ができず、自分を成長させる事を優先せざるをえなかった。

 そのために自分の感情を抑えつづけてきたのだ。

 それが今回の話によって爆発した。

 純粋にヴァイに認めてもらいたいという気持ちと、心の奥底に残っていた父への想い。

 その二つに挟まれてルシータは苦しんでいるのだ。

 ヴァイは優しくルシータの肩に手を置いた。

「ルシータ、素直になれ。心の奥底ではまだ父親への愛情が残ってるんだ。嫌な記憶だけ

が鮮明に残ってるんだろうが、けしてそれだけじゃない。その事が今、分かったはずだろう?」

 ルシータはそのままヴァイの胸に顔を埋めた。ヴァイは自然とルシータの背中に手を回

す。背中をさすり、まるで幼子をあやすかのように抱いた。

「何も今すぐ結論を出せと言うんじゃない。とりあえず家に帰ってやれよ。俺は、俺達は

まだここにいるから。家で父親の看病をしてやれ。そして聞くんだ。昔の事、今の事を。

父親の口からはっきりと」

 ルシータはただ泣き続けた。ヴァイも何も言わずに嗚咽を受けつづけた。





 泣いている……。

 少女が、泣きじゃくっている。

 あれはだれ? あれは……私?

 ミリエラは目の前で泣きじゃくっている少女をじっと見つめていた。

 自分の立っている場所は花畑の中。

 そう、夢に出てくる場所だ。

 見渡す限り、この花畑は続いていく。

 ミリエラは少女に近づこうとした。

(あなたは……私なの?)

 しかしミリエラの手は空中で止まった。そこには何か見えない壁があった。

(硝子……?)

 その壁はまるで硝子のように透き通っていて、その場にあることをまるで感じさせない。

 しかし実際にはその場にその壁は立ち、それ以上先には勧めないのだ。

(私がいるのは、この硝子の上)

 ミリエラは見えない壁に寄りかかった。その瞳は虚ろ。何も考えたくは無いのに考えが、

事実が浮かんでくる。

(この一枚の硝子が割れれば、今までの私は消えてしまう……)

 自分という存在の下には自分が知らない、忘れていた事実が横たわっている。

 今ある自分の記憶を揺るがすほどの事実は自分に何をもたらすのか?

 自分が歩んでいる危うい現実はこのたった一枚の硝子によって保たれているのだ。

(でも……)

 ミリエラは硝子の向こうに泣いている少女に駆け寄る少女を見ていた、その少女は泣い

ている少女よりも年は上で、とても優しげな瞳を持っていた。

『大丈夫? ミリエラ』

『ひっく……う、う〜』

『どうしたの? 大丈夫よ。お姉ちゃんがついていてあげるから』

『う、お姉ちゃん〜』

 年上の少女の胸に泣いている少女が顔を埋める。

 その光景を見ている内にミリエラの意識は再び闇に落ちた。





 エスカリョーネはミリエラの体を抱き上げた。

 雪はやみ、空には星がちらちらと雲間に覗いている。

 ミリエラの体はそれまで降り続いていた雪で濡れた衣服のせいでかなり冷えていた。

 エスカリョーネはそれを寂しげな瞳で見つめると自分の外套でミリエラの体をくるむ。

「ミリエラ……大丈夫よ」

 エスカリョーネのその口調はとても温かみがあるものだった。

 しばらくミリエラを抱いたまま歩いていると、前方からエスカリョーネが知った人物が

駆けて来た。

(確か、マイス=コークス)

 エスカリョーネは自分の記憶からその名前を引き出した。ヴァイの生徒で秘めている魔

力はかなりのもの……。

「あ! ミリエラぁ!!」

 マイスはエスカリョーネに抱かれているミリエラを見つけると顔を輝かせて近づいてきた。

「ミリエラ! 良かったぁ」

 マイスは安堵の溜息をつき顔を満面の笑顔で覆った。エスカリョーネはマイスの顔を見

て思わず自分も笑顔を浮かべてしまう。

「あ、ありがとうございます。あなたは……?」

 エスカリョーネはマイスにミリエラを渡すと、不思議そうに尋ねてくるマイスに言った。

「たまたま通りかかったら、この娘が倒れていたから助けたのよ。熱があるみたいだから

絶対安静にしておきなさい」

 その口調は少しきつくてマイスには怒っているように聞こえたが、その中にある優しい

気遣いに気づいてマイスは安心した。

「分かりました。本当にありがとうございます!」

 マイスはミリエラを抱きなおしてエスカリョーネに背を向けた。そこにエスカリョーネ

から言葉がかかる。

「君、名前は?」

「あ、僕はマイス=コークスって言います。この娘はミリエラ……」

「マイス君。明日の正午に南の高台に来てくれないかしら?」

「……どうしてですか?」

 マイスは少し不信げに眉を狭めたがエスカリョーネはそれに構わずに顔に微笑を浮かべた。

「君に興味があるの。それだけではいけないかしら?」

 ――ドクン!。

 マイスはエスカリョーネの笑みに体の心からしびれる感覚を覚えた。不快ではないその

感覚は一気にマイスの全身に広がり汚染した。

「分かりました。南の高台ですね」

「ええ」

 マイスはまたミリエラを抱きなおし、もと来た道を引き返していった。エスカリョーネ

はその後姿を見ているだけだ。その表情には何も浮かんではいない。

「もう少し。もう少しなのよ」

 しかしその口調には表情とは違って感情が出ていた。

 希望と、不快が入り混じったような感情が。





 ラーレスはハリスのアジトがあった場所から数キロ離れた地点に位置した宿場町に宿泊

していた。その部屋にいるのは副官のエリッサ。《リムルド・ヴィーズ》副隊長のクーデ

リアである。

 ラーレスはハリスのアジト探索から帰ってきてからずっとクーデリアが所持していた資

料を見ていた。ラーレスがついている机の上には膨大な数の資料――《クラリス》で要注

意人物とされ、出奔、あるいは追い出された人物のリスト――が積み重ねられていた。

「あった……」

 ラーレスが短く、小さい声を出した。クーデリアとエリッサはその声に呼応するかのよ

うに自分の書類から手を離してラーレスに駆け寄った。

「見つかりましたか」

「この人物が……?」

 ラーレスは自分の開いているページを覗き込んでくる二人に言った。

「ああ、俺が見たのはこの男だ」

 以前、ハリスと対峙した時に気を失ったヴァイを助けた人物をラーレスはどこかで見た

ことがあった。それが気になってこうして調べていたのだ。

 そこに書かれた人物はラーレスが見た人物よりも若かったが、大まかな人相は同じだった。

「ゲイル=レイニス。10年前に《クラリス》を出奔。その後の消息は不明……」

 ラーレスは資料に書かれた事項を読んでいく。

「出奔の原因は《クラリス》で禁忌とされていた不老不死の魔術の研究のため。娘二人が

いたとされるが真偽は不明、か」

 ラーレスはそこまで読んで顔を上げた。

「……不老不死の魔術、ですか」

 エリッサが困惑気味に言う。

「現在、不老不死の魔術というのは確認されてはいない。古代幻獣達でさえ使ったという

事例は発見されてはいないんだ。はっきりいって不可能に近い」

「でも、どうしてゲイルはそんな魔術を? 当然禁忌に触れるという事は分かっていたん

でしょう?」

「それはおそらくここが原因でしょうね」

 エリッサの横で黙っていたクーデリアがラーレスの持つ資料の一部分を指差した。

 ラーレスとエリッサは二人で同時にその場所を見る。

 その場所にはこう書かれていた。

 ……3年前に妻と死別。原因は……

「ゲイルは悲しかったんでしょう。人間は魔術を自分の物として大体の事はできるように

なった。でも自分の大切なものを失ってしまった……」

 クーデリアは悲しげに言った。無意識に胸元のペンダントに手が行っているのをラーレ

スは気づかないふりをする。

「じゃあ、ゲイルは死んだ自分の妻を生き返らせる気で!?」

 焦るエリッサをラーレスは静かに制する。

「いや、死んだ者は生き返えることはない。不老不死の魔術は死者蘇生の魔術じゃないん

だ。今更不老不死の魔術をやろうとしているという事は……」

 ラーレスは一度言葉を区切った。

「また、同じ状況があるのかもしれない」

「……また近しい人が死にかかっている、ということですか」

 クーデリアが苦しげに言う。ゲイルの遭遇している事態を思っているのだろう。

「そうかもしれないが、それと魔術師をさらうという事との接点が見当たらないな」

「もしかしたら、我々が知らない接点があるかもしれません」

 ラーレスとクーデリアは事態の裏を理解しようと考え込む。エリッサはそんな二人を横

から見つつ静かに言った。

「ゲイルがヴァイさん達の所に現れたという事は彼がまた接触してくるかもしれません」

 エリッサの意見にラーレスは頷いた。

「そうだな。彼等に一刻も早く合流しよう。そうすればゲイルと会えるかもしれない」

 ラーレスの瞳に固い決意の光が灯った。これ以上好きにはさせないという意志が感じられる。

「クーデリア、君は……」

「分かっています。後始末は任せてください」

 クーデリアは顔に笑みを浮かべた。ラーレスはなんとなく情けない気持ちになって頭を掻く。

「じゃあ、早速準備だエリッサ」

「はい」

 そうして二人は部屋を出て行く。クーデリアはその後姿を少し苦笑混じりに見つめていた。





「あはは……」

 少年はその遺跡の中心部にある巨大なオブジェの上に腰掛けていた。

 王座のような椅子の後ろにそびえ立つ壁のような物。

 実際全ては壁のようにどこまでも続いていたが少年が座っている所は何か扉のようにも見える。

「もうすぐだなぁ」

 少年は本当に楽しそうに笑う。エスカリョーネに花のことを聞いた時に浮かべた作り物

の笑みとは違う、心の奥底からの笑み。

 しかしそれはどこか嫌悪感をそそられる笑みだった。

「もうすぐ、みんなと遊べるよ〜」

 少年は気分が高揚しているのか歌を歌い出した。

 流れるように、物悲しくも力強い旋律を歌い上げる。





・・・・・・忘れられし鼓動。けして消えることの無い存在。

      全ての事物が生まれ、消えゆく楽園。

      生も、死も、全ては決められた輪廻。

      繰り返す時間の輪をいつまでも、歩いて行く・・・・・・





 その旋律は繰り返し歌われ続けた。

 その詩は、聞く者によっては何か分かったであろう。

 それが、『古代幻獣の遺産』から流れる旋律だという事を。


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